第1話遠回りの途

文字数 10,883文字

1.  舜
 私の一家は小学校3年生の時、名古屋市内から郊外の街に引っ越した。
由美は転校先の同級生。明るく可愛い顔立ちで、男子に人気があった。
家はすぐ近所。クラスが同じで、席もたまたま隣同士であった。
ある日、授業中に彼女と文房具の貸し借りをしていたら、何かの拍子にバランスを崩し二人とも椅子から
派手に転げ落ちてしまった。
先生からは怒られ、クラス中からも「何やってんの」という嘲笑を浴びてしまい、とてもバツが悪かった。 
 由美とは4年生では別のクラスになったが、5年生と6年生の時はまた同じクラスになった。
5年生の2学期頃、クラスの女子の間でリリアンという手芸が流行っていた。
由美たち女子は休み時間中の教室でそれぞれの作品を見せてはしゃいでいた。
それを横目で見ていた私は何の気なしに「僕にも作ってよ。」と彼女に頼んだ。
ただ、その際、彼女は黙ったままで返事がなかったので、本当に作ってくれるとは思っていなかった。
まあ、小学校の男子にとってはもともとリリアンなんて余り興味がないものであり、ちょっとした気まぐれから頼んだこともあって、翌日にはすっかり忘れていた。
ところが、数日後の朝、教室に向かう廊下の隅で彼女に「南くん」と呼び止められ、「これ」と小さな紙袋を素早く渡された。
「みんなに知られると、からかわれるから内緒にして。」と念を押される。
紙袋の中は小振りなアクセサリーで、いくつもの色糸がきれいな模様に編み込まれている。
すっかり忘れていたのと、もらえると思っていなかったので、ちょっと驚いた。
「部屋に飾るよ。ありがと。」と言ったら、恥ずかしそうに微笑んでいた。
このころから淡い好意を持つようになった。
 
 6年生の時先生に指名され、放送委員になった。放送委員は月~金の昼休み中の全校放送のために給食を職員室の隣にある放送室で食べることになっていた。
女子の委員(アナウンス担当)は3名いたが、男子の委員(機械操作担当)は私ひとりだったので、3人の女子委員とかわるがわる遮音のために隔離された放送室で、45分近く二人きりになり、給食もそこで食べなければならない。
放送内容自体は簡単な全校向けの伝達事項が1~2件くらいで、後は予め録音していたNHKラジオの童話番組を30分程度流すだけというものであったため、録音が無事できていれば比較的ヒマであり、彼女たちと色々な話をした。
由美も同時期に放送委員をしていた(他の二人はそれぞれ別のクラス)ので、3回に1回の割合で昼休みを二人で過ごした。
特別な出来事など何もなかったけれど、とても楽しい時間であった。
当番の日はよく「舜くんそろそろ行こう」と声をかけてくれ、一緒に放送室に向かった。
そのため、当時クラスの中では「あの二人はあやしい」とウワサされていたようだ。
確かに、私は彼女に好意を持っていたが、彼女はそんな素振りは全く示さないので、「あやしい」のではなく、私の片思いという状態だったと思う。
だけど、この頃から苗字の「南くん」から名前の「舜くん」に呼び方が変わったのはちょっとうれしかった。

放送委員は卒業が近くなる12月で引退となる。
彼女と一緒に放送する最後の日に「舜くんは名古屋の中学を受験するの?」と聞かれた。
「多分。でも合格するかどうかは別問題」と返事をしたところ、
「舜くんならきっと大丈夫だよ。でもちょっとつまんない。」と言われた。
不意を突かれてドキッとした。とっさに「何だよ、つまんないって。試験に落ちた方が面白いのかぁ?」と冗談めかして聞き返したが、笑って答えてくれなかった。
もう少し気の利いた返事をすれば良かったと後で少し後悔した。 

由美は地元の中学へ、私は名古屋の私立の中高一貫の男子校に行くことになった。

 小学校の卒業式が終わった直後、由美が偶然私のそばにいた。
これからは違う学校に通うので、あまり会えなくなってしまう。
これからも時々会ってくれないかと勇気を出して言おうとした時、3~4人の女の子たちがやってきて話しかけられた。
無視するわけにもいかず返事をしていたら、由美はいつの間にかいなくなってしまった。
後で彼女の姿を懸命に探したけれど見つけられなかった。

 その後、由美は地元の中学・高校から名古屋の短大へ、私は名古屋の私立中学・高校から東京の大学に進学したこともあり、話をするような機会はなかった。
中学・高校の時、彼女の家の前を通りかかった際に、偶然彼女が自分の部屋の窓を開けて眼があって軽くあいさつするようなことが数回あっただけ。
でも、そのたびに「いいなぁ」と思っていた。
家は近いけれどとても遠い関係。
あの頃、どうして「好きだ」と言えなかったんだろうか。

 私は大学を卒業後、そのまま東京の会社に就職した。
入社2年目の夏休みは、大学3年の時に入部した探検部の後輩達と岐阜県の長良川の上流でカヌーを漕いだ。
一日中急流を下る。昼食は上流に人家がない支流で、流しそうめんをした。
ミネラルウォーターのような無垢な川の流れに直接そうめんを放ち、皆で競って食べる。
夕方には全員素っ裸で清流に飛び込み汗を流した。
夜は河原でキャンプか山間の無人駅で雑魚寝。
息をのむような星空のもと、駅の中で初めてセミの脱皮をリアルタイムで見た。
休暇の制約上、私だけ途中で切り上げて東京に戻らなければならず、その日は実家に泊まり、翌日帰京することにしていた。

 夜の9時頃、実家のある駅に到着。
折り畳んだファルトボートを載せた重いバックパックを背負い、ウォークマンで高中正義の「Blue Lagoon」を聴きながら改札口に向かっていた時、偶然、由美と再会した。
「日焼けで顔マックロ!」と笑われた。
彼女の家から駅まで歩けば15分程度だけど、自転車で通っているとのこと。
「遅くなるよ。」と私は自転車に乗るよう促したが、「久しぶりだから。」と言って自転車を押しながら歩いて一緒に帰ってくれた。
彼女は短大を卒業後、大手商社の名古屋支店に勤めており、今日は残業で遅くなり夕食もまだとのこと。忙しくてボーイフレンドもできないとこぼす。
当たり前だがすっかり大人の女性になっていた。
ショートヘアが似合う横顔が月の光に映える。
ボーイフレンドがいないなんて信じられなかった。
「いつまでこっちにいるの?」と尋ねられて、
「明日東京に戻る予定なんだ。」と返事をしたら、
「忙しいね。 舜くんはすっかり東京の人になっちゃったね。」と言われた。

しばらくとりとめもない話が続き、彼女の家が近づいてきた。
このまま別れてしまうのが残念なので、「明日、空いてたら夕食を一緒に食べないか?」と予定変更して誘おうかと一瞬考えた。
だけど、あまりに急すぎる。彼女には既に予定があるかもしれない。
また、一方で私も仕事がある。これは調整すれば何とかなるけど、どうしよう。




2.由美(その1)
 舜くんは小学校3年の時、名古屋市内から引っ越してきて私のクラスに転入してきた。
私の家と舜くんの家はすぐ近くで、歩いて1分もかからない。
私達の家は新興住宅地の中にあって、私も小学校1年になる時に両親が今の家を買って引っ越してきた。新しい家が次々と建てられ、ここには舜くん以外にも大勢の転入生がいた。

 5・6年生の時も舜くんと同じクラスになった。
当時は病気で学校を休むと、同じクラスで一番近くに住む子が休んだ子の家に行き、親に連絡事項などを伝えるというルールがあった。だから、私と舜くんは互いに連絡係となっていた。
5年生になって私が風邪をひいた時、舜くんが初めて家に来て母に連絡事項や宿題を伝えてくれた。
母は「南君はえらいねえ。すごく要領よく話すし、敬語もちゃんとしてるし。」と感心していた。
舜くんは頭が良く特に算数は抜群だった。また、野球が上手で足が速く運動神経もすごくよかった。
舜くんは生まれてから4歳まで横浜に住んでいて、ご両親もそちらの人なので名古屋弁を話さない。ほとんど標準語なので都会的に見える。
女子にも人気があり、「南君が好き!」と明言する子もいたし、休憩時間に他のクラスの女子が私たちのクラスに来て舜くんにいろいろ話しかけることもあった。
でも舜くんは、いつもちょっと困ったような顔をしていたような記憶がある。

 5年生の時、女子の間でリリアンという手芸が流行っていた。私も自分で作ったものを学校に持って来て、大勢で見せ合っていた。
それを何気なく見ていた舜くんが、「へぇー、きれいだな。僕にも作ってよ。」と言った。
舜くんが誰に向かって言ったのかはっきりしなかったので、誰も返事をしなかった。
また、彼もそれ以上は何も言わなかったので、やり取りはそれきりになった。
ただ、私は舜くんが私に頼んだような気がしてならなかった。

 家に帰り、どうしようかと思った。私の勘違いかもしれないし。
何故かドキドキする。しばらくして、「舜くんが好きなのかも。」と思い当たった。
でも、舜くんは私のことを何とも思っていないはず。本当にどうしよう。
いろいろ迷ったけれど、思い切って作ることにした。
それからは学校から帰るとずっと作り続けた。
2日かけてやっと3つの水晶のような形をした小さなアクセサリーができた。

 翌朝は少し早めに学校に行き、舜くんが登校するのを待っていた。
舜くんが来た。私はそばに行き、小さな紙袋を素早く渡した。
彼は最初びっくりしたようだったが、紙袋の中のアクセサリーを見て、「部屋に飾るよ。ありがと。」と、にっこり笑ってくれた。
とてもうれしかった。だけど、なぜか何も言えず微笑むのが精一杯だった。

 しばらくして母から「由美、南くんに何かプレゼントしたの?」と聞かれた。
ドキッとしたが、「なんのこと?」と平静をよそおって聞き返したら、
「今日、買い物の途中で南くんのお母さんに会ったんだけど、『舜が由美ちゃんからきれいな飾り物をもらったそうで、大事に自分の勉強部屋に飾っているの。よっぽどうれしかったみたい。』って言っていらっしゃったわ。
それから『舜はどうも由美ちゃんのことが好きみたい』だって。」
耳が熱くなった。恥ずかしかったので「そんなことないよ。南くんはただリリアンの飾りが欲しかっただけで、誰が作ったものでも部屋に飾ったはずよ。」と早口で言った。
母は微笑んでそれ以上は何も言わなかった。
自分の部屋に戻ってもまだ動悸が治まらない。
「私のことを好きって本当かな?本当ならいいけど。」などと考え始めると勉強が手につかなかった。

 でもそれから、舜くんは私に特別な素振りを示すことはなかった。
「やっぱり私のことを何とも思ってないんだ。」と寂しかったが、他の女子のように自分から気持ちを伝える勇気はとてもなかった。

 6年生になった時、舜くんが放送委員になった。私は5年生の時から立候補してアナウンサー役の放送委員になっていたが、機械操作担当の男子委員には立候補者がいなくて、先生が渋る舜くんを指名した。
私の他にアナウンスを担当する女子の委員が2人いたが、舜くんが放送委員になったと聞いてみんなうれしそうだった。
当番の放送委員は昼休み中の番組のために、給食を放送室で食べることになっていた。
女子の3人が交代で舜くんと昼休みを過ごすことになった。
3日に1回の当番の日が待ち遠しかった。
舜くんは放送室で給食を食べながらいろいろな話をしてくれた。
4年生の夏休みの間中ずっと茅ヶ崎のおじいちゃんの家に行って、毎日海で泳いでいたら夏休みの宿題をやるのをすっかり忘れて大慌てしたことや、最近読んだ本の中では「トム・ソーヤーの冒険」が面白かったことなど。
こんな楽しい時間がずっと続けばいいのにと思っていた。

 でも、小学校を卒業する日がだんだん近づいてきた。
私は放送室で「舜くんは名古屋の中学を受験するの?」と聞いた。
彼は「多分。でも合格するかどうかはわからないよ。」と謙遜する。
「舜くんならきっと大丈夫だよ。でもちょっとつまんない。」と思わず言ってしまった。
舜くんは「何だよ、つまんないって。試験に落ちた方が面白いのかぁ?」と苦笑いしながら聞き返す。
「『つまんないって』いう意味が違う。」と言いたかったけど、やっぱりとても言えなかった。

 舜くんは名古屋市内にある中高一貫の私立男子校に合格し、私は地元の公立中学に進むことになった。

 卒業式の日が来た。
家は近所だけど通う学校が違うので、舜くんと話す機会がずっと少なくなる。
式が終わって解散になった時、思い切って舜くんに近づいた。
舜くんは私に気付いて「由美ちゃん、一緒にやった放送委員楽しかった。それから作ってくれたアクセサリー、今でも部屋に飾ってあるよ。」と言って優しく笑った。
涙が出そうになる。卒業式の間は一度も泣かなかったのに。
「ありがと。これからも元気でね。」とやっと返事をした。
舜くんが何か言いかけた時、名古屋の私立の女子中学に通うことになった女の子達が舜くんを囲んだ。
「南くん、4月からは朝何時の電車で学校に行くの?みんなで一緒の電車に乗らない?」などと楽しそうに舜くんに話しかける。
私は急に取り残された気持ちになって、皆からそっと離れ、桜のつぼみが膨らみ始めた校庭を横切って家に帰った。

 危惧した通り、その後は舜くんと会って話をするような機会がなくなってしまった。
私が部屋の窓を開けた時、学校から帰宅中の舜くんと偶然眼が合って小さくあいさつしたことが中学高校を通して2回あっただけだった。


 私は高校・短大時代には仲のいいボーイフレンドができたし、失恋も経験した。
舜くんとのことはいつの間にか幼い日の遠い思い出になっていた。
ただ、高校3年の初夏の夜中に私が窓の外を何の気なしに見たとき、舜くんが屋根の上に座って星を眺めているのが眼にとまったことがあった。
考え事をしているようでじっとして動かない。進路の事でも考えているのかな。
気になったので近くにあったバードウォッチング用の双眼鏡でしばらく彼の姿を見ていた。
久しぶりに見た舜くんはすっかり大人っぽくなっていた。
夜空を見るために少し上を向いて真剣に何か考えている横顔は、月の光を浴びてため息が出るほど凛としていた。

 舜くんは東京の一橋大学に入り、実家には年末に帰って来るぐらいになったので、大学生の彼とは一度も会うことはなかった。
ただ、母が大学時代の舜くんと道ですれ違ったことが一度ある。暮れの昼下がりに彼が外出する時に会ったそうだ。
「背が高くなって見違えるほど恰好良くなっていた。笑顔で挨拶してくれたけど何か東京で洗練された感じ。」母は昔から舜くん贔屓だ。

 私は名古屋の短大を卒業後、大手商社の名古屋支店に入社した。
毎日忙しく、残業も多い。入社後に付き合った人もいたけれどなんとなくうまくいかず、別れてしまった。

 入社して3年たった8月の蒸し暑い夜、いつものように残業で遅くなり、家のある駅に着いたのは9時を回っていた。疲れていて、夕食もまだなのでお腹も空いていた。
その時、改札口の前で舜くんとバッタリ会った。彼はジーンズにポロシャツ姿で重そうな荷物を背負っていて、ヘッドホンで音楽を聴いていた。
「久しぶり。」と声をかけられた。
すごく日焼けしていたので、「どうしたの顔マックロ。」と笑いながら聞くと、
「夏休みをとって、長良川の上流で3日間カヌーを漕いでいたんだ。」と理由を話してくれた。加えて、「顔だけじゃなくて全身マックロだよ。それに近寄ると汗臭いよ。」と言って笑った。
その笑顔は母が前に言っていたようにとてもインパクトがあった。
なにか胸がキュンとなるようでズルイと思う。
日焼けした顔と白い歯が眩しいくらい健康的に見えた。

 私は家から駅まで自転車で通っていた。
「遅くなるから自転車に乗ったら。」と舜くんは言ってくれたが、何となくこのまま別れるのが惜しくて自転車を押しながら一緒に歩いて帰ることにした。
舜くんは大学を卒業した後、有名な企業に入社して2年目。丸の内の本社で働いているとのこと。
カヌーは大学3年から始めたと言っていた。相変わらずスポーツも得意のようだ。
今のラフな格好もいいけど、スーツ姿の舜くんも一度見てみたいと思った。

私も自分の事を話した。つい会社の愚痴も話してしまったけれど、舜くんは丁寧に話を聞いてくれた。
明日は金曜日。もし明日も休暇で週末までこちらにいるのなら、また会えないかなと思い、「いつまでこっちにいるの?」と聞いたけど、
「明日東京に戻る予定なんだ。」という答えが返ってきた。
とても残念だったので、「忙しいね。 舜くんはすっかり東京の人になっちゃったね。」と思わず言ってしまった。
舜くんは何も言わず私の眼を見ながら少しだけ寂しそうに笑った。
そんな眼で見られると何だか切なくなってしまう。
話題を替えようと思って、「舜くんはガールフレンドはいるの?」と尋ねようとしたけれど、これだけのハイスペックに加え、スポーツマンで外見もよいのだから、女の子がほっとくはずがないと思い直した。

 少し会話が途切れたまま、私の家が見えてきた。




3.由美(その2)
 舜くんは私を見て「急だけど明日、由美ちゃんは仕事が終わったあとで時間ある?」と聞いてきた。
胸がドキドキした。「うん。空いているけど、東京に戻らなきゃいけないんじゃないの?」
「いいんだ。明日の午後、会社に行って休暇中の仕事の整理をしようと思っていたけれど、もともと明日も休暇なんだ。それより、明日の夕食一緒に食べないか。おごるよ。」
「いいけど。どうしたの突然に?」
「うん、初恋の人に久しぶりに会って懐かしかったんだ。」
「えっ、なに?」
「照れくさいから何度も言わせるなよ。昔もらったリリアンの飾りだって今でも持っているよ。」
息が止まりそうになり、また耳が熱くなった。
「そうなんだ、ありがと。」と言うのがやっとだった。

 手短に明日の待ち合わせ時間と場所を決めた。絶対明日は残業しないと心に誓う。
別れ際、私の家の前で「明日楽しみにしてる。」と優しい声で言ってくれた。
気持ちが溢れて言葉にならない。
精一杯の笑顔で「じゃあね。」と応えて家に入った。

 遅い夕食を食べながら、母に今夜のことと明日の晩ごはんがいらないことを話した。
母は「チャンス!」と言い、続けて「晩ごはんだけじゃなく、朝ごはんも一緒に食べちゃいなさい。お父さんにはうまく話すから。」とすごいことをけしかける。
母はどうやら私より舜くんのことが気に入っているみたいだ。
翌朝、家を出る時も母からは「しっかりね。」と言われた。思わず「変なこと言わないで」と笑って抗議した。短大受験の朝以来、久しぶりに聞いた励ましだった。

 会社にいても一日中なんだか体がフワフワして、仕事が手につかなかった。
17時になるとすぐ会社を出て、待ち合わせの喫茶店に行った。
舜くんは先に来ていて、文庫本を読んでいた。
一度見てみたいと思ったダークスーツに真っ白なワイシャツ。濃紺に白の小さな水玉柄のネクタイを締めている。とても似合っていた。「素敵ね。」と言うと、
「馬子にも衣装かな。今日、会社に行くつもりで一着だけ持ってきたんだ。暑苦しいんだけど、さすがにジーンズにTシャツじゃ店に入れてもらえないよね。」と照れる。

 舜くんはお洒落なイタリアンのレストランを予約してくれていた。
その店はとてもシックな内装で料理も美味しい。
スプマンテで再会の乾杯をした。舜くんは気持ちいいほどよく食べる。
「すごい食欲。」と言ったら、「いや~、長良川ではろくなものを食べなかったから。」と笑う。
インスタントラーメンと魚肉ソーセージが定番メニューで、たまに房買いしたバナナを人数配分して余りが出ると、ジャンケンで勝った者が食べられる「争奪戦」でいつも盛り上がるそうだ。
「でも、水のきれいな支流でやった流しそうめんは最高だった。それから夜は星がいっぱい見えてすごいんだ。河原に寝転がって星空を見上げると地球が丸いって実感するよ。」と教えてくれた。
「星空といえば、舜くんが夜中に屋根に登って星を眺めていたのを偶然見たことがあるわ。何かずっと考え事をしていたみたい。確か高校3年生のころ。」
「えっ、見てたのか。危ないってオフクロには怒られていたけど、あの頃はしょっちゅう屋根に登っていたなあ。」
「いろいろ考え事があったりして煮詰まった時なんかに星を眺めていたんだ。
宇宙は広くて距離の単位も光年だし、時間も1000年くらいは一瞬とみなされるよね。
『それに比べて自分は小さなことで何をくよくよ悩んでるんだ』という気持ちになれて吹っ切れるんだ。
それに高いところは単純に気持ちいいというのもあったけど。
まあ、『なんとかと煙は高いところにのぼる』って言うとおりかな。」と舜くんは一瞬遠くを見るような眼で言った。

 二次会ということで、近くのカウンターバーに行った。
ビル・エヴァンスの「Waltz for Debby」が音を絞って流れていた。
居心地の良い店で、金曜の夜だからか男女二人連れのお客が目につく。
「僕たちも恋人同士のように見えるかな?」と舜くんがいたずらっぽく尋ねる。
「どうかなぁ~」と曖昧に答える。本当にそうであればいいのに。
目の前にいた年かさのバーテンダーが、「仲のいいお似合いのカップルじゃないですか。」と注文した飲み物を出しながら会話に入ってきた。
舜くんが「残念ながら、彼女は幼なじみで僕の片思いの初恋の相手なんです。昨日久しぶりに駅で偶然会ったんで、今日は無理に誘ったんです。」と言った。
「本当にそうなんですか?」と私の方を見て微笑みながら質問する。
答えに困って少し黙っていたら、その人は「失礼しました。ごゆっくり。」と言って気を利かせて目の前から去っていった。

 私は思い切って「舜くんの片思いじゃないわ。私も舜くんが好きだったのよ。」と小さな声で言った。
「え~本当かな?だけどそんな素振り全然見せなかったよね。」
「それは舜くんが気付かなかっただけ。卒業前に放送室で『舜くんが中学の入試に合格したら、つまんない』と言ったでしょ。あの時、舜くんは誤解していたけど、同じ中学に行けなくて『つまんない』っていう意味だったの。」
「それから、舜くんも私のことが好きだなんて一言も言わなかったし、全く態度にも表さなかったわ。
今になって他の人の前で『片思いの初恋の相手だった』と冗談めかして言われるとちょっと悲しい。」
感情が溢れてきて一気にしゃべってしまった。
舜くんは「無神経なことを言ってゴメン。僕が悪かった。」と謝った。
そのあとで「もう帰る?」と優しく尋ねられた。
「ううん。私も昔からの舜くんへの気持ちを話せてすっきりした。私も言いすぎたし、怒ってなんかいないから気にしないで。」と返事をする。
「うん。わかった。ありがと。」と舜くんは言った。

 雰囲気を変えたくて、「ねえ、舜くんは女の子にとっても人気があると思うけれど、付き合っている人はいるの?」と昨夜聞きそびれたことを尋ねた。
「そんなにモテるわけないけど、ガールフレンドならいるよ。恋人というレベルじゃないけど。」
「本当?舜くんは肩書的には最高じゃない。それに、優しくてスポーツマンだから女の子がほっとかないと思うわ。」
「実際にはほっとかれてるなぁ。でも由美ちゃんだって、昨日、ボーイフレンドもできないって言ってたけど、とても信じられなかったよ。」
「だけど、この会話ってお互い妙な形でエールの交換というか傷口をなめあっているようで変だね。」と舜くんが言って、二人で笑いあった。
いろいろなものがスッキリ流れて行ったようで、晴れやかな気持ちになった。

 舜くんが少し改まって、「明日も明後日も会ってくれないかな?東京に戻るのは日曜日の最終の新幹線にするよ。」と言う。
続けて「昔は言えなかったけど、今は自分の気持ちに正直になる。僕と付き合ってくれないか?」と聞かれた。
私は胸がいっぱいになり、「うれしい。」としか言えなかった。
曲が「Someday My Prince Will Come」になった。

 店を出る時、先ほどの年かさのバーテンダーが店の外まで出てきて、「ありがとうございました。おやすみなさい。」と言った後、私にだけ見えるように片目をつぶって見送ってくれた。
電車はまだあったけれど、タクシーで帰ることになった。
車の中で、これからは私が東京に会いに行くことや、中間地点の静岡や御殿場でも会うことを決めた。
舜くんもなるべくこちらに来るようにすると言う。「急にしょっちゅう帰って来るようになったと親父とオフクロが言うだろうなあ。」と苦笑いしていた。

 家に着く前にちょっと寄り道して、私たちの小学校の前で車を降りた。
「懐かしいな。でも、昔より校舎が小さく感じる。」と舜くんがつぶやく。
誰もいない校庭を並んで歩いた。
今日も月明かりが舜くんの横顔を照らしている。やっぱり、とても素敵だ。
舜くんは「予定変更してよかった。」と言って、手を繋いでくれた。
「ねえ、いつから好きになってくれたの?」と尋ねた。
「小学校5年生の時、また、同じクラスになったよね。あの頃からずっとだよ。
中学・高校の頃、僕が学校からの帰り道、由美ちゃんがちょうど窓を開けて眼があって挨拶したときなんかいつも『可愛いなあ』って思っていたよ。でも、僕の片思いと思っていたし、由美ちゃんはとてもモテそうだったから『好きだ』と言う勇気がなかったんだ。」
「東京に行ってしばらくして恋人ができたけど、うまくいかなくて1年で終わった。後はさっき話した通りでガールフレンドどまり。」
「昨日久しぶりに駅で由美ちゃんに会って一緒に帰った時、やっぱり『いいなあ』と改めて思った。だから、あのまま何も言わず予定通り東京に戻ったら、またあとで後悔すると思ったんだ。」舜くんはとても丁寧にゆっくり話してくれた。
「私も5年生の時から舜くんが好きだった。放送委員の時は舜くんと一緒に給食を食べられる日が楽しみだったわ。でも、私も自分の片思いだと思っていたし、舜くんは違う中学に行っちゃうし。
舜くんのことはあきらめようと思ったの。」
「今まで男の人と付き合ったことはあるけど、昨日舜くんと駅で会った時の印象はこれまでに感じたことがないくらい強烈だったわ。」
「え~、よれよれのジーンズ姿なのに? 汚い格好して汗臭かったからインパクトがあったのかな。」
「舜くんは自分の魅力に気付いていないのよ。舜くんの笑顔を見て「いいなぁ」と思わない女の子はいないわ。」
「そうかなあ? でも、お互いずいぶん遠回りをしたね。これから挽回しなきゃ。」
と微笑みながら私の顔を覗き込む。
涙がこみあげて来て、思わず彼の胸に飛び込んだ。
舜くんは驚いたようだったけど、そのままとても優しく抱き留めてくれた。
「急にごめんね。」とやっと言うと、舜くんは私の耳元で「そんなことないよ。好きだよ。」と言ってからそっと口づけをしてくれた。 (了)
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