第1話

文字数 1,997文字

 東の大きな島と西の小さな島。二つの島をつなぐ海は、北と南にある海峡に挟まれている。中秋を過ぎたある日、東の港から西の港へと渡るフェリーに、僕は乗った。

 三時間ほどの船旅に慣れているらしい乗客たちは、客席を思い思いに陣取っていた。僕は、この先も乗る機会がほぼ無いであろう船内をあちこち見て回り、甲板に出た。朝からの曇り空は、陽の光を通さないまま薄い灰色に重みを増し、出航後さほど経たないうちに船体を湿気と水滴で包みはじめた。海は思いのほか波が高く、横風がさらに(あお)って甲板に立つ僕の足をすくいそうになる。乗客は誰も出て来ない。僕は手すりをつたって狭い外階段を降り、船内へのドアを開けようとした。すぐ横では、服半分が濡れたまませわしなく煙草を吸っている乗客が一人立っている。どうやら今日は風景を楽しむ日ではないようだ。
 ほんの十分足らずの外気で体温を奪われた僕は、カフェで温かいミルクたっぷりのコーヒーを買ってテーブル席に座り、青暗い海面を飛び跳ねる大粒の雫と荒い波が、二重の窓ガラス越しに砕け当たる様子を眺めて過ごした。

 時間通りに到着した西の港は快晴で、船の乗降口ではアルとロイが出迎えてくれた。アルは古き良き友人の一人だ。僕は少しかがんで、アルの後ろに半分隠れているロイに話しかけた。
「初めまして、シンだよ。ずーっと前からロイのパパの友達だよ」
 アルに背中を押されて前に出てきたロイは「こんにちは」と言ってじっと僕の目を見た。
「さ、出発だな」
 アルは僕の荷物を車に運び、軽く街中を周回して家に戻った。

 リビングには本と写真をまとめて置いている一角があった。その上の方にパノラマ写真を一メートルほどに引き伸ばした白黒の印刷が飾られていた。水平線に向かって座っている水着姿の女性と子ども。波打ち際より少し高い砂浜で、お互いを見ながら笑い合っている横顔を、さらに離れた背後から捉えている。
「いい写真だね」
「海に行けたのはこの頃までかな」
 アルはしゃがんで、ロイを後ろから抱きしめながら優しい声で言った。

 数日後、僕たちは観光名所を訪れた。信仰と墓所の名残が、広大な敷地の中で廃墟となっている。天井をなくした野ざらしの石壁、埋葬の碑文、巨石に刻まれた伝承や伝話と(いにしえ)の網模様。彫溝に苔が入り込み、遠目からはグレーと緑の融合に見える。
 ふと見ると、ロイはずんぐりとした高い立石の前で立ち止まり、見上げていた。アルがどうしたと聞いても黙っている。しばらく待っていると、ロイは見上げたまま泣き出した。
「ママはどこに行けば会えるの」
 アルはロイの傍らにしゃがみ込んでゆっくりと語りかけた。だがその静かな声は、泣いているロイにすべては届かない。それでもゆっくり、じっくり、ロイの手を取って、握りしめて、言葉をつなぐ。声が震えないよう、大きく息を吸っては、少しずつ言の葉とともに、時折り視線を落としながら、語りかける。

「友達から聞かれるんだってさ」
 ロイを寝かせた後、僕たちはウィスキーを片手に思い出話をしていた。アルも彼女も一筋縄ではいかない面白い経験をしている。その一端に関わり、一緒に時間を過ごせたのは本当にうれしいことだった。そして僕はやはり、最期の空白部分を知りたかった。簡単に聞けることではないと思っていたが、何度か彼女からメールをもらっていたし、容態や状況、アルとロイへの想いなど、僕にとってもすり合わせとアルへの伝達が必要だった。

 自分ですら受け止めきれないほどの大きな哀しみを、まだ小さすぎるロイに知らせたり説明すること自体があの頃は無理でさ。
 アルは静かに語った。
 やっと気持ちが持ち直してロイと話した時、彼に喪失感みたいなものが足りない気がしたけど、よく分からなかった。母親が『いない』ということに距離を置いて俯瞰しているみたいだったけど、俺が、気にしないようにしてた。学校に通いはじめて友達が増えてくると、いろいろ言われたり考えたりするんだろうな。たまにさっきみたいに止まらなくなるんだよ。
 僕たちは相談とも報告とも言えないような会話を延々とした。明らかだったのは、ロイにはどうあっても説明が必要なこと。これから何度も何度でも話さなくてはいけないだろう。あきらめるなよ、ロイのことも、自分のことも、彼女の想いも――。

 お手洗いに起きたロイが階段を降りてきた。半分だけ開いた目で照明をまぶしそうに見ながら近づいてきて、両目を潤ませた僕たち二人の手を取った。話は聞こえてはいないだろうが、何かを察したんだろう。
「明日、一緒にゲームしような」
そう言った僕に向かって、ロイはニカッと笑った。

 聖なる岬から精霊が住む島へ。僕の今回の訪問は歓迎されていたと思いたい。波立つ海、曇り空の廃墟、丘をさらう強い風、この先もこの大地を踏みしめていく彼ら。そして、この地を一緒に歩きたかった友人を心に留めながら。
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