飛んでいけ

文字数 1,917文字

気付くと私は落ちていた。いや、上昇しているか横になったまま滑っているのかもしれない。とにかく私を取り囲む円筒形の空間を、どこからかどこへか流されていた。
目の前を無数の文字が飛ぶようなスピードで過ぎ去っていく。もしかしたら動いているのは文字の方で私はただここに浮かんでいるだけなのかもしれない。
向き合った電車の窓の外、向かいの電車が動き出すと自分が乗っている電車が動いているかのような錯覚を起こすことをふいと思いだす。すると、トンネルのように私を取り囲んで流れていく文字の中に「電車」という二文字を見つけた。
意識すると今まで見えなかったものも見えてくる。びゅうっと過ぎ去る文字に目をこらす。漢字もある。アルファベットもある。アラビア語もハングルもある。どうやらロシア語や、サンスクリットだろうかというものもある。楔形文字や象形文字も流れていく。エジプトのパピルスに記されているような文字もだ。世界中、時代も選ばずとにかく文字ならなんでもあるのかもしれない。
『竜希』という文字列が流れ去った。思わず目で追うが、行方も知れない。あっというまに見えなくなった。竜希。私の名前だ。誰かによばれたわけでもないのに、無性に振り返りたくなった。だがどこが前なのかもわからない。私はどこにも行けないのかもしれない。
そうやってどれだけ流されていたことだろう。文字の見過ぎで頭がくらくらしてきた頃、顔を仰向けた先に真っ黒ななにかが見えた。その真っ黒のなにかから絞り出されるかのように文字がにゅうっと出てきて流れ出す。初めはぬるりとゆっくり。しかしすぐに身をくねらせるようにしていきなり加速する。
そういう文字がゲリラ豪雨の雨粒のように、真っ黒な雲から叩きつけてくるあの水の弾丸のように降ってくる。私は頭の上で両腕を組んで文字の弾丸から身を守ろうと縮こまった。「悪意」という文字が私の頬に突き刺さり、消えた。
それが切っ掛けで次々と文字が私に襲い掛かった。両腕につぎつぎと刺さる文字列は私を傷つけ切り刻み消えない瑕をつくる。あまりの文字の重圧に押しつぶされそうだ。それでも私は運ばれ続け、黒いものに近付いていく。文字はますます激しく私の身に降り注ぐ。もう痛みも感じない。ただ投げ出すことも出来ない諦めと逃げることが出来ない絶望とで満ちた円筒形の中に取り囲まれなにものかもわからない嫌な気配のする真っ黒なそこに近付き続けた。
ふと文字の雨が緩やかになったことに気付いた。痛みは消えないが体にあたる衝撃は軽くなったようだ。
腕をそっと離して窺うと文字が減り、勢いもなくずるりと滴り落ちてはそのまま垂れていく。間延びした文字はなんと読むのかもわからないただの線になっていた。黒いものがずいぶんと小さくなっていることに気付いた。小さくなった今ならはっきりとわかる。文字が出てくるたびに縮んでいる。黒いものは文字の本体のようだ。私の周りを取り囲んでいた文字列も今や不明瞭な線の集まりでしかなかった。ただ無心に手を伸ばしただけのようなとりとめのない線が流れていく。それも少しずつ短くなりとうとうなにもなくなった。
黒いものはほんの一握りの小さな球体になっていた。見ているとなにやら嫌な予感がする。それなのに心惹かれてしかたない。こらえきれず手を伸ばした。きっとなにか恐ろしいことが起きると思いながらも触れずにはいられなかった。指が球体に触れた。爪と皮膚の間から黒いものが体内に侵入してきた。圧倒される。文字になれない純粋な情報の洪水が私の中に渦を巻く。私が産まれてからこのときまでのこと、それどころか人類が進化する前の水棲生物だったことも地球が生まれるときのことも、宇宙が出来あがる工程も、その宇宙がどこから生まれたのかさえ。私の中のすべての情報が共鳴して黒いものは微塵も残さず私の中に入ってしまった。いや、私が黒いものを取り込んだのか。
私はすべてを知りえて私は私でなくなった。今や私は黒いものだった。私の中にある膨大な情報が私の中で暴れ出す。解き放ってくれ伝えにいかせてくれ。伝えたい。誰のもとへでもいい。言葉を情報を感情を揺さぶる音にしてなにもかもを伝えたい。
私は強い衝動に突き動かされて満ちている情報を文字にして吹き出した。全身の毛穴から文字が飛び出していく。世界中のどんな文字も、時代に置いていかれて消え去った文字も関係ない。私の中から情報が溢れだし零れだし恐ろしいほどの速度で飛び出していく。飛んでいけ飛んでいけ突き刺され傷つけろ誰でもいい許すな攻撃しろ。黒い文字が私の中から抜け出ていく。私はどんどん小さくなる。黒い私が縮んでいく。そうして最後に残ったものは


『 』。


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