忍耐とは
文字数 2,223文字
風呂へ行く。風呂に入るためだ。扉を開けると、メモ(B5)が置かれていた。
202×/5/21(金) 湯量
㋯入る前 195ℓ 16:30出 考えて入らないと
243ℓ 無駄使いしてしまいます
温度設定 43℃ 冬場と違うので
節約できると思います
お願いします
お湯・43℃で、熱く感じた。
㋯というのは母の名前の頭文字だが、195ℓ 243ℓとは、どんな計算をしたのか。43℃で、熱く感じたとは如何に。ともあれこれは、「あんたは湯を使い過ぎだ」というメッセージである。図らずも意訳をさせられたことに腹を立てるのはやめて、私は返事を書いた。
【参考】
輪光市 水道料金
基本料金+従量料金(1立方メートル=1000ℓにつき)
↓
ex. お風呂 :180ℓ
朝シャン:120ℓ
洗濯 :110ℓ (国土交通省)
お風呂 180ℓ×30日=5400ℓ
朝シャン120ℓ×30日=3600ℓ
合計:9000ℓ=396円
P.S.冷蔵庫と冷凍庫のミカンはいつになったら消費されますか?
いつまで経っても食べてもらえないミカンのことを考えると胸が痛むので
できるだけ早く食べてあげてください。
ミカンとは、冷蔵庫に20個、冷凍庫に20個、母の部屋に52個が3カ月以上放置されている文旦のことである。概算で396円の水と、彼女(母)が買った既に腐りかけている文旦の金額とを比較してもらいたい気持ちを込めたのだが、伝わるだろうか。部屋に戻ってパソコンで調べながら書いたら、1時間もかかってしまった。
返事をメモの上に置き、風呂に入った。
◇
私の勤め先は、自宅から車で14㎞の道程を50分かけて行ったところにある。「ものづくり」の会社だ。品性は下種。なんとなれば、設計ミスは当たり前(人間だから)。クレームは揉み消す。揉み消せないクレームは歪曲して被害(人事のマイナス評価)を少なくする。品質改善活動は議事録をでっち上げる。曰く、「やっていないことを、いかにやっているように見せるかが、腕の見せどころだ、ゲハハ」。この現状を上申したところ、私は奇しくも【讒言】【讒誣】【佞臣】という古い言葉をしみじみ覚えることになる。以来、耐え難き恥辱に耐え、こんな仕事に就くしかなかった自分を省みて、なるほど会社とはダメな奴の共済組合みたいなものだと悟った。
子どもの頃から両親は不和だった。私より2年早く生まれた兄はあらゆる暴力を用いて私を嬲った。母曰く「長男には長男のストレスがある」父曰く「年頃の男の子はそういうこともするから、受け入れてやれ」だ。両親はそれぞれ「あんたは父親そっくり」「お前は母親と同じ人間だ」と私に言って、離婚した。
当たり前だが心身を故障させた私は高校をドロップアウトするも、旧大検を経て四大を卒業するくらいには器用だったが、ブラック企業の洗礼を受けて転職、現在に至る。実家を出る? それは強者の言葉だ。宮沢賢治も、坂本龍馬も中岡慎太郎も、実家からたっぷり仕送りをもらっていたのだ。なぁにが雨(略)。
泣いても誰も助けてはくれない。私は般若心経を暗唱し、コヘレトの言葉を読み、五木先生の『ただ生きていく、それだけで素晴らしい』(PHP研究所)に支えられて今日まで生きてきた。
◇
さて、下種な仕事をこなして、金曜日である。今夜は思いっきり楽しもう。録画しておいた映画を観るんだ。スーパーでお肉かなにかを買って食べよう。お惣菜も好きなのを買っちゃおう。ビールもケチらないで買う。先にお風呂に入って、お布団も敷いておいて、いつでも寝られるようにスタンバイしておくのだ。うふふ。パジャマはどれも古いけどお気に入りのあれにしよう。車を14㎞50分間運転して、スーパーで買い物をして帰宅し、風呂に入った。
◆
かつて痛ましい事件があった。ひとりの男が、隣家の老婆を平手で一発殴り、死なせてしまったのだ。幼い頃から忍耐を身につけ、実直に生きてきた男には、同情が寄せられた。
聡明な裁判長は言った。
「物に当たってもいいから、人を殴ってはいけない」
◆
準備万端。塩で焼いた鳥のナンコツ。総菜のマカロニサラダ、アジの南蛮漬け。ビールにしようと思ったけど高いのでやっぱり発泡酒のロング缶にした。グラスに注いで、録画した映画の再生ボタンを押す。
さぁさぁさぁ!!! ――
奇声の方へ振り向く。シミだらけの肛門みたいな顔をした、醜い老母が、私を睨んでいる。
無眼耳鼻舌身意。無眼耳鼻舌身意。空の空。空の空。すべては空である。
殺してやる。
私は飯茶碗を叩きつけた。
「物に当たってもいいから、人を殴ってはいけない」
ガシャン!!!
もうひとつ。硝子のコップ。
パッッシャン!! シャリシャリ~
あんた、なにする―― なんか聞こえるなあ。酒蔵の試飲でもらったお猪口でシメだ。
ピシャッ!
◇
私は家を出て、ビールを買い、独りで飲んだ。
美味しい。
裁判長。五木先生。私は、ただ、生きていきます。
了
202×/5/21(金) 湯量
㋯入る前 195ℓ 16:30出 考えて入らないと
243ℓ 無駄使いしてしまいます
温度設定 43℃ 冬場と違うので
節約できると思います
お願いします
お湯・43℃で、熱く感じた。
㋯というのは母の名前の頭文字だが、195ℓ 243ℓとは、どんな計算をしたのか。43℃で、熱く感じたとは如何に。ともあれこれは、「あんたは湯を使い過ぎだ」というメッセージである。図らずも意訳をさせられたことに腹を立てるのはやめて、私は返事を書いた。
【参考】
輪光市 水道料金
基本料金+従量料金(1立方メートル=1000ℓにつき)
↓
ex. お風呂 :180ℓ
朝シャン:120ℓ
洗濯 :110ℓ (国土交通省)
お風呂 180ℓ×30日=5400ℓ
朝シャン120ℓ×30日=3600ℓ
合計:9000ℓ=396円
P.S.冷蔵庫と冷凍庫のミカンはいつになったら消費されますか?
いつまで経っても食べてもらえないミカンのことを考えると胸が痛むので
できるだけ早く食べてあげてください。
ミカンとは、冷蔵庫に20個、冷凍庫に20個、母の部屋に52個が3カ月以上放置されている文旦のことである。概算で396円の水と、彼女(母)が買った既に腐りかけている文旦の金額とを比較してもらいたい気持ちを込めたのだが、伝わるだろうか。部屋に戻ってパソコンで調べながら書いたら、1時間もかかってしまった。
返事をメモの上に置き、風呂に入った。
◇
私の勤め先は、自宅から車で14㎞の道程を50分かけて行ったところにある。「ものづくり」の会社だ。品性は下種。なんとなれば、設計ミスは当たり前(人間だから)。クレームは揉み消す。揉み消せないクレームは歪曲して被害(人事のマイナス評価)を少なくする。品質改善活動は議事録をでっち上げる。曰く、「やっていないことを、いかにやっているように見せるかが、腕の見せどころだ、ゲハハ」。この現状を上申したところ、私は奇しくも【讒言】【讒誣】【佞臣】という古い言葉をしみじみ覚えることになる。以来、耐え難き恥辱に耐え、こんな仕事に就くしかなかった自分を省みて、なるほど会社とはダメな奴の共済組合みたいなものだと悟った。
子どもの頃から両親は不和だった。私より2年早く生まれた兄はあらゆる暴力を用いて私を嬲った。母曰く「長男には長男のストレスがある」父曰く「年頃の男の子はそういうこともするから、受け入れてやれ」だ。両親はそれぞれ「あんたは父親そっくり」「お前は母親と同じ人間だ」と私に言って、離婚した。
当たり前だが心身を故障させた私は高校をドロップアウトするも、旧大検を経て四大を卒業するくらいには器用だったが、ブラック企業の洗礼を受けて転職、現在に至る。実家を出る? それは強者の言葉だ。宮沢賢治も、坂本龍馬も中岡慎太郎も、実家からたっぷり仕送りをもらっていたのだ。なぁにが雨(略)。
泣いても誰も助けてはくれない。私は般若心経を暗唱し、コヘレトの言葉を読み、五木先生の『ただ生きていく、それだけで素晴らしい』(PHP研究所)に支えられて今日まで生きてきた。
◇
さて、下種な仕事をこなして、金曜日である。今夜は思いっきり楽しもう。録画しておいた映画を観るんだ。スーパーでお肉かなにかを買って食べよう。お惣菜も好きなのを買っちゃおう。ビールもケチらないで買う。先にお風呂に入って、お布団も敷いておいて、いつでも寝られるようにスタンバイしておくのだ。うふふ。パジャマはどれも古いけどお気に入りのあれにしよう。車を14㎞50分間運転して、スーパーで買い物をして帰宅し、風呂に入った。
◆
かつて痛ましい事件があった。ひとりの男が、隣家の老婆を平手で一発殴り、死なせてしまったのだ。幼い頃から忍耐を身につけ、実直に生きてきた男には、同情が寄せられた。
聡明な裁判長は言った。
「物に当たってもいいから、人を殴ってはいけない」
◆
準備万端。塩で焼いた鳥のナンコツ。総菜のマカロニサラダ、アジの南蛮漬け。ビールにしようと思ったけど高いのでやっぱり発泡酒のロング缶にした。グラスに注いで、録画した映画の再生ボタンを押す。
さぁさぁさぁ!!! ――
「 ッッッハァァッ!!!!!! ッッケェッッ!!!!!! 」
奇声の方へ振り向く。シミだらけの肛門みたいな顔をした、醜い老母が、私を睨んでいる。
無眼耳鼻舌身意。無眼耳鼻舌身意。空の空。空の空。すべては空である。
殺してやる。
私は飯茶碗を叩きつけた。
「物に当たってもいいから、人を殴ってはいけない」
ガシャン!!!
もうひとつ。硝子のコップ。
パッッシャン!! シャリシャリ~
あんた、なにする―― なんか聞こえるなあ。酒蔵の試飲でもらったお猪口でシメだ。
ピシャッ!
◇
私は家を出て、ビールを買い、独りで飲んだ。
美味しい。
裁判長。五木先生。私は、ただ、生きていきます。
了