第1話

文字数 1,986文字

 通り過ぎる風が冷たい。身震いしてパーカーの襟元を掻き合わせた。十一月の終わりはほとんど冬だ。暗くなった休日の住宅地はひっそりとしていて、時々散歩する人とすれ違うだけ。つい歩くスピードも速くなる。私が日暮れ時に外を出歩くことはまずない。いつも夕飯作りで台所にいるからだ。今日もついさっきまでおでんの準備に追われていた。
 大根の皮を剥いていると、娘に声をかけられた。「今日のごはんは?」「おでんだよ」「えー、またあ? たまには違うの食べたい。今からでも他のにしてよ」いつもこうだ。娘は難癖をつけてくる。そして、気に入らないとダイエットと称し、ほとんど手をつけずに残すのだ。「お母さん、ごはんまだ?」今度は息子だ。「まだかかるよ。ごめんね」「お腹すいたから、お菓子食べる。お母さん、お菓子の袋取ってよ」「食べてもいいけど、自分で取ってよ。お母さん手が離せないの」「無理だよ。ゲームで忙しいもん。お母さん取ってよ」息子も娘も自分のことばかり。こんな我儘に育ってしまったのは、私のせいなのか? 「なあ母さん、靴下が片方見つからないよ。どこか知ってる?」「パジャマ出しててって言ったろ。それからビール持ってきて」「さっきからポチが吠えてるけど、ごはんやった?」「早くあげてきてよ。うるさいから」
一番手がかかるがこの夫。大人のはずなのに、まるで子供だ。それも園児くらいの。自分のことは自分でしなさいよ。何か手伝うとかしなさいよ。こっちだって仕事して、買い物で走り回って、くたくたなのに。温かいのが食べたいってみんなが言うから、おでんを作ろうとしているのに。全く進まないおでんの準備。大根を握る手が震える。
「ねえねえ、私、ファミレスのドリア食べたい。食べに行こうよ」
 娘の声とそれに賛同する家族の声が聞こえる。あ、もうダメだ。頭の中で何かがぷつんと切れる音がした。勢いよく置いた包丁が大きな音を立てた。それ以上に大きな声で私は金切声をあげていた。そのまま手当たり次第に目についたものを床に投げつける。ざるに入った大根が飛び散る。餅巾着や隠し包丁を入れたこんにゃく、ちくわも遠くへ飛んでいく。串に刺した牛すじは床の上でバラバラになった。皿は割れ、ガラスのコップも粉々になっている。ひとしきり投げ終えてから我に返ると、青ざめた顔の家族がこちらを呆然と見ていた。台所はおでんの地獄絵図と化していた。私は近くに置いていた財布だけつかむと、着の身着のまま家を飛び出した。そして、今、人気のない住宅地をただ歩いている。体も芯から冷え、もうどこにも行けない。暖をとれるところなどそう簡単に見つかるはずもない。ふと、顔を向けた先に明かりが灯っていた。看板にはフレンチレストランとある。ここはいつも通る道なのに、お店があることを知らなかった。それに、こんなラフな格好で入れるのだろうか。ドレスコードがあるんじゃないか。躊躇したが、冷たい風から逃げるように、勢いよく扉を開けた。
 ギャルソンが声をかけてきた。震えている私に気付いてか、奥のテーブルに案内された。絨毯の敷きつめられた床、天井から吊るされたシャンデリア。テーブルの近くには暖炉。赤々とした火が見える。私以外の客はいない。渡されたメニュー表のものはどれもいい値段ばかり。つかんで出てきた財布は、買い物したばかりで千円も残っていない。頼めるのはコーヒーくらいだろうか。迷った末に頼んだが、運ばれて来たのはコーヒーとオニオングラタンスープだった。
「これ、うちのイチオシなんです。コーヒーじゃ体、温まりませんから。ぜひ食べてください。サービスです」
 戸惑いもしたが、気遣いと優しさが荒れて逆立っている心に沁みる。スープを一口すくう。コンソメの香りと玉ねぎの甘さが口の中にゆっくりと広がった。スープに浮かんでいたフランスパンとチーズが香ばしく、口に含むとパンからスープがじゅわっとしみ出た。
「おいしい」
 心がほぐされて、溶かされていく。怒りも虚しさも全部包み込んでくれるような安心感があった。この味、みんな好きかも。きっと喜ぶ気がする。そう考えていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。『お母さん、今どこ?』『早く帰ってきて』『さっきはごめんなさい』家族から次々とメッセージが届く。顔を上げた先に、窓ガラスに映った私がいた。ついさっき、家の中をぐちゃぐちゃにして飛び出した。みんなどうしてるだろう。考えていると無性に帰りたくなった。一緒にオニオングラタンスープを食べたくなった。言いたいことはたくさんあるのに、なぜだろう。
 会計を済ませて店を出る。ふと思い立ち、私はもう一度お店に戻った。
「すみません。四名で予約したいんですけど、今夜、大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。四名様ですね。お越しをお待ちしております」
 ギャルソンは笑顔で頭を下げた。
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