第1話

文字数 997文字

その店のことは以前から気になっていた。

ワシの住む小さな町の小さな商店街の端、住宅地区へと入ろうとする場所。

そこに、ひっそりと“蕎麦”という色落ちした暖簾をかかげているのだが、客が出入りする様子など金輪際見たことはない。

それでは偵察をして見るかと、野次馬根性を丸出しにし、何となく肩に力を入れている自分を意識しながら、その店に入っていった。

「こんにちは、お邪魔しますよ」

ワシは声をかけた。予想したように、店の中に客はいず、閑散としていた。

「いらっしゃい」

こちらは予想していなかった、小学校五、六年生だろう、賢そうな顔をした子供が調理場から暖簾を書き分け姿を現した。

ワシは卓の一つに腰を下ろすと、

「ざるを一枚」

と少年に向かい、言った。

はいっと元気に返事をし、少年が消えた後、ワシは店の中を見回した。

ああ、ここには、男性週刊誌は置いてないな、この頃のグラビア写真で見る若い女性たちは、本当にグラマラスで、まるで外人のようだ、などと考えていて、ふと、少年が置いていった湯飲みを見た時、ワシの心臓は突然止まりそうになった。

その湯飲みは、癌で死んだ母が、今わの際に、これは先祖伝来の品だから大切にしておくれ、とワシに言い残した九谷焼きと、ひびの入りかたまで、寸分違いがなかった。

実は、数日前、ワシのような貧乏老物書きの家へ、酔狂にも盗人が入り、その折、妻のへそくりなどと共に、九谷焼きが無くなるという事件があったばかりだった。

改めて、店の備品に目をやると、近所の家々にあった物に似ているように見えてくる。

あの花瓶は、隣の橋田さんの接客室にあったようだし、こちらの掛け軸は、妻の茶会仲間の三木さんの床の間にあったような…。

「お待ちどうさま」

注文の品と共に、少年がやって来た。

「この湯飲みは、うちにあった物に似ているし、他にも近所で見かけたような品々がある。これらは、皆、盗品ではないのかね?」

とワシが単刀直入に尋ねると、少年は、ウッ、と息をつまらせ、

「そ、それは、父さんが…」

その時、どたんっ、という大きな音と共に、黒装束の男が、天井から舞い降り、目にも止まらぬ早さで、手裏剣をワシの喉元に投げ付けて来た。

死ぬ前に、とりあえず、蕎麦を食べたかった…。

血を喉から迸らせ、意識が遠ざかりながら、ワシは思うのだった。
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