第1話

文字数 2,019文字

  月蝕

 ナナに再会した。
 哀しげに表通りを眺めている女性がいる。
 十年ぶりに見るナナの姿。胸元と背中の広く開いた黒のワンピース。長い髪から見え隠れするのは光るピアス。街角のポスターから抜け出てきたような女になっていた。
「ナナ。ナナだよね」
 毒々しい色の化粧をしていても笑った表情と声に面影が残っている。でも子供の頃には想像もしなかった女の顔が僕をドキリとさせた。
 この国では規制撤廃で民衆のエネルギーが一気に爆発した。急速に近代化する世界。石と漆喰の建物が人工のコンクリートや新素材の鉄になり天高くそびえ建つ。木炭に変わり石油の炎が揺らめく。
 日に日に押し寄せてくる未来の世界から抜け出てきたような女。民主化。自由と平等。目の前のナナこそが、この国に訪れた未来を具現化した姿だった。
「ナナ。どうして。旦那は」
「あぁ。うん。五年前、結婚式の前日に村を出たの。アタシだけじゃないわよ。同世代の子の半分は村を出て都心にいるわ」
 白く細い肢体をくねらせながら答える様は最近、夜の街で見かける女達のようだ。
「こっちで働いているのか」
「たまに頼まれればね。先月は洋服メーカーの広告でポスターのモデルをしたのよ。そうだぁ。今から、その社長さんと御食事なんだけどケンも来ない」
「いきなり僕が押しかけたら迷惑だろうが」
「そんな事ないのよ。アタシも社長さんもケンに会いたかったのよ。ケンってチョットした有名人よ。鉄で大金持ちになったんですって。ねぇ、社長に会ってよ」
 ナナが女の目つきで甘い声を出す。僕に何を期待しているのかは想像できたがナナについていく事にした。
 都心の繁華街は不夜城と呼ばれている。夜でも昼間のように煌々とした灯かりが点る。地上の灯かりで月が霞み、星の見えない闇の夜空が広がる。
 原色のネオンに踊り狂う市民。
 長い髪が乱れ、見え隠れするナナの仮面。つきものが憑依したような形相になるナナ。僕にしな垂れかかり甘い吐息を漏らす。
「ケン。好き」
 南国の消毒液に似た薫りの言の葉が虚しく消えてゆく。
 今、流行りの薬物に浸る女と男。まるで自由と平等をもたらす魔法の粉だと信じているようだ。
 ナナのパトロンの洋服メーカーの社長が私に近寄ってくる。
「ケンさん。私は時代を創りたいんですよ。ファッションは自己の開放なんです。もし私の業界に興味が有りましたら連絡下さい」
 僕は無言で踊り狂うナナを見ていた。
「ケンさん。宜しかったら、ここに居る好みの女を連れだして行って下さい」
 上目遣いで陰湿な笑みを造る社長。
「イヤ。帰ります。ナナを宜しくお願いします」
 僕は不夜城を後にした。
 一か月後、ナナに呼び出された。
 ナナが住む建物の最上階。部屋の扉を開けた途端に消毒液の湿った匂いがした。
 ドス黒く痩せたナナが床に倒れている。お腹を押さえながら呻き声を漏らし、身体をよじらせている。
「大丈夫か、ナナ。どうした。怪我か」
 脂汗と鼻水だらけの顔を歪め、首を振るナナ。
 グゥオッッ。胃液を吐くナナ。過呼吸のように痙攣を起こす。ナナの尻のあたりがドス黒く滲み、赤黒い血が流れ出す。熱もあるようだ。急いで病院に運ぶ。
 流産だった。
 社長の子なのか、行きずりの男の子供なのか。とにかくナナの子供が。一センチメートルにも満たない小さな命が流れて逝った。
 熱の下がらないナナ。病院の待合室で朝を迎えた。明け方に急変する容態。あっけない幕引き。ナナは目覚める事なく子供の後を追った。洗い流されたナナの顔は白く穏やかだ。
 ナナは都心に出てきて何をしたかったのだろう。
 僕は何をしてきたのだろう。ナナが死んだ年に僕は破産した。子供の時にやったババ抜きと同じだ。そういえば、僕は弱かったよな。
 鉄の需要が落ち始めた時に大量に仕入れた。売り先が無くなって在庫を叩き売る。金貸しに追い込まれる。全財産を失うのに一日もかからない。一度、底辺に落ちたら這い上がれない社会構造が出来上がっていた。再起の為の資金も無く、安い賃金を稼ぐ仕事もない。
 僕は幼い頃にナナと過ごした村にやって来た。
 かつての村は人影のない森になっている。家族で過ごした家は朽ち果て、祭りが行われていた祭壇も無くなっている。
 国境(くにざかい)に大きな湖がある。光の波が打ち寄せる岸辺に一羽の小鳥が舞い降りた。炎のように真っ赤なその小鳥は首を伸ばし翼を広げた。僕の方を見たかと想うと西の空へ飛び去った。真っ赤な鳥は太陽の光と溶け合い、大きく逞しくなっていく。
 昔、聞いた事のある異邦人の伝承では魂を守護する迦楼羅という鳥がいるらしい。ナナの魂は迦楼羅に出逢えたのだろうか。やがて、大仏のように大きな満月が湖の畔から昇ってくる。
 湖一面に輝く、月の明かりの階段を昇ってゆけば、ナナに会えるのだろうか。僕は夜通し湖に佇む。
 朝日が昇り、湖一面の蓮の華が色づく。幾萬の華の薫りに包まれる。蓮の華の(うてな)に、ナナの御霊(みたま)が現れ、静かに消えて逝く。



 
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