友の耳に念仏。

文字数 7,747文字



俺は競馬が好きだ。
学生時代からの趣味で、キャリアはかれこれもう五年近くになる。
そんな俺の週末の楽しみは競馬場に行って競馬に高じること。そんな金曜の夜、部屋で土曜競馬の検討をしていると電話が鳴った。友人の牧村からだった。
「久しぶりだな。三か月ぶりか」 牧村は、学生時代からの友人で競馬を通じて親睦を深めた仲だった。あの頃の俺達は毎週のように競馬場に行ってはあれやこれやと競馬談議に花を咲かせ、一喜一憂したものだが、大学を卒業して、お互いに就職してからはめっきり一緒に競馬に行く回数は減り、今となっては半年に一回程度のサイクルになっていた。
「明日、馬行くなら連れてってくれよ」と、牧村は言った。
「ああ、いいよ。じゃあ明日の九時にいつもの場所でな」


土曜の朝九時、府中本町駅の改札で待っていると、改札の向こうの人ごみの中で手を振る牧村が見えた。
「久しぶりだな」 たったの三ヶ月。見た目は何もかわっていなかった。ある一点を除いて…

遠巻きによく見てみると、牧村の傍らに見知らぬ女がいた。
牧村は「あ、紹介するよ。俺の彼女、磯部トキエさん」と言った。

俺は言葉を失った。
その女は、明らかに五十過ぎのおばさんだったからだ。
ガリガリの体に、髪にきついパーマをあてた、やたらエラの張った顔面に、これでもかと厚化粧を施した、目つきの悪いおばさんだった。
おばさんは日傘をもっていた。クリーム色字に花柄模様。柄の金具が艶消しの金色でなんとも安っぽい。
服装は小さなフリルのついた、これまた花柄のブラウスに、地味なベージュのスカート。靴はエメラルドグリーンのミュール。全体的にお洒落にまとめたつもりなんだろうが、こっちとしてはけばけばしい悪趣味なおばさんにしか見えなかった。

「あ、ども」と、ペコリと軽く会釈をすると、彼女(おばさん)は俺の方を見ずに「こちらこそ」とゆったりした口調で言った。ガラガラにしわがれたお婆さんの声だった。
「突然でごめん。今朝どうしても競馬行きたいって言いだしてさ…」と、牧村は小声で言うと、気まずげにうつむいた。
「いやあ、別にいいよ」


もちろん、全然よくはなかった。
言い方は悪いが、邪魔になるからだ。たかがお遊びとはいえ、競馬は否応なく金銭を消費するれっきとした博打(ギャンブル)であるのだから、勝ち負け次第では今後の生活にも響くのだ。そんな真剣勝負の現場に初対面の人間、しかも彼女(おばさん)を連れてくる神経が信じられなかった。
でも、牧村は長年の友人だ。今まで奴と一緒にいて、嫌な思いをしたことはない。ほとんどされたことはないが、頼みごとをされたら、たぶん俺は断れないだろう。
だから、今回の一件に対する感情は、怒りよりも戸惑いの方が多くの比重を占めていた。もっとも、その両方とも博打をする上では不純物に過ぎない。集中力を乱されてはいけない。
何らかの複雑な理由があるのだろう―ぐらいにとどめて、いつもどおり楽しむことに決めた。

それにしても―俺の中に去来した、この戸惑いの要因は何よりは、“その彼女(おばさん)”の第一印象の悪さだった。
ふてぶてしい。大仏のような顔面に、無表情の仮面をかぶせたような…。
もちろん、俺も一瞬とはいえ、苦い表情をしていたかもしれない。多少は失礼な面なあったことは認めよう。でも、これは俺の勝手な偏見かもしれないが、大抵のおばさんは男の若者にはにこやかに接するものではなかろうか。少なくとも俺は初対面のおばさんに冷たい態度をとられたことはない。でも、彼女(おばさん)は違った。まるで自分が世界の中心であるかのような、傲岸不遜を画に描いたような、高飛車千万のオーラを放ち、俺を、競馬を、はては彼氏(牧村)までも見くだしているかのように見えた。

きっとこの彼女は、自分をおばさんと思っていないのだろう。自分はまだ心も体も若くて清くてピッチピチだと思っているんだ。そうすれば、あの横柄な態度にも多少は納得がいく。勘違いして生きているカワイソウなおばさんなんだーと、無理矢理に納得することにした。そうでも思わないと、楽しい一日をブチ壊される気がしたからだ。

府中競馬場までの駅通路を牧村を真ん中に置いて横並びに向かう。強烈な便所の芳香剤と思しき臭気が、瞬時に鼻孔を突きぬける。おばさんのつけた香水の匂いだ。若者がつけたら全然違う匂いなんであろう、この匂い…
「ラベンダー…」
「ラベンダー?」
「あ…ラベンダーガーデンって馬知ってる?」
ついついもれたつぶやきを適当にごまかした。気軽に世間話もしにくい雰囲気だ。
とにかく今は牧村に負担はかけられないので、少しぐらいは彼女との親睦を深める必要はある。

でも俺は、牧村に、彼女(おばさん)のことをなかなか訊けないでいた。
まず何と呼べばいいのか。これが若い女の子であるなら、気軽に下の名前でも呼べそうなものを、相手は母親といっても違和感のないほどに何十歳と年月の離れたご婦人だ。「お姉さん、お嬢さん」では見た目の違和感がありすぎるし、呼び方次第ではイヤミと受けとられかねない。必要以上の関わりは極力避けることにして、どうしても話さないとならぬ場合は、下の名前(トキエさん)で呼ぶことに決めた。

牧村の袖を引っ張ると、耳元で小声で(彼女が競馬経験者であるか否か)を訊いてみた。すると、牧村はキョロキョロと途端に怪しい挙動を繰り返した後、ソッポを向く彼女の肩を指でツンツンと突っつき、ゴニョゴニョと耳元でささやいた。
いったい、何がしたいんだ。いったい、何をビビっているんだ。そもそも俺の知る牧村はこんな奴ではない。もっと飄飄とした陽気な男だった筈……牧村は次に俺の方を向くと、
「やったことないみたい」と力ない声で言った。

そこから気まずい沈黙が流れた。
俺は考えていた。いったい、このおばさんのどこに魅力があるのか、皆目俺にはわからなかった。夜が強いのだろうか。いや、牧村は昔からそっち系の欲求には至って淡泊な男だ。されとて、牧村がこのおばさんの手籠めにされたとも到底思えない。何が彼をここまでかえてしまったのか―。俺は意を決して牧村に「ところで―」とことの内実を切り出した。
「出会いはいつ頃でどこだったの?」
「ああ、半年前に得意先の製紙工場で知り合って…」

そこからまた気まずい沈黙。彼女(おばさん)を見ると、まだ仏頂面でソッポを向いていた。なんて感じ悪い女なんだろう。最初は極度の人見知りで、それでも競馬にすごい興味があって、たまたま彼氏が競馬に詳しい友人と競馬に行くって言うから、つい無理をいって、うかがいたてまつりましたのよ…って感じかと思いこむことしていたが、ここまで傲慢な態度を見せられると、もう我慢ならなかった。もしかしたら、牧村はこのおばさんに弱みを握られていて、半ば脅迫気味に付き合ってることにされているのかもしれない…とさえ思った。本当に俺の知る牧村はこんな男ではない筈なのだが。

府中競馬場に着くと、俺たちは無言でスタンド席に向かった。
ゴール板が目の前に見える席を陣取ると、俺は久々に口を開いた。
「朝飯まだなんだよね。ホットドッグでも買ってこようか?」
「…あ、俺はいいよ」
「…トキエさんは何か入りますか?」 試しに名前を呼んでみた。

反応がなかった。咄嗟に牧村が訊く「何か食べたいもの…とか」
おばさんは顰めっ面で首を横に振ると、またそっぽを向いた。

俺は無視されたのだろうか。この微妙に苛立ちにも似た、もやもやした感覚は何なのだろう。いつもの俺だったら「ババア無視すんなよ」と怒声を浴びせているところだが、そんなことをしたら牧村に迷惑がかかるし、競馬に集中もできなくなる。
「ビールいるか?いつもの朝ビールいっとく?」と、気を取り直して、競馬場に行くといつも飲むお決まりの朝ビールについて訊いてみる。
「…いや、俺、酒やめたんだ」
「あ、そうなの…?」 まさか牧村が酒をやめるとは思わなかった。
「じゃあタバコ吸いに行こうや」
「…いや、俺タバコやめたんだ」
「あ、そう…なのか」

ふと、牧村の背後を見ると、おばさん(彼女)が、ギロリと魚の目をして牧村を睨んでいた。
俺はビール片手に、喫煙所でおっさん達に囲まれながら、すねた子供のようにタバコを吸うことになった。


ひたすら競馬にだけ集中しようと決めた。時間は11時前。そろそろ第3Rがはじまる頃合いだ。
彼女の話題に関しては言葉を濁す友人だったが、競馬に関する話題はいつもどおりだった。友人は、レース展望や馬の調子を尋ねると、まるで夢から覚めたように息せき切ってしゃべりはじめた。おばさん(彼女)を見ると相変わらずの判を押したような仏頂面である。いったい、コイツは何をしに、わざわざここに来たんだろう。
牧村とおばさん(彼女)は、馬券を買いに場内の発券機まで行くときも、双方どちらかがトイレにいくときも、なぜか一緒に行動した。その都度、俺はスタンドに孤立することになったが、どうせあのおばさんと親しくなる気はなくなっていたので、どうでもよかった。ただ、牧村が俺と彼女が二人きりにならぬよう気を使ったのあれば、申し訳ないと思った。


それから第5Rが終わり、昼休憩の時間になった。収支はまずまず。開催間もないだけあって、まだ馬場は生きている。逃げ・先行有利の傾向に揺らぎはない。
ちなみに、おばさん(彼女)はというと、相変わらずその場から一歩も動こうとしなかった。どうやら競馬場に来たのに競馬をする気がないらしい。たまに牧村の袖を引っ張って、ボソボソ耳打ちをすると、一緒に場内とスタンドを行ったり来たり―。競馬新聞に目を通そうとはしなかったし、馬券を買うことはおろかレースを見て楽しんでいる様子もなかった。
何が目的なのか、よくわからないが、牧村がこの彼女でいいと思ったら、それで仕方のないことなのかもしれない。余計なものは眼中に入れず、鳥千のフライドチキンを食べながら、俺は競馬新聞を広げた。


東京6R・サラ系3歳上[指定]500万下 芝1600m 14頭立て

「このレース、狙ってるのがいるんだ」と、牧村は言うと、馬柱の8枠14番の馬名を指さした。
「サンエイソロモンか。牝馬で5歳…想定単勝オッズ8番人気…近走成績からは狙いにくいなあ」

サンエイソロモンは、前走小倉の芝1700で6着。前々走の小倉同条件も6着。いずれもスタートするや、アホの如く後方に下げ、4コーナー手前に来てようやく追い出すと、これまたアホの如く、大外ぶん回しで、そこからグングン伸びて6着でゴールイン。地味に上がりは最速であったが、それなりにいい脚を使う馬は、いつだってそれなりだ。

「陣営が勝ちたくないんじゃないの。しばらくこのクラス泳がせてシコシコ稼ぐ算段だろ」
「いや、それはないよ。わざわざ出走手当欲しさに府中まで遠征はしてこないさ。帯同馬ってわけでもないし。今まで屋根がアンちゃんだったけど、今回は池添が乗ってる。まぎれもなく勝負気配だよ」
「あと見ろよ。この馬412キロしかないぜ。牝馬限定ならともかく牡馬混合じゃお呼びでないよ」
「確かに小柄で華奢だけどキャリアはあるからな。牡馬相手でもいけるよ」
「どんなもんかねえ…」
「それならほら、厩舎コメントを見てくれよ」
“馬体減りもなく順調にきている。小柄な牝馬でもまれ弱いので大外枠なら。”

「今回は8枠。まさに絶好枠だよ。東京マイルは未勝利を勝った舞台だし、条件も悪くない」
「府中マイルで枠の有利不利もあるもんかねえ。でも輸送で減ってたら元も子もないぞ」
「馬体重はこれから見るよ。多少減っていても使い込んでないから大丈夫」

(小柄な牝馬か。お前好みの女だなあ)と言おうとしたが、やめた。
「俺はコイツからいく。今回は勝てるよ」―と2枠2番を指さす。
「ああ、ヒカルトウドウね。どうなんだろう」

ヒカルトウドウは、前走中山の芝1600を3着だった。好スタートから無難に先行集団につけると、道中は三四番手でラチ沿いをキープし、そのまま順調に4コーナーを手綱をもったままの余裕残しで先頭に躍り出るや、なぜかゴール200m手前で大きくヨレてバランスを崩し、大外から差してきた2頭にアッサリと差された。持ちタイムと道中のペースを兼ね合わせ分析しても上がりは悪くないし、バテたわけではない。ただ前々走は似た条件で折り合いを欠いて11着と基本アテにならない。
「ジリ貧なんじゃないの。いつも最後に勝ちきれないレースばっかりで」
「決め手がないんじゃなくて、気性に問題があるんだよね。折り合い悪いし」
「乗り難しいタイプか…。人気も6番人気ぐらいだし、アテにならないんだな。府中にも実績がないし」
「今回はウチパクが屋根だから問題ないと思うよ。それより厩舎コメントを見てみろよ」
“乗り難しく、ゴール前でヨレるくせがある。今回はリングハミを替えたので良い方に出れば。”

「リングハミだよ、リングハミ。今回は真っすぐ走ってくれるよ」
「それ以前にこのレースは速いのが多いからペース的にキツイんじゃないかなあ」
「確かに逃げ馬多いな。でも能力的に抜けた逃げ馬はいないからな。東京マイルを逃げきるのは難しい」
「…俺は買わないなヒカルトウドウは。内田が屋根でも引っかかると思う」
「俺だってサンエイソロモンは買わないよ。来ない来ない」


パドック・返し馬を見ると、俺のヒカルトウドウは毛ヅヤ・歩様ともに申し分なく、本番でポカをやらかさない限り、勝利は確実に思えた。牧村イチオシのサンエイソロモンは馬体減もなく、調子はそこそこいいぐらいに俺にはうつった。
いろいろ悩んだ挙句、俺は当初の予想通り2枠2番のヒカルトウドウを軸に馬連流しで4点2000円ずつ、そして単勝に10000で勝負した。牧村もまた当初の予想通りに8枠14番サンエイソロモンを軸に馬連2点買い、同じく単勝10000を投下した。


輪乗り…もうすぐレースが始まる…独特の緊張感…ワクワクするなあ、スターター…早く歩け…旗を振る…ファンファーレ…ゲート入りは順調…実況の声が場内に響く…
『最後…8枠14番…サンエイソロモンがゲートに入って…』
頼むぞ…出遅れなよ…

『スタートしましたっ…ほぼ揃いました…まずは先行争い…ゆっくりとアイズコネクションが先頭に立ちました…間からセキラウンが二番手…三番手外にエイコーソロボンヌ…四番手の内にヒカルトウドウがつけました…少し間隔があいて…プラムツリースカイが五番手に…』
いいぞいいぞ…内田それでいい…そこで折り合いに終始して…脚をためるんだ…

『中段内めにシンクローズ…外めにマグノリアスカイ…間にソウウンレナ…ジャクサイ…アイコンシェル…そして少し離れた最後方にサンエイソロモンという体勢で1000m通過…』
なんだやっぱり最後方じゃないか…今日の馬場でするような競馬じゃないぞ…

『800m通過…先頭はアイズコネクション…ここで二番手のセキラウンが下がって…エイコーソロボンヌと中段にいたセキトバクィーンが並びかけていく…ヒカルトウドウも内めから差を詰める…』
飛ばすなあ…おや、思ったより早く鈴つけにいったな…一気に速くなりそう…やばいな…

『4コーナー手前ここでヒカルトウドウとアイズコネクション、並んで直線コースに入りました。残り400mヒカルトウドウ楽な手ごたえで先頭、後続に大きく差を広げましたっ』
おいおい、ちょっと早いんじゃないの…我慢できなかったのか…?

『後続にぐんぐんと差を広げるヒカルトウドウ。これはもうセーフティリードかっ…』
早い早い…辛抱してくれ…そのままそのまま…

『しかしここで大外からサンエイソロモンが突っ込んできたっ…すごい勢いで突っ込んでくるっ…内と外大きく広がって2頭の一騎打ちになりました』
…おいおい…来ちゃったよ!…頼むよ粘ってくれ…そのままだそのままだ…

『大外からサンエイソロモン、粘る粘るヒカルトウドウ、おおっとここでヒカルトウドウ少しバランスを崩した。ぐいぐいと差を詰めるサンエイソロモン!食いさがるヒカルトウドウ!ヒカルトウドウか!サンエイソロモンか!並んだ並んだ!二頭並んでゴールイン!』
くぁwせdrftgyふじこ!!!!





二頭は鼻面を合わせたまま、ゴール板を駈け抜けた。ヒカルトウドウはまたもゴール手前で口向きの悪さを見せた。リングハミの効果はなかったようだ。「あれがなければなあ…」―俺はグーで膝を叩いた。
二頭の勝ち負けはターフビジョンのスロー再生で見ても微妙すぎるほど微妙なもので、ゴール板前が大写しになるとにわかに場内がざわめいた。皆、口々に2番だ14番だと言い合っている。「こりゃわからんなあ」―俺は首をかしげた。条件反射的に牧村を見ると、彼もまた首をかしげていて、「同着でいいんじゃないかなあ」と言って笑った。

案の定、写真判定は長かった。「2番…2番…」と俺は祈った。牧村もまた「14番14番…」と祈っていることだろう。馬連にお互いに馬は入っていないが単勝は10000円突っ込んでいる。まさに運命の分かれ道だ。

どれぐらい時間が経ったか、俺からしたらとてつもなく長く感じた。他のことが全く手につかない。
場内がざわめく…ギュッと目をつぶる…おそるおそる薄めがちに目を開くと…電光掲示板に表示されていたのは『1着14番 2着2番』という残酷な数字の配列だった。

「じゃあ俺…払い戻しに行ってくるよ」
牧村は俺に気を使って言葉少なに払い戻しに向かった。もちろん、あのババアも一緒だ。
俺は(あのババアさえいなければ…)というヤツアタリにも近い後悔をしていた。正直、あのババアがいなければ、馬連の相手にサンエイソロモンを加えていたかもしれない…後悔先に立たず…とは言うが…どうして俺は、なんで俺は、サンエイソロモンを軽視したのだろう。そもそも俺は遠征馬をそこそこ重視する予想スタイルだったような気がするんだが…なんでそんな基本的なことを忘れて、この馬だけをとんでもなく軽視してしまったのか…悔しい…
「畜生…」―不意に悔恨の言葉がもれる。俺はもう一度強めに膝をグーで叩いた。

この6Rを無残に外した悔しさが尾を引いて、次のレースにはいまいち集中できなかった。過去にこの手の負け方は何度かしたことはあるのだが、今回の負けはそれらの負けのどれとも比にならないほど悔しかった。今までの負けとは少し感覚の違う、自分の全存在まで否定されたような負けに思えた。
「ちょっといいかな」 8Rが終わり、俺は牧村の袖を引っ張った。「話があるんだわ」
「何だ?」

俺は友人の袖を引いて場内に入ると、言った。
「俺、金なくなっちゃったから帰るわ」
「帰るのか…。なんか…いろいろごめんな」
「いやいや、いいんだよ。気にすんな。んで、ちょっとお願いがあるんだけどさ…」
「…お願いって」
「金貸してくんないかなあ。4万…」
「おお。いいとも。…何に使うの?」
「ちょっとソープ行ってくるわ」
「はは、元気だなあ、お前は」
「当たり前だろ。お、あんがとな…」
「…じゃあまた今度」
「おお、達者でな。彼女さんと仲良くな」
「…うん、ありがとう…また今度な」
「おお、また今度」



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