カオナシ

文字数 3,997文字

 行きつけの店であるのに俺はなぜだか店主の顔が思い出せない。

 その店は大学から寮への帰り道にある。
ごみごみと昔ながらの小さな店が立ち並ぶ、今時ちょっと珍しい路地の中程。雑居ビルの地下1階三段ほど階段を降りた先にある珈琲店(カフェ)だ。
アンティークで固めた大正浪漫を感じさせる内装で暖色系のシャンデリアが樫のテーブルや椅子に黒蜜みたいな光沢を与えている。かなり上等な豆を挽いているのか珈琲も美味い。なのにどういうわけかいつだって客は俺一人。入学して間もない頃、はじめてこの店を見つけた時は穴場スポットだと喜んだものだ。
 この店で静かに珈琲を飲みながら、店主と話をしたり古本を読むのがレポートや勉強の息抜きになっていた。店主は俺の話を適度に相づちを打ちながら聞いてくれていたような気がする。

 ところがだ、こいつと何を話したんだか後から思い出そうとした時、これがまたさっぱりわからない。くだらない世間話だったような気もするし、つまらない授業の愚痴だった気もする。この店について他の人間に話そうと何度か思ったこともあるんだが、そのたびに記憶がビールの泡みたいにしゅわしゅわ溶けていく。
 そんなわけで、誰か友達を連れてきたこともなく俺は一人きりの優雅なひとときを珈琲を片手にまったりと過ごすのだった。
 
 ある時『今日こそはこいつの顔を覚えてやる』と意気込んで、ちょっと不審に思われるくらい店主の顔を至近距離からじろじろ眺め回したことがあった。店主は俺の不躾な態度を特に気にした風もなく、相手をしてくれた。グラスをせっせと磨いている手元がやけにはっきり思い出される。それ以外に覚えていることといったら背後にある豪華な装丁の古書とか林檎と梨が盛られた静物画とか飾り棚の上にある鳥獣の紋様のある壺とか……。

「いやあ店主さんイケメンっスねえ」とかなんとか適当な事をいいながら俺は店主の姿を眼に焼き付けようとした。しかし彼の眼を覗き込んだところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶は藻が繁殖しまくった汚い水槽の底みたいに不透明だ。
……彼?いや彼女かもしれない。カップの縁にこびりついた珈琲の残滓みたいな記憶を辿っていくと体型は凹凸がなくて寸胴だし、背も低すぎず高すぎずどちらともとれる。縦に細長いイメージだ。いつでも清潔感のある白い手袋を身につけている。

 俺はなんとか首から上を思い出そうとしたのだが、むしゃくしゃした子供が鉛筆で画用紙にでたらめな線を書き殴ったような映像がクラッシュするだけだった。

 それならばとスマホで写真を撮ろうとしたこともある……が『店内撮影はご遠慮ください』とやけにがびがびした平坦な声で丁重に断られてしまった。俺としてもこの店は気に入っているので出禁は勘弁願いたかったからな。そう言われちまったらポケットにスマホを引っ込めるしかないよな。

 まあそんなこんなで途中から店主の顔を見るのも諦めて、ここに来た時は上手い珈琲を味わうのに専念するってことにしたよ。誰とも共有できないひとときってのも偶にはいいもんだ。
 店主の正体がなんだって居心地の良さに変わりはないしな。

だけど俺のそんなささやかな安らぎのひとときには終わりが迫っていた。



 大学を卒業する間際、喫茶店のある古い路地が老朽化で取り壊されると噂で聞いた。
 その話を裏付けるように無粋な立ち入り禁止のテープがそこら一帯を結界みたいに囲うようになって、それは日に日に増えていった。
 次第に個人店が閉鎖して、次々とフェードアウトしていく中で不思議なことに喫茶店だけは白いテープの狭間でひっそりと営業を続けていた。

 残り少ない大学生活を謳歌していた在る日の事、夜遅くまで読書をしていた俺の部屋に1匹の蛾が迷い込んできた。真っ白でふわふわしてとても綺麗な蛾だった。その蛾が俺の周りをくるくると何度も回って、玄関口のほうへ飛んでいってはまた舞い戻ってくる。蛾は同じ動きを幾度も繰り返した。
 文字を照らす洋燈が蛾の羽根模様をぼうぼうと浮かび上がらせた。
 どこかへ誘われている……直感でそうとらえた俺は本にしおりを挟んで立ち上がると靴を履きふらりと部屋を出た。
 雲一つないのに、月が顔を見せない暗い夜だった。闇に沈んだ昏(くら)い海をはるか沖から眺めるように恐ろしいものが潜む淵をどこか他人事のように遠見している気分だった。

 真っ白な蛾は俺が数年間通い慣れた路地へふわふわと飛んでいき、とっくに店じまいした商店の合間に一軒だけ開いたほの明るい店へ吸い込まれていった。
 それは俺が愛した喫茶店だった。
 今までこんな時間に来たことはない。この時になってようやく俺は喫茶店の営業時間すら把握していなかったことに気づかされた。
 店のドアを開く時、何故だか俺は緊張で二の足を踏んだ。鳥居をくぐるような厳粛な気持ちになった。だがいつまでもそうしているわけにもいかないので決心してドアを両手で開く。すると喫茶店のカウンターごし、いつもと同じ場所、同じ格好で店長が立っていた。
 だが『それ』を眼にした瞬間、俺は驚きに息を飲んだ。 

 店長は首から上が無かった。

 正確には最初から首なんて存在しなかった。バーテンダーの正装から真っ直ぐに生えているものは乳白色の太い棒でそこから手袋に覆われた人間の手足が伸びている……そんな感じだった。
 襟元から顔を出している太い棒の先端には一本の芯がにょっきりと植わっている。
 
 どっからどうみたって妖怪だ……なのに俺はどういうわけか逃げ出す気にはちっともなれなくてカウンターの椅子に黙って腰掛けた。そうすると店長も普段どおり珈琲を出してくれた。 
 香り高くて芳醇な苦みが俺の舌を通って喉に流し込まれる。それをゆっくり味わい、指を温めるようにカップを撫で、飲み終わる頃に店長はすっと俺に向かってライターを差し出してきた。これは別れの儀式なんだと思い、俺は哀しくなった。

「俺はここが好きなんだ。あんたが化け物だって別に気にしない。秘密にしてくれって言うなら誰にも言わないよ」

 店長は言った。ずっとこの日を待っていたんですと。

「いいのかよ。これを点けたらあんたは消えちゃうんだろ?」 
 
 モノとしての生を全うできずに私は現世をさ迷っていました。だがこれでようやく終わらせることができます……そう店長は続けた。

「そっか……寂しくなるな。今までありがとう」

 俺は躊躇いながらもライターの火をじりじりと店長の芯に近づける。ライターの端から火が分けられ赤々と灯った。熱で蝋が溶け出し、ゆっくりと滴り落ちてくる。 
 炎の首が優しい光の環で俺を包む。燃え尽きるまで俺はその火を見ながら珈琲を飲み続けた。これが最期だとわかっていたから、きっと明日には忘れてしまうだろう他愛もないことを二人で夜通し語り明かした。店長に顔はなかったけどどこか満足そうだということが俺にはなんとなくわかった。

 気がつくと朝陽が差し込む自室で俺は机に突っ伏して眠っていた。
あれが夢でないことは水分でたぷたぷになった腹と握りしめていた白黒写真でわかった。


 それから俺は大学を卒業し、地元の中小企業で働くことになった。引っ越し先を決めるのに思いの外難航してしばらくは祖母の家にやっかいになることになった。
 そんな折、俺はふとあの不思議な喫茶店で拾った写真のことを思い出し、祖母へ見せてみた。 

「ばあちゃんこの人知らない?」
「あらあずいぶん古い写真だねえ……もしかして……」

 祖母は何かに思い当たったらしく、アルバムを取り出した。

「この人じゃない?」

 それは若い時の曾祖母と写真の男が並んで映っている写真だった。

「ひいばあちゃんの兄弟かなんかなの?」
「前の夫だよ。ひいじいちゃんと出会う前に結婚した人。仮祝言を上げてから3ヶ月後に戦地へ行かされて、亡くなってしまったんよ。まあ珍しくもない話さ」

 ばあちゃんの話だと彼の親族もみな戦争で亡くなってしまったのだとか。

「それで母さんは自分で遺骨を引き取ろうとしてね。供養するための蝋燭も用意していたらしいんだけどちょうどその頃に大きな空襲があって、何もかも実家に置いてきてしまったんだって。ちゃんと彼のお葬式を上げられなかったことが今でも心残りだって話していたよ」

 それで全てが腑に落ちた気がした。
あの場所はひいばあちゃんの実家の跡地で蝋燭はひいばあちゃんの前の夫に捧げられるはずのものだったんだ。彼は彼処(あそこ)で長い間ずっと自分に火を点すべき人間を待っていた。そこへ俺という子孫が現れて、ようやく彼は自分の役割を全うすることができた。
 俺は顔も知らないひいばあちゃんと若くして亡くなったひいばあちゃんの夫のことを思いながら黙って白黒写真の前で手を合わせた。

 ひとしきり亡き人を忍んだところであれ?まてよ?とそこで俺の頭にもう一つの疑問が浮かぶ。それだけなら彼はなんで4年間もあそこで喫茶店を開いて俺をもてなしたりしたんだろうと。
 ……これはあくまでも想像でしかないけど蝋燭のほうも俺との時間を心地よく感じてくれていたのかもしれない。
 本当かどうかはわからないが人間のために作られた道具は人間が好きだと聞いたことがある。だから大事にされたものほど持ち主の想いや霊力が籠もりやすくて妖怪化するのだとか。 たぶん彼が作られた経緯を考えるとひいばあちゃんと過ごした時間はほんの少しだったはずで、人恋しかったのかななんて俺は思った。
 だとしたらずいぶんといじらしい可愛い奴じゃないか。

 俺はじんわりと熱くなった目頭を押さえて、写真をアルバムに戻すとおもむろに立ち上がる。
 毎年彼が消えた日にはこの写真の前で蝋燭を一つ点そう……そう思いながら。





     


                                        
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