第1話

文字数 2,987文字

「雨は嫌いですか」
そんなことを聞かれたのは初めてだった。雨なんて濡れるし面倒だし、おまけに雨が降った朝は憂鬱になる。雨が嫌いな理由ならごまんとあるが、好きになる理由など何処を探しても見つからなかった。

彼と私は対極の人間だった。体育会系上がりでハキハキと喋る彼と、会社で必要以上の口を開かず身を潜めている私が関わることなどまずあり得なかった。
彼とは一年前の春に出会った。見るからにうるさそうな彼は、地方の大学から上京し新卒で私の会社に入社した。何事にも文句を言わず仕事に取り組む彼は入社後すぐに先輩たちに可愛がられ、仕事終わりによく飲み会に連れて行かれていた。そういったノリが苦手な私は定時になればそそくさと帰り、会社の集まりにいく事はほとんど無かった。入社直後は先輩たちも頻繁に誘ってくれていたのだが、あまりにも付き合いの悪い私を誘い続けられる程根気強くはなかった。

彼が入社して数ヶ月が経った休日、一度だけ彼に会ったことがある。基本的に休日に外出をする事は無いが、その日は世田谷美術館でエリック・カールの展覧会がやっていた為、珍しく重い腰を動かした。特別エリック・カールが好きな訳では無いが、美術館の雰囲気が好きで時たま足を運んでは無心で作品を眺めていた。その日は朝からあいにくの雨だったが、傘で防げる程度の小雨だった為、私を足止めする理由にはならなかった。
いつも通り誰かが良いと言った芸術をぼんやりと眺め、満足し美術館を後にしようとした時、後ろから私の名前を呼ぶ声がした。彼が美術館にいることにも驚いたが、それ以上に私の名前を覚えていることにとても驚いた。そして何より、彼も一人で来ていたことに一番驚いた。休日に彼に会うだけで三段階の驚きがあることに少し笑いそうになったが、気を取り直して彼と話しながら駅に向かった。
初めてちゃんと話した彼はとても新鮮だった。誰とでも仲良くなれそうなタイプだが、上京一年目という事もあり身近に友人がおらず、休日は一人で本を読むか今日のように美術館に出向くからしい。私の勝手な想像とは遥かに程遠かった彼と打ち解けるのに時間は掛からなかった。
来る時に気になっていた喫茶店に入り、カプチーノを注文するといつものように鞄から煙草を出した。
「煙草大丈夫?」
と彼に聞くと、煙草吸うんですねと驚かれた。そう言えば、会社の人に煙草のことを話したのは初めてだった。ばれると煙草休憩に毎回駆り出されそうだし、タバコミュニケーションとかいう面倒な付き合いが増えることなど目に見えていたからだ。会社の人には内緒ねと言うと、彼は小さく微笑んだ。
体育会系の人間を毛嫌いしている訳では無いが、今まで自分と気の合う人と出会ったことがなかった為、苦手意識が大きかった。その流れで彼のことも疎遠にしてしまっていた。
彼はとてもまっすぐな青年だった。音楽が好きだった彼は、何かしらで音楽と関われる仕事がしたいと思い、若手ミュージシャンの発掘に力を入れているうちの会社を選んだ事。大学まではサッカーに打ち込んでおり、高校の時は地元の国体選手にもなっていた事。そして大学で前十字靭帯を損傷し、サッカーを続ける事を断念した事。私は喫茶店で彼の知らなかった部分をたくさん聞かせてもらった。中でも驚いたのが、東京という場所を選んだ理由が友達がいないからだったという事だった。彼のような若い世代だったら、友達のいる場所を選んでしまいがちだと思っていたが、彼はそうでは無かった。彼の行動力の高さに感心していたが、同時に自分のことが少し恥ずかしくなった。大学で何となく上京し、何となく就職し生きている私にとって、彼は物語の主人公そのものだった。
彼と別れた後の電車で、昔付き合っていた人を思い出した。大学で上京してきた私にとって、二つ年上で東京生まれのその人は何処か魅力的で惹かれ、勢いで付き合い始めた。結局その人が好きだったのは私ではなく私の体で、卒業と同時に連絡は一切返ってこなくなった。

彼とはたまに合う関係性になった。仕事終わり二人で飲みにいく事もありとても新鮮だった。それから私たちは身体を交えた。真っ直ぐな性格故にか、何処となく不器用な彼は私の身体をとても大事に扱ってくれた。二人の関係性が社内に出回ってほしく無いと察してくれた彼は、仕事中に話しかけて来る事は無かった。そういう彼の優しさに、日に日に惹かれていく事を実感した。

年々短くなる秋が終わりを見せ始め冬に差し掛かったある日、いつものように彼と代官山のジャズバーに行った。お酒の弱い私を気遣い、酒よりも会話を膨らませてくれる彼に、私は完全に惹かれ切っていた。しかし一歩を踏み出す勇気は持ち合わせていなかった。六つ離れた歳の差も理由の一つだったが、私はこの関係性に酔っていた。この踏切を渡ってしまえば、私は轢かれてしまうのでは無いかと、そんな恐怖を感じていた。踏切を渡らずにいれば彼とこの曖昧な関係のままでいられると、そう思っていた。
金曜日の晩だった為、私たちはホテルに向かい体を交えた。彼の横で眠る夜は安心できた。

翌朝外に出ると外には雨が降っていた。朝の東京は雪国とはまた別の、肌を刺すような寒さがある。それに加えこの雨だ。傘を持っていなかった私は、ホテルの屋根で雨宿りをしながら、冷えた手で煙草に火をつけた。甘い香りの煙に似合わないくらい重たい煙草は、冷え込む私たちを少しだけ温めた。
傘を買いに行こうかと彼に言うと、彼は何故か少し嬉しそうにしていた。私には分からなかった。私と同じ傘に入れるのが嬉しいの?と茶化すように聞いたが、きっぱりと違いますと言われてしまい少しショックだった。駅に向かう道中、彼は私に
「雨ってなんか良くないですか」
と言ってきた。何が良いのか分からないと答えると、彼はそっか、とだけ答えた。

相変わらず彼は会社では人気の後輩だった。他の社員と飲みに行ってしまった夜は長く感じた。私も飲み会に参加してみようかと何度か考えたが、考えただけで行く気にはならなかった。一人の夜は次に彼と行く店を探し、彼との時間を楽しめるようにそれ以外の時間にあまりお金をかけなくなった。一年前までは何となく通っていた美術館にも、気づいたら行かなくなっていた。一歩を踏み出す勇気もない私は、いつの間にか勝手に彼の恋人を気取っていた。

春を目前に控えた三月の暮れに、彼は私の誕生日を祝ってくれた。普段は都内でしか会わないからと、桜木町のイタリアンバルを予約してくれていた。形に残るものは嫌かと思ったけどと言いながら、木製の懐中時計をくれた。その優しさと空間に酔いしれた私は、珍しく飲みすぎて酔っ払ってしまった。帰り道、酔った勢いで私は彼に好きだと伝えた。彼も応えてくれた。




四年経った今でも、あの時の恋が私の人生で最大の恋で、それ以上のものとは出会えないと思っている。
翌年、三十路を迎える私の誕生日に彼はいなかった。彼とは冬前に別れた。何が理由だったのか、今ではよく覚えていないが、別れを切り出したのは私からだった。その日は雨が降っていた。ドラマでありがちな大雨では無かったが、体が冷え込むには十分な雨だった。別れを告げた後、二人で彼の家に帰っていると、彼は私に雨ですねと言った。私はそうだね、とだけ答えた。
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