いかり

文字数 468文字

 ずっと遠くから、近づいてくる。
 過去のフリして、慎み深く、遥か下方から忍び寄って、気付けば歩調は秩序のリズム。
 それだけなら、まだよかった。
 
 逃げてるわけじゃない。
 でも、追いつかれそうな感覚だけはあった。
 歩く速度は変わらないのに、秩序は次第に大きくなるから、目を逸らそうと空を仰ぎ見た。

 「なんで、誰も言わなかったんだよ」

 ノスタルジーが、一隻の船を空に押し上げる。
 秩序の巧妙な罠だって気づいたときには、空の混沌に見惚れてた。
 海月が星みたいに泳いでる。
 鯨が低い唸りを上げてる。
 イルカが浜辺に打ち上げられて、その周りに蟹が集まってる。

 「頼むから、言えって」

 過去に失望して、いつか失望する未来に向けて会釈の言葉。
 郷愁は人殺し。
 空を仰ぎ見たのが運のツキ。
 気付けば砂浜に仰向けに倒れて、イルカの真似をしてた。

 それからはしばらく、何も言わなかった。
 遠ざかるように聴こえなくなる、一隻の船を目で追う。
 耳をそばだてれば、その船に手が届くかもしれない。
 錨だ。
 自分をそれに喩えている間は、ほんの少しだけ気が楽になった。

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