雨に煙る

文字数 12,432文字

           1

滝川自動車教習所の入所申込用紙の上部、希望科目の欄の普通自動車MTの所を歪な形の丸で囲んだ。
散々悩んだ末に、その日僕は周りの同級生たちとは少し違う選択をした。
教習所の教室の窓からは傍を流れる滝川の河川敷がよく見えた。
岩の上から釣り糸を垂らしている老人の頭上に、一筋煙草の煙が細く立ち昇っている。
その頭上の鉄橋を通勤快速の列車同士がすれ違う。
更にその上を大きな翼に風を受けて、一気に空高く上昇したとんびが一匹旋回していた。
群青色の雲は今にも夕立を開始しそうな気配だった。
「何であんた、マニュアルなん?」
気が付くと多佳子が僕の申込用紙を背後から覗き込んでいた。
多佳子は近所に住む幼馴染で、同じ高校の同じクラスだった。
「別に、何となく」
全然何となくじゃなかった。
殆どの友達がオートマ免許を取る事は知っていたし、世の中の殆どの車がオートマ車なのも知っている。
更に教習時間が長くて、教習費用も少し高い事だって勿論知っていた。
それでも僕にはマニュアル免許を取る必要があったのだ。
「あっ、やべぇ、雨降ってきたよ。あんた傘ある?入れてってよ、家まで」
多佳子がボールペンで僕の背中を突っつく。
無視していても多佳子は僕が諦めるまでずっと続ける。
教室の中は突然の夕立の所為で溜息や舌打ちで溢れていた。
古い蛍光灯が一本切れかかっていてチラチラと明滅している。
僕はまた窓の外に視線を移して、父親がまだ家に帰っていなければ良いなとか、そんな事ばかりボンヤリと考えていた。

           2

黒い傘の柄を左手に持って、右手一本で器用にスマホを操作しながら多佳子は黙って僕の隣を歩いていた。
自転車を押す僕の左腕は容赦なく雨に打たれていて、アスファルトから跳ね返る雨は二人の足を強かに濡らしていた。
雨の音しか聞こえなかった。
気まずい沈黙をどうにかして打ち破ろうとしても、僕の声は多佳子の耳まで届かなかったかも知れない。
早仕舞いを決めた肉屋の店主が、びしょ濡れになりながら錆び付いたシャッターを下ろしていた。
その隣の文具店のシャッターはもう何年も閉じられたままだ。
僕は肌にピッタリと張り付いた左腕のシャツの袖と、雨に煙る見慣れた商店街を交互に眺めながら、あれから随分と時間が経ってしまったのだと思っていた。
いつもお腹を空かせ、どこへ行くにも腰を上げて自転車を立ち漕ぎしていたあの頃が、急に遠い昔の様に感じられた。
「おじさんは相変わらずなん?」
唐突な多佳子の声に僕はハッと我に返った。
「まぁ、変わらん」
雨水を捌き切れていない側溝を足元に見下ろしながら、僕はボソリと答えた。
「ご飯とかどうしてんの?」 
スマホの画面に視線を落しながら歩く多佳子の顔を、僕はその時横目でちらっと盗み見た。
腰まであったはずの長い髪はいつの間に切られたのだろうとかと、ふと思った。
「どうせコンビニ弁当とかなんでしょ?あんたそんなだからチビなんよ。背ぇ伸びんよ」
そう言えば小学生の頃から僕はずっと多佳子よりも背が低かった。
「どうせもう伸びんよ。とっくに成長期はお仕舞じゃ」
僕がそう言うと、多佳子は小さく鼻を鳴らした。
「あんたの口癖よう変わっとらんわ。どうせとか、とっくにだとか。成長しとらんね、身長も中身も」
多佳子の憎まれ口も全然変わっていないと僕は心の中で思っていた。
平生よりも大分水位が上がっているドブ川に掛かる小さな橋を越えると、鬱蒼と茂る木々に囲まれた僕の家の前に辿り着く。
多佳子の家はここから更に路地をいった所の角だった。
「ここでいいわ。ありがとう」
多佳子はそう言うと、僕に傘を押し付けて土砂降りの雨の中に飛び出していった。
慌てて僕が傘を渡そうとした時にはもう多佳子とはかなりの距離があった。大粒の雨がアスファルトを激しく叩く。
その凄まじい音の向こうから多佳子の大きな声が響いてきた。
「あんたがマニュアルの免許取ったらさぁ、あの車にあたしも乗せてよ」
白く立ち込める煙の様な雨の向こうで、シャツの張り付いた細い腕をぐんと伸ばして多佳子が何かを指差していた。
その指を辿って僕はゆっくりと後ろを振り返った。
僕の家の庭先にある灰色の幌が被せられた小さな車庫。
その幌が破れた箇所が風に棚引いていた。
さして丈夫でも無い鉄のパイプが軋む音がする。
その中には埃を被ったトヨタ・スープラA80型がずっと乗り手を待ち続けていた。
三年前にオーナーを喪った車検切れのそのスポーツカーは、まるで追い詰められた獣の様な目を幌の隙間から僕の方にじっと向けていた。

           3

五歳離れた兄は脳腫瘍で死んだ。
三年前の事だった。
中学校もろくに通わなかった兄はバイクの無免許運転で何度も捕まったり、傷害罪で少年鑑別所に入れられた事もあった。
母親がいない家庭だったのでその所為でグレたのだと周りはよく言っていたが、僕にはよく分らなかった。
兄が何を考えていたのかも、何にあんなに苛々していたのかも。
僕は小さ過ぎてよく覚えていないが、子供二人を残して出て行った母親は兄の事を目に入れても痛くない程に溺愛していたそうだ。
それがどうしてこんな事になったのかは考えても分らない。
僕は考えても分らない事は考えない事に決めていた。
僕の父親は市のバス運転手で、滅多な事では口を開かない様な寡黙な人だった。
外では真面目で勤勉な人物だと思われていたが、家では酒ばかり飲み、あらゆる賭け事に目が無い男だった。
僕は高校生になってから父親と会話した覚えが殆ど無い。
最後の記憶は兄の葬式の時、棺に泣きついていた母親を見て父親がポツリと「何を今更」と言ったのに、「そうだね」と返した時の事だった。
僕には家族の記憶というものも殆ど無かった。
それには誰かしらが必ず一人欠けていた。
それでも1つだけ、朧気に覚えているのが父親の運転するバスに乗って、母親と兄と僕の三人で用事も無いのに終点まで行った時の事だ。
人気の無い運転手達が休憩する詰所の様な所で母親が作った弁当を四人で黙って食べ、またバスで市内まで引き返してきた。
僕はその時早く家に帰りたいとずっと思っていた。
道すがら小学校のクラスメートにでも偶然会ってしまわないかと冷や冷やしていたのだ。
薄汚れたバスの窓から見えたあの日の町も、今日みたく雨に煙っていた様な気がする。
熱い風呂に浸かっていると、玄関の扉が大きな音を立てたのが聞こえた。
父親が帰ってきた様だった。
その引き摺るような足音で、既にどの位の量の酒が入っているのかが僕には分った。
暫くしたら大きな鼾が家中に響く事だろう。
激しく軒を打つ雨の音が微かな救いの様に感じた。
風呂場の隣の薄暗い脱衣所で、古い洗濯機が低く唸っていた。
僕はステンレスの湯舟の中でずぶ濡れになって走り去る多佳子の後ろ姿を思い出していた。
そしてボールペンで何度も突かれた背中の辺りが微かに疼いた。
あの多佳子の真っ直ぐに伸ばされた細い指先。
僕はあの車を運転する為にマニュアル免許を取ろうとしているのかと、他人事の様に少し可笑しく感じてしまった。

           4

坂道発進は何とかクリアしたのに、S字クランクで後輪が脱輪して修了検定試験に落ちてしまった。
早く帰宅しようと急いで自転車置き場に向かったのだったが、既に多佳子が僕の自転車のサドルに腰を掛けて待ち構えていた。
「乗せてってよ」
多佳子は学校では一切話し掛けてこないのに、教習所では事毎に絡んできた。
自転車通学の僕とは違って、多佳子は僕の父親が運転するバスで毎日学校に通っていたので、教習所からの帰りの足が無いのだろう。
僕が自転車の鍵をわざとゆっくりと外すと、「あんたは後ろね」と言ってさっさとサドルに跨ってしまった。
「おい、普通逆だろう」
と言いながらも僕は条件反射的に後輪の荷台の上に腰を下ろしてしまう。
「あたしが後ろに立ったらパンツ見えちゃうでしょうが。それにあんたはチビだから余裕だし」
多佳子がぐっとペダルを踏み込むとサッと景色が流れる様に動き出した。
肩口で切り揃えられた黒い髪から、シャンプーの匂いがした。
「あんたもあたしも誕生日早いから教習所混まない内に通えてラッキーだったよね」
多佳子が独り言の様にそっと呟いた。
僕はそう言われても多佳子の誕生日がいつなのか思い出せなかった。
「マニュアル免許は難しい?」
何か喋る度に多佳子が肩越しに振り向くので、僕は密かに身の危険を感じていた。
「おい、いいから前見て運転しろよ。マニュアルなんか簡単だよ。余裕、余裕」
僕は今日の試験の結果は絶対に伏せておこうと思った。
滝川の堤防の、幅の狭いサイクリングロードは対向車が来る度にいつも心細い思いをする。
他校の男子高校生などはわざとスピードを上げてすれ違う際に車体を寄せてきたりする。
僕は何でそんな事を態々するのかといつも不思議に思っていたのだったが、この日は多佳子の背中を少し頼もしく感じた。
猛スピードで睨みを利かせながらペダルを漕ぐ多佳子の迫力に、対向車は皆大人しく道を譲っていた。
僕は兄という反面教師のお蔭で、他人に対して怒りや憎しみというものを余り感じない人間に成長した。
そもそも関心を余り持てないというか、考えたり想像したりする事に必要性を持てなかったのだった。
それ故自然と友達も少なかったが、それも余り気にはならなかった。
ただあの父親と、二人っきりのあの家を早く出たいとだけいつも考えていた。
それさえ叶えば取り敢えずは満足出来るだろうと思っていたのだった。
その日は淡い夕日が西から差し込んでいて、緩やかな風が心地の良い日だった。
商店街の肉屋の前で多佳子が急ブレーキを掛けて自転車を止めたので、僕は勢いで多佳子の背中に頭を打ち付けてしまった。
「おい、急に止まんなよ!危ないだろ!」
「あー、お腹空いた。ねぇ、ちょっと待ってて」
多佳子は僕に自転車を任せてそそくさと肉屋に入っていった。
人通りも疎らな寂れた商店街の中で、僕は遠くの鉄橋から聞こえてくる通期快速の列車の音に耳をそばだてた。
僕は小さい頃からバスは嫌いだったが列車は好きだった。
自転車では少し距離のある高校にもバスで通う気にはならなかった。
ましてやあの父親が運転するバスなら猶更だった。
その時、隣の文具店のシャッターにスプレーで描かれた落書きの絵にふと目が止まった。
どこか見覚えのある様な気がした。
帽子を被った少年が人差し指を高く付き上げている絵だった。
決して巧い絵とは言えなかったが、適当に描いている様にも見えなかった。
どこか不貞腐れた照れの様なものの中に、必死に何かを訴えている様な切実さが、その絵には垣間見える気がした。
暫くその絵を眺めていて、僕は唐突な閃きに襲われた。
これは兄の絵だ。
確信は無いが恐らくそうだ。
なぜかそれが僕には分った。
十年位前からまともな会話をした記憶は無い。
家には帰らず、どこにいたのかもよく知らない。
兄の悪評の所為で恥ずかしい思いをした事も数え切れない。
入院中も一度も見舞わなかった。
まさか死ぬとは思っていなかった。
死ねばいいと思った事は何度もあったけど、本当に死ぬなんて思わなかった。
ましてやあんなにも呆気なく。
何でこの絵の少年は人差し指を高く掲げているんだろう。
その下の風船の様に膨らんだアルファベットの文字には一体どんな意味があるのだろう。
また遠くから通期快速が鉄橋を渡る音が聞こえてきた。
電柱に止まったカラス達の、互いの生存を確認し合う様な鳴き声が耳に響く。
まだ明るい空には駆け出しの星が幾つか浮かんでいた。
錆びた車輪を軋ませながら、老婆が乗る自転車が僕のすぐ脇を通り過ぎて行った。
僕は泣いていた。
信じられない事に、あんな兄の所為で僕はその時泣いていたのだった。
「ほい、メンチコロッケ。自転車乗せてくれたお礼に奢るよ」
湯気を立てている茶色い包み紙を僕に差し出しながら、多佳子が言った。
乗せてもらっていたのは僕の方だった。
そう言おうとしたが声にならなかった。
多佳子は家に着くまで僕の涙には一言も触れなかった。
僕は多佳子が優しい人間なのだと、その時初めて気が付いた。

           5

冷たい石の壁に囲まれた葬儀場の会席室で、数年振りに会った母親は殆ど他人の様だった。
顔を付き合わせても話す事がまるで浮かんでこなかった。
それは母親の方でも同じだった様で、結局あれ以来再び会う事は無かった。
それがどうしてなのか、僕は考えない様にした。
父親とも話す事は無かった。
勿論死んだ兄とも。
僕に話す必要のある人間なんているのだろうか。
でも僕はそれについても努めて考えないようにしていた。
僕は駅前の喫茶店で半年前からアルバイトをしていた。
教習所の支払いの為だった。
場所柄、同級生が何度も店に来たし、担任の教師が恋人を連れ立って来店した事もあった。
でも誰も制服姿では無い僕に気が付かなかった。
まるで初めてそこで出くわした様に、普通の店員と普通の客としてすれ違った。
僕は勿論その事に関しても深くは考えなかった。
多佳子はそれから何度も僕の自転車の漕ぎ手になった。
今日はいないだろうと思った日に限って詰まらなそうな顔をして自転車置き場で僕を待っていた。
僕は帰って風呂に入って寝る為だけに家に帰るのに、その一時の自転車の二人乗りが心休まる瞬間である事に自分でも驚いていた。
かと言って何を話すという訳でも無い。
時には殆ど会話を交わさない日だってあった。
それでも僕は多佳子とは、話す事が何も無くても特に気にならなかった。
その日も多佳子は逞しいペダリングで快調に自転車を漕いでいた。
僕は慣れた様子で流れる景色をボンヤリと眺めていた。
もう辺りはすぐそこに夏がきている様な空気だった。
「あんた、卒業したらどうすんの?」
またも急ブレーキで自転車は唐突に堤防の上に急停止した。
僕はそれにも既に慣れていて、腕を巧く荷台に突っぱねて多佳子の背中に頭を打ち付ける様な事はもう無かった。
「まぁ、就職するよ。この町は出ると思うけど」
そう咄嗟に答えて僕は自分でも驚いていた。
そうか、僕は卒業したら働くのか。
でもどこで何をして働くのだろうか。
目の前の鉄橋を通り過ぎる通勤快速の列車の窓から、吊革を握った沢山の人影がこちらを見ていた。
その時僕は、堤防から列車を見ている僕と、列車の中から堤防を見ている僕と、同時に体験している様な奇妙な感覚に捉われていた。
どこか知らない街に住んで何かの仕事をしている何年後かの僕が、その時通期快速の列車の窓から高校生の僕を見ていた。
僕はその事についても、考えても分らないだろうから考えない様にしようと心の中で思っていた。
ハンドルを握ったまま、真っ直ぐ前を見ていた多佳子がその時突然口を開いた。
「私は今この瞬間を、絶対忘れないよ」
多佳子は自分に言い聞かせる様にゆっくりと、そう呟いた。
僕はその言葉に聞こえない振りをしたけれど、多佳子にはきっとそれも全部分っていたのだと思う。
僕が考えていた事、或いは僕が考えない様にしていた事も全部。

           6

夏休みに入って、僕は無事仮免許の試験にも合格して毎日の様に教習所に通うようになっていた。
喫茶店のアルバイトのシフトも増やして少しずつだがお金も溜まってきていた。
全ては順調に思えたが、1つ気掛かりな事があった。
多佳子の姿を見なくなっていたのだ。
それまでも毎日いた訳では無かったけれど、夏休みに入ってからは一度も会っていない。
かれこれ二週間以上になる。
最期に会った時、仮免許は受かったと言っていたから、路上教習で時間が一緒になっても良い筈だったが、自転車置き場にも多佳子は現れなかった。
僕は教習所から家に帰った時、或いはアルバイトから帰って来た時、つい多佳子の家のある路地の先の角をボンヤリと眺めてしまう時があった。
歩いて一分も掛からないその家の、インターフォンを押す事は僕には一生掛かっても出来そうに無い。
小さい頃よく遊んだあの庭にも、僕は入る事が許されない様な気がしていた。
クラスに多佳子の事を聞ける様な友人もいなかったし、気にはなるがどうする事も出来無かった。
僕はまたいつも通り、その事も考えない様にしていた。
その日僕は朝一から路上教習の予約をしていたので少し早めに自転車で家を出た。
酷く熱い日で直ぐにTシャツの背中は汗でびっしょりになってしまった。
市役所の前を通り過ぎて図書館の角を曲がろうとした時、道の向こうからバスが来るのが見えた。
父親の会社のバスだったので反射的に運転席を見た。
そして僕は目を疑ってしまった。
そのバスを運転していたのは見紛う事無く父親だったのだが、その隣に多佳子の姿があったのだ。
ゆっくりと僕の目の前をバスは通過していった。
運転席の父親と、隣に立っていた多佳子は笑いながら何かを話している様子だった。
僕の目にはそう映った。
何よりも父親が笑っているのを見たのが僕にはショックだった。
いくら思い出そうとしても、僕には父親の笑顔を見た記憶なんて無い。
それはまるで夢の中の出来事の様だった。
いつもの様に考えに蓋をしようとしても抗えなかった。
その光景は目に焼き付いて離れてくれなかった。
どうして父親は笑っていたのだろうか?
なぜ多佳子と一緒にいたのだろうか?
偶然だろうか?
それとも二人はそうやっていつも笑いあっていたのだろうか?
何もかも意味が分らなかった。
全身から汗が噴き出してきて止まらなかった。
僕は来た道を慌てて戻り、遠くに見えるバスを追い掛けた。
信号の度に追い付きそうになるが、また直ぐに引き離された。
これもまるで夢の中の様だと思った。
ペダルが重い。
息が苦しい。
頭も割れる様に痛い。
バスがゆっくりと踏切の向こうに姿を消して行く中、僕は背中に震える程の寒気を感じてそのまま自転車ごと倒れ込んだ。
薄れていく意識の中で、高い空をとんびがゆっくりと旋回していたのを最後に見た気がした。

           7

気が付くとそこは病院のベットの上で、僕はまだ白い天井の中にとんびの姿を見ていた。
右腕から透明なチューブが伸びていて、それが繋がれた透明の袋から水滴が一定のリズムで時を刻んでいた。
僕はその水滴を200まで数えた。
その事に何の意味があるのかは、僕の意識に中々浮かび上がってこなかった。
左隣のベットから誰かの寝息が聞こえてきていた。
窓の外は明るかったが、それが何月何日の太陽の光なのか、その時の僕にはまるで見当も付かなかった。
暫くして看護師の女性が教えてくれた。
僕は意識のはっきりしない中で、何度も同じ名前を呼んでいたらしい。
だけど僕はその名前を聞いても全く心当たりが無かった。
それは嫌いな父親の名前でも、他人の様な母親の名前でも、死んだ兄の名前でも無かった。
その事はその後もずっと僕の心にしこりの様に残った。
いくら呼び続けても誰一人振り向かせる事の出来ない名前。
それは何かの暗喩の様であり、この世界を司るささやかな秘密の様にも感じられた。
僕は点滴を終え、病院の事務室で住所と名前と連絡先を用紙に書き、地下駐車場で自転車を受け取って家路についた。
僕は酷く疲れていて、そのまま何も考えずに眠ってしまいたいと思っていた。
病院のベットで眠っていた時間はまるでカウントに入らないかの様に。
商店街はその日も人気は疎らで、遠くの鉄橋の通勤快速は相変わらず一定のリズムの通過音を辺りに響かせていた。
世界は寸分も変わっていなかった。
僕だけが決定的に変わってしまっていた。
なぜだかそう思った。
家まで辿り着くと、表で多佳子が僕を待っていた。
水色のショートパンツに同じ色合いのサンダルを履いていた。
制服以外の多佳子を見たのは小学生の時以来かも知れない。
僕にはそれが大人っぽいのか子供っぽいのか判断が付かなかった。
「よ、路上教習どうだったよ?」
僕の方に一歩近づいて多佳子が言った。
「ああ、うん。まぁ、順調」
僕は辛うじてそう答えた。
そうしてガーゼを貼ったままの右腕の注射痕をそっと背中に回して隠した。
「おまえ最近来てなかっただろ、教習所。何サボってんじゃ」
僕はその上擦った声の調子に自分でも驚いてしまった。
喉が酷く乾いていた。
多佳子は俯いて足元に落ちていた石ころをサンダルの先で持て余していた。
「どうした?何か用でもあるんか?」
多佳子の様子は明らかにいつもと違っていた。
でもそれがどうしてなのか、僕には見当も付かなかった。
僕の脳裏に朝の父親の笑顔がチラついた。
今になってやっと風が出てきたというのに、僕はまた背中に汗が流れるのを感じていた。
どんなに気になっても、聞く事は出来ない。
何事においても、僕は自分の与り知らない事に首を突っ込む様な事は出来なかった。
「あの車・・」
多佳子のその声は今にも消え入りそうで、辺りの蝉の鳴き声に搔き消されそうだった。
鬱蒼と茂る高い木の枝が風で揺れている。
多佳子は苛立たしげに白い膝を忙しく動かし、それから頭を数回左右に強く振ってから、
「あーー」と大きな声を出した。
僕は思わず自転車を横倒しにしてしまう位に驚いた。
「ねぇ、あの車に今乗せてよ!今すぐ!」
多佳子は目に涙をうっすらと浮かべながら、灰色の幌が掛かった車庫を真っ直ぐ指差した。
「はあ?おまえ何言っとんじゃ!あんな車動かんし、鍵も無いし、埃だらけで汚いぞ」
僕も思わず声が大きくなってしまった。
実際、多佳子の妙な素振りに不安と怒りの様なものを感じていた。
少しの間、二人とも黙って互いの顔を見合っていた。
すると突然多佳子が大股で車庫の方に歩いていき、灰色の幌を乱暴に捲り上げた。
薄暗い車庫の中から、鋭い視線を投げ掛けてくるスープラA80型の顔が現れた。
驚いた事に、その車は埃一つ無い位にピカピカに磨き上げられていた。
「はい、これ鍵。路上教習してるんでしょ?じゃあ運転出来るよね?」
多佳子が銀色に輝く鍵を手渡してきた。
それは掌に乗せるとじんわりと温かく、ずっしりと重かった。
「おまえが何で鍵持ってんだよ。それに車検切れてるし、そもそも免許まだ取ってないからな。無免許運転だぞ」
僕がそう言うと、多佳子は素早く僕から鍵を引っ手繰り、無造作にドアを開けて運転席に潜り込んだ。
「おい、おまえ、ちょっと!」
その時突然、地面を震わせる様な低いエンジン音が唸りを上げた。
頼りない車庫の鉄パイプも、所々破れかかっている幌も細かく振動し始める。
頭上の木の枝を激しく揺らす強い風も、まるでスープラの鼓動に呼応しているかの様だった。
「ねぇ、今日しかないの!どうする?行くの?行かないの?」
僕には多佳子が言っている意味が何一つ分らなかったけど、その時はどうしても行かなければならない様な気持ちになっていた。
運転席のシートはガッチリと僕の背中を包み込んだ。
恐る恐る慎重にアクセルペダルを踏み込むと、スープラは歓喜の咆哮でそれに応えた。

           8

「そこを今度は左。ほら歩行者に気を付けて。そう、ここは50キロ制限だからね」
助手席の多佳子はまるでベテランの教習指導員の様だった。
平日の昼下がりで道路は空いていたが、僕はハンドルを握る手が汗で滑る程に緊張していた。
路上教習はまだ二回しかやっていない事は多佳子には言わないでおこうと思った。
「うん、中々じゃない。あんた悪くないよ。こんな安全運転のスープラなんて逆に凄い目立つだろうけどね」
多佳子からさっきまでの鬼気迫る緊迫感は消えていた。
いつも通りの憎まれ口にリラックスし過ぎな位に助手席で寛いでいた。
僕は目を大きく見開いて、信号機や道路標識やバックミラーやサイドミラーを順番に凝視し続けた。
余りにも必死だったので、僕自身さっきまで自分が病院のベットで点滴を受けていたことなんて忘れてしまっていた。
見慣れた町を過ぎ、川沿いを進み、山間を抜け、気が付くと遠くに海が見えてきていた。
「おい、ところでどこ行くんだよ?随分と遠くまで来たみたいだけど」
僕にはそれが途轍もなく長い時間に感じられていた。
実際はまだ一時間も経っていなかったのに。
「あと18分で目的地です」
スマホのナビを見ながら、多佳子が抑揚の無い声で言った。
大きな欠伸までしている。
僕は分らない事が余りにも多過ぎて、何だか馬鹿らしい様な気持ちになっていた。
銀色のボンネットに青い空が反射して流れていく。
フロントガラスに時折影を作る街路樹。
窓から入ってくる潮の香りを含んだ風が助手席の多佳子の黒い髪を揺らしていた。
兄がこの車で夜遅くに出掛けたり、朝方帰ってきたりする度このエンジン音で叩き起こされた。
中学校の帰り道、パチンコ屋の駐車場で兄が仲間達と車を囲んでたむろしているのを見掛けると、それを避けて態々遠回りして帰った。
近所からの騒音への苦情。
同級生達からの好奇の目。
僕にはこの車にろくな思い出は無かった。
それなのにどうしてなんだろう。
僕は普通車MTに丸を付けた。
面倒な操作を余計に覚えた。
バイト代も全額注ぎ込んだ。
考えてみれば全部僕らしく無い。
煩わしくて大嫌いだった兄。
理不尽で迷惑でしかなかった兄。
本当に何を考えているのか分らなかった兄。
どうしてだろう。
あの憎たらしい顔は直ぐに頭に浮かんでくるのに、どうしてもその声が思い出せない。
あんなに怒鳴られて、貶されて、邪険にされ続けた声なのに。
僕は兄の声が思い出せなくて、なぜかとても悲しかった。
「はい、そこを右に入って。そんで坂登り切った所が駐車場だから。はい、お疲れ様です」
何とか辿り着いたようだった。
僕はゆっくりと慎重に車を停めてから、一つ大きく息を吐いた。
周りは車も人影も無く、時間が止まってしまった様に静まり返っていた。
フロントガラスには遠くまで視界が大きく広がっている。
山間の木々の隙間からキラキラと陽の光を反射させた海が見えた。
その景色を見た瞬間、僕にもやっとここがどこなのかが分った。
そして多佳子が何の為にこんな事をしたのかも。
「さぁ、ここはどこで、今日は何の日でしょう?」
多佳子が僕の目を真っ直ぐ見て言った。
その悲しくなる位に真剣な顔を見て、僕はこの先ずっと今日という日を忘れる事は無いのだろうと思った。
僕はもう一度大きく息を吐いて、ゆっくりと辺りを見渡した。
「ここは・・兄貴の墓で・・・そんで今日は兄貴の命日だ」
僕は静かにそう答えた。
三年前のあの日以来、僕は初めてここに来た。
白い小さな箱に入った兄と、それを無表情で抱えた父親。
僕は納骨に姿を見せなかった母親に少し腹を立てていて、その日朝から不機嫌だった。
確か群青色の厚い雲が視界を阻んでいて、海なんかちっとも見えなかった筈だ。
そのうちに雨も降ってきて、濡れた制服を着ているのがとにかく不快でしかなかった。
僕には結局、最後の最後まで何も分らなかった。
通夜の時、葬儀場の駐車場にたむろしていた兄の仲間だった連中を見て、僕はどうしてこんな奴等と一緒にいる事を兄は選んだのだろうかと不思議に思った。
もう少しマシな人生だってあった筈なのに。
どうしてその事に父親はあんなにも無関心だったのだろうか。
どうして母親はそんな僕等を捨てて出て行ったのだろうか。
考えない様に蓋をしてきた事が、次々と頭に浮かんできてしまう。
助手席の多佳子はずっと黙ったままだった。
ただそこにじっとしていて、時折スマホの画面に視線を落したり、サイドミラーを覗き込んだりしているだけだった。
そう言えばなぜ多佳子がこの場所を知っているのだろうか。
そしてなぜ多佳子と父親はあのバスの中で笑っていたのだろうか。
僕には本当に分らない事だらけだった。
僕は朝からの疲れと緊張で急激な睡魔に襲われ、気が付くと眠ってしまっていた。

           9

突然肩を揺さぶられ、目を開けた僕はそこがどこなのか暫く分らなかった。
「起きて」
サイドミラーを覗き込みながら、多佳子が小声でそう言った。
僕も運転席側のサイドミラー越しに駐車場の様子を確認した。
僕達の乗っている車の方へ、黒い人影が近付いてきていた。
僕はまた目を疑った。
そんな筈は無いと思った。
でもそれは間違いなく、黒い喪服を着込んだ父親だった。
ミラー越しに僕と父親の視線が合った。
父親の顔はどこか寂しげで、何かに観念した様な表情を浮かべていた。
僕はゆっくりと運転席のドアを開けて外に出た。
多佳子も助手席から外に出た。
父親は僕等二人を見て、微かに頷くと口元に不器用な笑みを作った。
「おじさん・・ごめんね」
多佳子が口を開いた。
それを聞いて父親はもう一度静かに頷く。
そして無精髭に縁取られた口元を少し歪め、擦れた声でこう言った。
「二人供、よく来てくれたな」
僕は黙っていた。
容易に口を利いてはならないと身構えていた。
父親と多佳子に、何だか上手く嵌められた様な面白くない気持ちもあった。
でも本当は何を言ったら良いのかまるで分らなかっただけだった。
そう、僕の心の中はまだ冷たい雨に煙ったままだった。
何か自分の意思でもない力で、兄の墓前なんかに足を運びたくは無かった。
それはどこかで負けを認める様な、耐え難い屈辱に甘んじる様に僕には感じられたのだった。
僕は尚も黙って地面を睨んでいた。
「直列六気筒のツイン・ターボエンジン、日本初の六速マニュアル・トランスミッション。こいつはかなり癖のある車だけど、一旦慣れれば抜群のレスポンスで文句の付け所の無い走りを見せる」
突然の父親の饒舌振りに、僕は心底驚いた。
一体、何が起きているのだろうかと思った。
「あいつが最後俺に言ったんだ。この車をお前にやってくれってな。だからメンテナンスには抜かりは無い」
僕は何も言えなかった。
頭の中が真っ白になってしまって、とてもじゃないけど処理が追い付かなかった。
「助手席のダッシュボードを開けてみろ。あいつにそう伝えろと言われてる」
そこまで言い終えて、父親は大きく深呼吸をした。
僕の方をじっと見つめたまま、後はどうするかお前が決めろとでも言いたげな顔だった。
多佳子も僕の顔を見ていた。
その表情に不安や迷いの様なネガティブなものは一切見られなかった。
僕はそんな目で、かつて誰かに見られた事などあっただろうか。
その時僕の心に沸き起こったものは、混ぜ物一切無い勇気そのものだった。
助手席のドアを開け、僕は微かに震える手でゆっくりとダッシュボードを開けた。
そこには白い封筒がただ一通、頼り無く底に横たわっていた。
頭の奥がジンジンとする。
僕は静かに息を吐き、振り返ってもう一度多佳子の顔を見た。
夕陽を受けたその顔は、泣いている様にも笑っている様にも見えた。
もう逃げる事は出来ない。
僕は余りにも逃げる事に慣れ過ぎた。
封筒の中には紙切れがたったの一枚。
それも汚い字で、ただ一言だけこう書かれていた。

「ちびへ、この車ぶつけたらぶっ飛ばすからな」

           完
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