第1話

文字数 1,879文字

 枯れているアジサイを横目で見ながら、アスファルトで舗装された道を歩く。炎天下を歩いているだけで、体力を消耗する。身体中から汗が吹き出してくる。スーツを着ていたが、二十代の若い男性が、平日の昼間から歩いているので、不審に思われてしまう可能性もある。警察官に職務質問されるかもしれない。
 昼ご飯を食べていなかったので、コンビニエンスストアに行き、缶コーヒーとサンドイッチを買った。あまりに暑いのでほとほと参ってしまい、公園にあるベンチに腰掛けた。汗拭きシートで、腕や首筋の汗を拭く。公園のベンチに座り、一人で缶コーヒーを飲み、サンドイッチを食べていると、幸福感に包まれた。
 次の瞬間、ポケットに入れているスマートフォンから、着信音が聞こえた。慌ててスマートフォンを、ポケットから取り出す。嫌な予感が当たった。予想通り会社からだった。煩わしかったが、着信音が鳴り止むまで、無視した。以前からプレイしたかったロールプレイングゲームがあり、課金してアプリをダウンロードした。本当は自宅に引き籠もって、ずっとゲームをプレイしたい。
 嫌な記憶がよみがえる。仕事をするのが嫌で、会社に行きたくなくなり、自宅の玄関で吐いたこともある。パワハラ上司を殺したくなったことも、二度三度ではない。もし拳銃があれば、銃を乱射して上司を殺害していただろう。
 ごろりとひっくり返り、空をのんびり眺めていた。夏の空は青く、白い雲が湧き上がる。カラスが飛んでいる。寝転がっているだけで幸せだ。幸せは案外お金がかからない。木陰だから日に当たらないし、気持ちがいい。
 今日も満員電車に乗り、会社に出勤した。最近はストレスのせいか、アルコールの量が増えている。出社するとき、胃がしくしく痛んだ。おそらくストレス性胃炎だろう。電車で通勤していると、お腹が痛くなり、途中下車し、慌ててトイレに駆け込むこともあった。過敏性腸症候群だろうか? 
 大学卒業後、大手企業で働きたかったが、内定をもらえず、しかたなく中小メーカーで働いていた。今日は途中で仕事を打ち切り、会社を飛び出した。詳しく記さないが、理由は経営者の言動だった。いわゆるオーナー社長だったが、労働者を搾取し、高級外車に乗っている。経営者の態度に腹が立ち、文句を言った。上司は「堪えろ!」と、プレッシャーをかけてきた。上司とも以前からそりが合わなかった。
 会社を早退した後は、予想に反して清々しい気分だった。退職届は内容証明郵便で送ればいい。会社に私物を置いているが、退職代行サービスに依頼すればいいだけだ。会社員が一人いなくても、会社は滞りなく回るだろう。
 私は社宅に住んでいたが、出なければならない。これからのことを考えると、お金を使いたくなかった。かんかん照りなので、早めに冷房が効いた建物の中に避難したい。時間を潰すために図書館に立ち寄った。図書館に行くのは久しぶりだ。
 椅子に腰掛け、一息ついた。図書館の建物はきれいでもないし、人もいない。図書館内で新聞や雑誌を読み、過ごした。冷房も効いているので快適だ。図書館は無料だし、職員も女性が多く、親切だ。レファレンスサービス担当の職員も、尋ねると丁寧に教えてくれる。
 本当は働きたくないが、働かないと生活できない。会社員は週四十時間、働かないといけない。おまけに残業もある。もう二度と雇われたくない。しかし起業するには資金がない。個人事業主になっても、会社員のように安定して収入を得るのは難しい。
 高校生のとき、飼っていたウサギのことを思い出した。ペットショップからウサギを小箱に入れて持ち帰ったときは、体も小さく、ぬいぐるみのようだった。しかし実際に飼うと、ウサギは飼い主にあまり懐かない。縄張り意識も強い。ウサギは捕食される側の動物だから、逃げるしかない。命を守るために全力で逃げるのだ。会社員もやばくなったら、逃げるべきだろう。無理して働いていると、うつ病や適応障害になり、自殺することになる。
 これからハローワークで失業保険の手続きをして、失業保険をもらいながら、暮らすことになる。就職活動を行う羽目になるのだろうが、ひきこもりやニートのような生活になるに違いない。社宅を出なければならないので、とりあえず実家に身を寄せるつもりだ。
 荷物を処分するなど、引っ越しで忙しくなる。実家では親から、「早く仕事を見つけて、一生懸命働け!」、と小言を言われるはずだ。当面、居心地が悪い生活になる。しかし自分の時間がたっぷりある。人生の夏休みだ。そういえば今日は花火大会があったはずだ。(了)
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