4.空白鷺

文字数 7,051文字

空白鷺

 新千歳からユジノサハリンスクに至るまでの一時間半、僕は飛行機の窓に額をくっつけたまま爺ちゃんの眼を思い出していた。鯨のようにゆっくりと閉じられる瞼。太古の肋骨のような睫毛。ここではないどこかを捉えたままの瞳孔…。爺ちゃんが亡くなってからの一年間、僕の脳内ではそれらの映像がドキュメンタリー映画のように幾度となく再生されてきた。だけど僕は、それが実際に見た爺ちゃんの眼なのかどうか、いまひとつ確信が持てない。もう二度と会うことのない人間の映像というものは、会うことがないゆえに現実の校正を受けないからだ。まるで古いフィルムのように、それらは一方的に色あせてゆく。

 遺品を取りにサハリンまで来てくれないかという手紙を受け取ったのは、初盆を迎えた日の夕方だった。その日は家の近所の海岸で花火大会が行われる予定で、僕と両親は今年もベランダから観ようか、なんて話をしていたのだけれど、昼を少し過ぎた頃からパラパラと雨が降り出して夕立となり、花火大会は中止になった。大粒の雨は次第に勢いを増し、いくつかの細い川が氾濫して小さな民家を押し流した。経験したことのない強い雨、とラジオのアナウンサーは言った。郵便局員はそんな大雨の中にやって来た。

「ロシアからの手紙ですよ。珍しいですね」と彼は言って、端の部分が濡れて毛羽だった封筒を僕に渡した。シベリアの雪原と白い渡り鳥の切手が今にもはがれそうに封筒の隅に貼られていた。
「ロシアから?海外に親戚も友人もいなかったと思うけどな」
「そうなのですか?しかし住所はこの家になっていますから。宛名もあなたで間違いないですよね?」
 住所はいくつかの表記ミスはあるものの確かに僕の家を指していたし、たどたどしいローマ字で書かれた宛名は間違いなく僕の名前だった。僕は差出人の名前をまじまじと眺めた。しかし、書かれていた名前に心当たりはなかった。
 
 そういえば、と父が言った。
「親父、戦時中に樺太に疎開してたって聞いたことがあったな」
「お義父さんが?じゃあ差出人はその頃の友人かしら。でも私は亡くなったこと知らせてないわよ。ロシアに知り合いがいたなんて知らなかったもの」
「親戚の誰かが知らせたんじゃないか」
 それなら葬儀の遣いも出してるはずでしょと母は言って、何か切るものはないかとリビングの中を探し始めた。僕は、テーブルの上にペーパーナイフがあるよ、と言って自分で取りに行った。
 羽型のペーパーナイフで丁寧に封筒を開けると、中からはとても上質な手触りの便箋が三枚入っていたが、それらは全てロシア語で書かれていた。
「お前、読めるか?大学でロシア語勉強してただろ」と父が僕に言った。
「してたよ。でもあれは第二外国語の科目で必修じゃなかった。ロシア語なんてずいぶん長い間読んでないな」
「でもうちの中で読めそうなの、あんたしかいないわよ」と今度は母が言った。
 たしかにその通りだった。
 
 僕は久しぶりにロシア語の辞書を本棚から引っ張り出してきて翻訳作業に取り掛かった。驚くことに、ロシア語を履修していた大学一年の頃から数年が経った今でもしっかりと文章の意味を読み取ることができた。大意はこうだった。

『自分は戦時中に樺太で貴方の祖父と仲良くしていた者だ。貴方に彼の遺品を渡したいが訳あってどうしても物だけをそちらに送ることができない。お手数だがユジノサハリンスクまで取りに来てくれないだろうか。もちろん交通費は出すし、宿を予約する必要もない。自分の家に宿泊できるよう準備をしておく』
 
 そうして家族の中で唯一ロシア語が話せる僕がサハリンへと派遣された。まとまった休暇が取れたのは、同じ年の十一月のことだった。
 

 飛行機は薄暗い灰色の雲を切り分けるように翼を広げて、金属の定規で地図に線を描くようにまっすぐ北へ向かってゆく。小学一年生が使うようなプラスチックの定規なんかじゃない。測量のプロが使う、正真正銘の確固とした定規だ。たしかそういった定規が家の押し入れにあったな、と僕は思った。幼い頃に友達に自慢しようと学校に持って行ったものの、学校指定の文房具ではないからという理由で先生にひどく怒られたことがあった。当時の僕は先生に対してひどく腹を立て、どんな定規を使おうが僕の自由だし、何より学校指定の定規よりはるかに正確なのだから怒られるのはおかしいと言った。
 でも、今なら当時の僕の間違いに気づくことができる。小学生に不用意に金属を—たとえどんなに学習に必要なものであっても—持たせることは様々なリスクを孕んでいるし、
ひとりだけみんなと違うものを、それも高価なものを使う行為は、子ども教典においては禁忌事項なのだ。
 
 
 ユジノサハリンスク空港は僕が思っていたよりもずいぶん小さな空港だった。鉛色の空と滑走路の狭間から建物の外観を眺めていると、それは空港というより廃校舎のように見えた。曇天を突き刺す管制塔と塗装の剝がれかかった赤いレーダーだけが廃校舎とは違っている。その他には何の違いもなかった。
 入国審査を済ませて市街地へ向かうバスに乗ると、僕は鞄の中から手紙を取り出して同封されていた地図を眺めた。差出人の家にあたる部分に赤いマルが付いていて、丁寧なことに乗るべきバスの路線と時刻表、バス停からの道順までもが詳細に記されていた。その固く整ったロシア語の文字を見て、車内に流れるアナウンスを聞いていると、僕はずいぶん遠くに来てしまったのだということを今さらながらに思うのであった。

 手紙に書かれていた住所は、古い楽器の工房だった。木枯らしに吹かれて物悲しく軋む看板には「楽器の製造・修理はこちらへ。クロエ楽器」と書かれていて、同じようなレンガ造りの建物が立ち並ぶ街の中でも一際異彩を放っていた。窓から低音弦楽器の音が聞こえる。僕は少しかじかんだ両手をこすって温めてからベルを押した。弦楽器の音が止み、数秒後にドアが開いた。

 出てきたのは、サンタクロースみたいに立派な髭を生やした老人だった。彼は僕の頭からつま先までをスキャンするように見ると、暖炉のような低い声でようこそ、とロシア語で言った。どうも、と僕もロシア語で言った。
「ええと、あなたの手紙を受け取って、日本から来ました。祖父が生前お世話になったようで…」
 僕がたどたどしいロシア語でそこまで言ったところで、彼は手を振って僕の話を遮った。
「まずは家の中に入りなさい。わざわざ寒いところで話すこともないだろう。それに冷たい外気は楽器に良くない」
 確かに、工房の中にはニスを塗る前のヴァイオリンやらチェロやらが所狭しと並べられているのが玄関の隙間から見えた。僕はありがとうございますと言って工房の中へ入った。

 老人はクロエと名乗った。手紙の差出人と同じ名前だったが、フルネームは書かれていなかったので、僕は彼に尋ねてみた。
「フルネームはわからない」と彼は言った。
「五歳の頃から一度も名前で呼ばれていないんだ。戦争で両親を亡くしてね」
「そうだったんですか。すみません、余計なことを聞いてしまったみたいで」
「いいんだ。みんなそれぞれ冷たい記憶を持っているもんだろ」
 
 ぺこりと僕が反射的に頭を下げると、彼はにっこりと笑って暖かい紅茶を入れたカップをテーブルの上に置いてくれた。白い湯気が霞となって僕と彼の間を遮り、天井に届く前に消えていった。
「君のお爺さんのことはよく覚えているよ」としばらくして彼が言った。
「1943年のことだ。私と君のお爺さんはこの街で出会った。お互い日本から疎開にしてきた仲間同士でね。よく一緒に遊んだよ」
 その発言を聞いて、僕は一つ勘違いをしていたのだと気づいた。彼は日本人だったのだ。手紙も会話もロシア語で行われていたことに加えて彼の見た目があまりに異国的であったために、僕は無意識のうちに彼をロシア人だと決めつけていた。おそらくクロエは黒江と書くのだろう。

「あなたは日本人だったのですね。ロシア人だと勘違いしていました」と僕は言った。彼はまたにっこりと笑って紅茶に口をつけ、金の装飾が入ったカップをソーサーに戻した。
「日本語を忘れてしまったのだよ。もう何年も八十年近く日本人を相手にすることがなかったからね。コンニチワとアリガトウしか覚えていない」
「私の祖父とも八十年以上連絡を取っていなかったのですか?」
「三回」と彼は言った。
「君のお爺さんと手紙のやり取りをしたのは、この八十年で三回しかない。一回目は彼が引き上げ船で北海道に到着したとき。二回目は君のお父さんが生まれたとき。三回目は君が生まれたときだ」
「それならどうして…」
 どうして爺ちゃんが亡くなったことを知っているんですか。僕はそう聞こうと口を開いた。けれど、それが音となって工房の空気を震わせる前に壁時計が大きな鐘の音を立て、クロエさんはすまない、と言って立ち上がった。
「五時過ぎに修理したヴァイオリンを届けに行く予定を立てていたんだ。悪いが続きは還って来てからにしてもらえないか」
 僕はいいですよ、僕が勝手に聞いたことですからと言って、鞄の中から文庫本を取り出した。新千歳の空港で買った新しい小説だった。彼はしばらくヴァイオリンをケースに入れたり伝票を印刷したりと慌ただしく動き回っていたが、コートを着て玄関のドアに手をかけた時にふとこちらを向いて言った。
「私が帰るまで一時間ほど時間があるが、街をブラブラしてきてはどうかね。特に何があるというわけでもないが、はるばる日本から来たのだ。街を見ておくのも悪くはないだろう」
 僕は頷いた。確かに悪くない提案だった。

 十一月のサハリンは上空の寒気をそのまま汲み取ってきたかのような灰色の中に沈んでいた。行き交うタクシーの群れも街角に佇む銅像も、誰かが落とした深緑のマフラーも、夕暮れの街に含まれるすべてが特殊な重力を与えられたように鈍く光って、僕の目に映っては消えていった。
 時々、木枯らしが強く吹いた。港が近いのだろうか、それらは薄い潮の香りを残したまま僕の頭上を通り過ぎ、街路樹の最後の葉を散らした。その風はどこへ向かうのだろうと僕は思った。木枯らしが木枯らしとしての役目を終えたら、彼らはどんな運命を辿るのだろうか。
 街を歩きながら、僕は初めて爺ちゃんと将棋を指した日のことを思い出していた。小学校五年生だった当時の僕は将棋の指し方はある程度わかっていたとはいえ、爺ちゃんに全く歯が立たなかった。何度やっても勝てなかった。
「男は度胸だぞ」と爺ちゃんは言った。
「将棋だけじゃない。男ならいろんなものに度胸でぶつかっていくんだ」
「女は?」と僕はふざけて聞いてみた。
「愛嬌だな」と爺ちゃんは言った。
 男は度胸、女は愛嬌。爺ちゃんが僕にくれた初めてのテーゼだった。

 ふと空を見上げると、鉛色の空を横切って飛んでいく一羽の鳥が見えた。それは真っ白な鷺だった。暗い空の中であってもその鷺は自ら光を放っているように際立ち、真冬の月のように胸毛の一本一本までもがはっきりと見えるようであった。僕は地上からその鷺をしばらく眺めていたが、鷺は僕に見られていることなど気にすることもなく悠然とどこかへ飛び去って行った。それは美術館で抽象画を見た時のような感覚だった。遠くから見れば、それは意味に霞みがかかった表現にすぎない。それでも、思い切り近くで見てみれば、誰かが明確な意図をもって作ったパーツの集合であると気づく。
 今までこんなに注意して鷺を眺めたことなんてなかった。


「何か面白いものは見つかったかね」とクロエさんは夕飯のスープを口に運びながら言った。その長い白髭にトマトの赤みが付いてしまうのではないかと気になりながら見ていた僕は、不意の質問に少しだけ返答が詰まってしまった。
「そうですね…街には特に変わったものはありませんでした。あまり日本と違わないというか」
「まあそうだろうな」
 彼はそう言って実に器用にスプーンを口に運んだ。
「どこに行ったって同じだよ。日本でもロシアでも、世界の構造なんて変わりはしない」
「それはどのような意味においてですか?」
 僕はそう聞いてみた。ジャガイモのほのかな甘みが喉に溶けていった。
「すべてが空白を抱えて生きているという意味においてだ」と彼は言った。
 
 空白を抱えて生きるということはどういうことなのだろうと僕は思った。クロエさんの話し方は抽象的でつかみどころがなく、林の中へ迷い込んでしまったように僕を不安にさせた。奥に行けば行くほど草の丈が高くなり、陽光の輝きを失ってゆく種類の林だ。理解しようと足を踏み入れるほど核心から遠ざかってゆく。

 夕食が終わって食器を片付けた後に、クロエさんは夕方の話の続きをしよう、と言った。
「なぜ君のお爺さんが亡くなってことを私が知っているか、という質問だったね」
「そうです」
「鷺が季節を遡ってやってきたからだ」
「鷺?」
 クロエさんはそうだ、と頷いた。そういえば、さっき街で鷺を見たな、と僕は思った。
「本来ならば、鷺の群れは秋を前にしてこの地を飛び立ち、日本へと向かう。寒いのも食べ物がないのもここと変わりはしないがね。それでも彼らは南を目指す。本能がそうさせるのだよ」
 彼はそう言いながら立ち上がって、窓の外を見た。気づけば外では粉雪が降り始め、月のない夜を次々に埋めていった。
「鷺と僕の祖父にどんな関係があったのでしょうか」と僕は聞いてみた。
「直接的にはなんの関係もないさ。ただ直感的に思ったのだよ。あの鷺は君のお爺さんの魂を日本から運んできたのではないかとね」
「なんだか非現実的な話に聞こえます」
「そういうものだよ。魂について語るのに現実の言葉はいらないのさ」
 クロエさんは再び窓から離れると、今度は壁に立てかけてあったチェロを手に取り、椅子に座って調弦を始めた。
「数曲お付き合い願おうか」
 ぜひ、と僕は言った。

 クロエさんはバッハの無伴奏チェロ組曲を弾き、ボロディンの韃靼人の踊りを弾き、そしてサン=サーンスの白鳥を弾いた。僕がアンコールをすると、今度はチャイコフスキーのトロイカを弾いた。もしも音に触れることができたとしたらすぐにほどけてなくなってしまいそうな、とても繊細な弾き方だった。
 彼は曲と曲の間に様々な思い出話をしてくれた。爺ちゃんと一緒にカモメを捕まえたこと。トナカイから逃げたこと。そして迫りくるソ連軍と本土への引き上げ船…。

 結局のところなぜ爺ちゃんの死がわかったのかという問いについては直感というスピリチュアルな回答に終わってしまったし、空白についてもよくわからなかった。それは僕の理解できる範疇を超えていて、クロエさんの領域にたどり着くには渡って来た時間の差がありすぎた。けれど、クロエさんが演奏するチェロのしとやかな音色に耳を澄ませていると、彼が言わんとしていることの切れ端に少しだけ触れることができたような、そんな気がした。きっとまだ言葉では説明できない。でも確かに、僕はあのチェロの音色の中に鷺の白毛をみたのだ。

「君に渡したかったお爺さんの遺品というのは、このチェロのことなのだよ」
 クロエさんはひとしきりチェロを弾いた後でそう言った。
「これは当時君のお爺さんが住んでいた家の柱を加工して作ったチェロだ。どうしても直接君に渡したくてな」
「いい音色でした」と僕は言った。
「どんな音がした?」
「白鷺の胸毛のような音でした」
「そうか」
 クロエさんはそう言うと、黒いハードケースにチェロを入れて僕に渡した。その光景が棺に入った爺ちゃんの姿と重なって、僕は去年の火葬の日を思い出した。あの日の斎場に鷺は飛んでいたのだろうか。
「どうか無事に日本へ持ち帰ってくれ。私はもうここを飛び去ることはできない。もはや私は日本人ではなくなってしまった」
「確かに受け取りました。クロエさん」
 彼は頷いた。

 帰国する日は、午後から吹雪になった。
 午後一時発の新千歳便は視界不良のためすでに約二時間の遅延が発生しており、離陸の見通しが立たないということだった。日本人のキャビンアテンダントが申し訳ありませんとアナウンスで呼びかけると、周りの乗客たちは不満げに声を漏らしながら立ち上がったり、歩き回ったりし始めた。
 僕は窓際の席に座ったまま、外を眺めていた。雪はあとからあとから降って来ては風にほどけて、細かい粒子となって大気に散っていった。目を凝らしても何も見えやしない。遠近も高低もわからない、ホワイトアウトだった。こういうのには慣れていた。僕が育った日本海沿いの街でも、冬場になると強い沿岸の吹雪が視界を覆った。こういう時には何をしても無駄なのだと僕は知っている。どれだけ前に進もうと試みても、空白の中に座標はないのだ。
 
 空白、と僕は声に出してみた。すべてが空白を抱えて生きている、とクロエさんは言った。ロシアにいようが日本にいようが、誰もが空白を抱えて生きている。僕もクロエさんも、鷺もチェロも。
 僕の中にある爺ちゃんの面影はやがて色彩を失い、空白に置き換わるだろう。けれど、もしも白鷺が季節を遡って空白の雪原へ下りたつのならば、僕は爺ちゃんの魂に何度だって会いに行けるのだと思った。白い飛行機の腹に積んだチェロを弾いて、何度だって白毛に触れることができると。

 そうして飛行機が南へ飛び立つまで、羽のように舞う雪を眺め続けていた。
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