第8話 夢を見る死体

文字数 2,393文字

 ウイルスや寄生虫は進化の過程で、自分たちがより効率よく感染を広げられるように、さまざまな性質を獲得してきた。咳をさせて飛沫に乗って外に飛び出るようにしたり、場合によっては宿主の行動特性を変化させる。
 これに対して、タンパク質はそれ自体が進化する物ではない。今日に至ってさまざまな形態が存在するのは、それを作り出す生命が進化してきたからだ。
 それなのにここまで完璧な伝染病の病原体として機能しているということは、どこかでそれを“作った”存在がいるということだ。
 BSEやクロイツフェルト・ヤコブ病の原因であるタンパク質は、羊や人の脳の内部で発生した。ならば同じように“発生源”があるはずだいうのが、榊と友人の間での共通意見だった。
 だが、存在そのものを秘匿している病原体なので、いろいろな国の保健機関に電話をかけまくるわけにはいかない。意見書は出してみたものの、今のところ保留となっている。
 相手がタンパク質なので、分子系統解析の手法を用いて発生源を探す試みも提唱されている。アミノ酸やタンパク質、DNAの変化の度合いから、進化のプロセスや変化にかかった期間を見出す手法だ。
 ただ、今は比較対象がまだ確保できておらず、それができる専門家で、なおかつこの施設で働けそうな人材が確保できていないため、こちらも保留の状態だ。

 そのような情報を第3研究室の友人と交換していく中で、榊の気を引いた物があった。
第2研究室との共同で行った検査で、感染者の脳の機能を解析した際の話だ。感染者の認知機能は通常の人間のそれに比べて著しく損なわれているが、脳の働き自体は“壊れて”いないらしい。
 死体その物の見た目に反して、脳はどこかが壊死するようなことはなく、信号自体は発しているのだという。
 榊には専門外なのですべて理解できたわけではなかったが、ポジトロン断層撮影や近赤外線イメージングなどの手法によって、脳の各部位の活動量を把握できるのだという。
 その結果、感染して転化することで発生する症状に関わる部位――認知、言語、感情、外部からの情報処理――はそれなりに活発に機能しているのだという。
 それではなぜ感染者は“ゾンビ”になるのか。友人が言うには、脳のそうした部位は活動こそしているものの、それが外部へと出力されない、いわば夢を見ているような状態になっているらしい。榊は夢を見ている状態から“目覚める”、つまり情報が正しく出力されるようになれば治るのではないかといったが、事態はそう簡単ではないと言われた。
 確かにある時期まで脳は活動していくが、認知症と同様にそうした部位に不要な物質が貯まり続け、やがて委縮して機能を果たさなくなっていくらしい。これは脳の血管から侵食してきた病原性タンパク質による変質が原因で、どちらにしても阻止する方法はない。

 脳がまだ活動していることを証明するかのように、感染者は転化してからもしばらくは、おぼろげながら周りを認識しているようなそぶりを見せる。獲物を襲ったり追跡したりしていないときは、自分に関係ある場所をうろついたり、何度も行ってきた動きを繰り返したりすることが多いという。
 元がシステムエンジニアなら、モニターが置かれた机の前に好んで立つことが確認されている。兵士の場合、おもちゃの銃を与えるとそれを持ち、銃声を聞かせたときは構えようとする動作を見せる。
 実際に道具や機器を操作することはできないのだが、夢遊病の患者が起きているときの習慣を無意識に行うのと同じようなことをするのだ。
 そうした動きを見せるのは感染から長くても2週間程度で、それ以降は頻度が少なくなり、最終的に非活動時は立ったまま動かなくなる。榊がこの施設に来た時に見たように、エサになる生き物がやってこない限り、延々とその場に立ったまま待ち続けるだけになるのだ。
 “生前”の動きをトレースしている状態の感染者に意識があるのか、ということを友人に尋ねると、彼はしばらく考えた後、「おそらくある」と答えた。確証はないが、彼らは頭の中だけで“いつもの生活”をしているのだが、体の実際の動きと乖離してしまっているのではないか、と彼は考えていた。
 感染者は何も映っていないテレビを見つめて、いつも見ている番組が画面に映っていると感じている。彼らの能の中では、以前に見た番組の記憶が画面に投影されている。リモコンでテレビを切る場合は、実際に手に持ってボタンを押さなくても、いつもリモコンを置いている場所に手をやって、手を画面に向ける動作をする。
 動かない死体や同族は認識できないので、食い散らかされた死体が転がり、転化した感染者がうろつく道を、いつも通り人がいる通勤路と思って会社へと歩いていく。
 酷く奇妙な話だった。感染者は自分が死体のような見た目の凶暴な肉食獣になっても、しばらくはそれを自覚できず、頭の中では普段通りの生活をしていると思っているのだという。人間をゾンビに作り替えるタンパク質が存在するのだから、それぐらいおかしなことが起こっていてもおかしくは無いが。

 そんなことを思い出しながら、榊はカフェテリアがある区画に入ろうとした。この時間には第3研究室の友人はいないだろうが、また会った時に聞いてみようか。
 普段なら角を曲がると部屋が大きく広がって研究とは関係が無いところに入ったことが実感できるのだが、廊下の端は壁になっていた。道を間違えたかと思ったが、よくよく見ると壁ではなく鋼鉄製のブラストドアだった。
 緊急事態が起こった時に、発生源のある区画を完全に封鎖して隔離するための強固な障壁。銀行の大金庫のドアよりも強固で、内側で燃料気化爆弾が爆発してもそれを通さない。つまり、榊が今いる区画を焼き払ったとしても、他の区画に影響が出ないようになっている。
 “消毒”の準備が完了している。
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