アルキビアデスはかく語りき

文字数 12,649文字

「これは敗北ではない。フロンティアへの偉大なる飛躍である」
 くしゅん、くしゅんとなぜだかふたつ。思い出すだけで鼻孔がむずむずする。
 子供のころから繰り返し聞かされてきた。いまだって大人が子供に言い聞かせている。
 だが、どこまで理解しているのか。
 きっとあれは脳の記憶領域が言語中枢を無闇やたらに刺激する産物なのだろう。あのかび臭いフレーズを耳にするたびに、アルキビアデスはとびっきりの微笑を浮かべてみせる。
「負け犬でも、もう少し鳴き声にレトリックを駆使するものではございませんか」
 言われた当人たちは一様に口を半開きにして、首をわずかに斜めに傾ける。そして決まって数秒後には何事もなかったように、地下都市の素晴らしさを語りだすのだ。彼らがわずかな合間に考えていたことは想像がつく。犬ってどんな生き物だろうか。せいぜいそんなものだろう。
「でも、無理からぬことかもしれませんよ」
 アルキビアデスにしても、実際に犬というものを見たことがない。
 きょうもいつものように、アルキビアデスはコミューンの入り口に築かれた見張り台から地上の世界を眺めていた。
 門の前のクランクを管制する見張り台。
 何ら変哲もない、十歩も歩けば一周できる露天の施設。
 よくある効率第一のコミューンの建築群のひとつなのだが、少し違った見え方ができるものもいる。
 例えば半円形の形状は、侵入者に横矢をかけられる絶好の位置と霞む山並みまで見渡せる眺望を確保することを目的としていても、アルキビアデスにかかれば新たな評価が与えられる。
 曲線を多用するのびのびとしたつくりがなんともいい、と。
 兵学的な合理性なんてものは知っていても、月の満ち欠けを楽しむために東屋を建ててみようかといった趣きがある、となる。
 実をいえばベンチのひとつでもと思い、同胞には内緒でこっそり廃材を集めたこともあった。
「そんな、時もありましたね」
 誰もが忘れてしまったメロディーにのせてアルキビアデスはくちびるを動かす。土をかためた胸壁にひじをつき、体重をあまりかけすぎないように躰を預けて。
 それでも乾いた土の塊が足元に落ちて転がる。これは不調法、とつぶやき、ブーツのつま先だけでそれを確かめてゆっくり踏みつぶす。さくっとした土が崩れる感触。かさぶたをはがすような心持ちで丹念につぶしていく。大きなものも小さなものも、ひとつひとつにブーツをのせて徐々に力をかけていく。やがてつま先に触れるものがなく宙をさまよったところで、小さな砂山をブーツの底で丁寧にならした。
 そこまでやってみて、昨日とまったく同じ作業を繰り返していることに気がついた。
「ほお? 飽きただの、つまらないだのとぼやいていたのにこれですか。自分でも感心します。でもね、ここにはこれ以上はなにもありませんよ。月? 夜にこっちへやってきて、ごろんと寝っ転がればどこだってよく見えます。満ちたり、欠けたり、大層な。はい、もうなんだか、ここには特別な愛着はありません。まあ、得難い利点がありますけどね。ただ、ここにいるだけで、サボタージュで告発されることはありませんから」
 けれど冗舌。気分が悪くない証拠。
 あの穴倉ではないから。ここには壁がない。淀んだ空気を撹拌するファンの音も聞こえない。それに敬愛すべき同胞たちも、いまはいない。彼らのことはよく知っている。狭い通路ですれ違うたびに、彼らの吐く息を嗅がされるだけで誰かの区別がつくぐらいだ。
「なるほど、そうおもえば悪くないじゃないですか」
 小さいながらも自由な世界。
 はて、自由? なんだっけ。
 そういうふわふわした言葉は誰に尋ねても答えが返ってくるものではない。
 おそらくは聖俗入り乱れる無礼講のこと、またはそのご免状みたいな概念とアルキビアデスは解釈している。
「で、あるならば自由というやつを楽しみましょう。せいぜい卑猥に」
 いひひ、と歯をむき出しにして笑い声を立てる。
 わけがわからずとも可笑しくてたまらない。失われた酒というものを飲んだらこうなるのか。そう思うとますます可笑しくなった。
 誰の目を気にすることもなく、細い手で腹を抱えて笑い転げた。
 どうせ自由と孤独はいつもふたり連れなのだ。
 きっかり六十秒で笑いの発作がおさまると、痛む腹筋をなだめながらアルキビアデスは涙がにじむ目を少し細めた。
 もともとここは丘陵と呼ぶにはひかえめな大地のふくらみにすぎなかったが、見張り台のおかげで一段高くなっている。
「ちょっと高い。どちらを向いても壁ってものがない。ええ、それだけでもいいものですね、本当に」
 とっておきの秘密でも打ち明けるかのようにわざとらしく声をひそめると、アルキビアデスは胸壁に再びひじをつき、ほおをのせた。地下とはどこか異なる土の匂いが鼻孔をくすぐる。そのままの姿勢で地上世界の見物を楽しむことにした。
 地表はヴィヴィッドな緑の海原。風が吹き付けるたびに、さらさら音を立てて波打ち、光合成のあまりとして光を弾いている。背の高い植物が横に幾重にも葉をひろげ、少しでも生存圏を確保しようとひしめき合っている。生命力のあふれた力強さ。または貪欲さの象徴。
 顔を動かして日が沈む方角に目をやれば、かつての繁栄を物語る高層建築が天に向けて突き出ている。風雨で痛めつけられたそれは最後の生き残り。枯れた巨木のように、半ばで折れ、皮がはがれ、菌類に侵食されていてもとがどんな姿かわからないが、それでも直立している。いつの日か轟音とともに横倒しになるのだろう。
「見たいような、ううん、見たくないような」
 よろめくように一歩、二歩と後ろに下がるとアルキビアデスは首をぐらぐらリズムをつけて揺らしてみた。
「おや?」
 その自分の動きに、地下の奇妙な生物を連想する。
 彼らは地下都市で忌み嫌われる巨大な軟体生物だ。無計画なトンネル施工によって、あっちこっちに穴をあける厄介者だが、ちょっとばかしの親しみをアルキビアデスは感じている。通路で偶然出くわしたときは悲鳴を上げそうになるものの、獲物と勘違いしてこちらの匂いを嗅ぐ仕草にはどこかおかしみをおぼえる。
「こんなふうにでしたね」
 もう一度首をぶんぶん揺らす。
 すぐに何かが違うなと腰に手をあてる。
 彼らの首とか頭の区別のつかないそれを持ちあげるさまを思い浮かべながら、腰の力を抜き、左右のひざへ交互に重心をのせてくねらせてみる。
「そう、そう」
 楽しくなってきた。
 なぜか指を鳴らしてみる。最初のほうはだめ。乾いた摩擦音。何度も鳴らすうちに子気味いい音がするようになる。足を上げ、トントン床を叩く。
 これもいい。
 さっきまでの真似なんて放り出して、アルキビアデスは躰を軽く使って足をすたすた運んでみる。
 不意に跳んだ。ほんのわずかな時間、大地と切り離される。音もなく着地。
 着地したままで数秒動きを止めてから、あわてて周囲を見回す。
 つかの間、別世界の扉の中をのぞいた気がしたのだ。
「はん、おとぎ話じゃあるまいし」
 すぐさまあざけりをあびせて打ち消すが、アルキビアデスは声をあげて笑った。
 こんなおふざけが自由の一例。
 尊い自由を謳歌しようと、反動をつけてくるくる回ってみる。足の軸がぶれてゆがんだ円を描くが、かまわず回る。
 これが自由とやらの恩恵なのだろうか。頭がくらくらしてきたが、意図せずに視界がぱっと広がり、視点がぱらぱら散らばる。おかげで地表の緑の支配者でもとうとう屈服させられなかったものたちを見つけることができた。
 ふらふらしてきた回転を止めて、粗い息を整えてからアルキビアデスは指さした。
「あれ、あれ。最近ご無沙汰でしたが、くせになるんですよ。じゃりじゃりって歩いたときの感触が」
 硝子の墓所はいまだに輝きを失っていない。砕けたり、溶けたりしたきらきらの破片を誰かが一か所に集めたのだ。墓所と呼ばれていても、そもそも誰が眠っているのかも定かではない。
「まあ、親愛なる同胞たちは気にしてないですけどね」
 アルキビアデスにしてもたいして気にしていない。水色のつやつやした硝子片を拾ってポケットに入れようとしたとき、初めて気がついた。あらためてしげしげと墓所を眺めてみたが、わかることは何ひとつなく、結局それっきり。
きょうとてすぐに次のランドマークを見つけてアルキビアデスははしゃぐ。
「おや、おや、本日はお日柄もよくってことですね。あるじゃないですか。それもきれいに」
 雨が降ったあとにあらわれる三つ子池が正確に等間隔で並んでいる。
 この円形の池はもともと大昔の戦争でできたクレーターらしいが、水をたたえているのはまれ。乾季にはひとりぼっちだったり、双子になったり。今日のように三つ子は実に珍しい。
「それにしても、こんなふうに深い大穴をつくれる武器って、どんなものなんでしょう。見てみたかったですねえ。きっと、もっと感動したことでしょう」
 満足げにアルキビアデスは背をのばし、ぐっとそらす。こわばっていた筋肉がゆっくりほぐれていく。
 素晴らしきかな、地上の世界。
 欲しいものが全てそろっているわけではないし、ままならないこともずいぶんと多い。が、それでもこうやってちゃんと楽しませてくれる。
「はは、こりゃたまりません。穴倉の世界ではお目にかかれない、世にも珍しきものばかり」
 いやあ、愉快。愉快でまったくたまりませんねえ。
 ふふっんとアルキビアデスは気の抜けた息を漏らすと、背中をぞくぞくしたものがさっと走り抜けた。もうひとりの自分が背後で冷笑している、そんな不確かな存在をはっきり感じた。
「ううっ」
 振りむいても誰もいない。弱々しい風の音が鼓膜をノックしてくるだけだった。
 アルキビアデスの目にきまりが悪い色が浮かんだ。
「いまさらねえ。なにをおっしゃりたいかわかりますよ。初めてここに来た時ですか。そうでしたねえ」
 どうしても弁解じみた口調になる。
 あの時は、もっと内に重たいものを抱えて、見張り台の階段を一歩一歩昇ったのかもしれない。
 もしかしたら、ずっと熱いものを秘めて、強い風を受けてもここで顔を上げていたのかもしれない。
「見たかったのはこんなものじゃあなかったはず、ですかね。本当にシンプルなものでした。ふうむ、いまも変わったわけじゃあないですがね」
 頭をかこうとして上がった手が止まった。代わりにアルキビアデスは目をつむり、薄く開いてみた。
 今日は雲がないから晴れているはず。そのはずだが、分厚いゴーグル越しに眺める空はグレーとブルーのはざまでゆらいでいる。首を少し動かすだけで、光線の加減でどちらともいえる色合いに変化する。
 そうだった、空の色だ。見たかったのは。
 なぜ本当の空の色を知りたかったのだろうか。苦笑。これも現実。フィルタのない世界などはどこにいってもない。物理も、論理でも。手に触れた感触の有り無しなど関係がない。
「お恥ずかしい。若気の至りってやつでしょうか。ふふ、いまでも若いつもりですが」
 そう言って胸壁から身を乗り出してみれば、貪欲な緑でも覆い隠せないものたちが嫌でも目に付く。
 見え隠れする同胞の黒い姿。
 目を凝らせば、彼らが土煙をたてながら大きな荷物をひきづっていることがよくわかる。コミューンの入り口に向けて、つまりはこちらの方へ何かを運び込もうとしているらしい。
「………」
 いつか見た風景。いつもの光景。不思議な夢見ごこち。悪夢に近いのかもしれないが、アルキビアデスは陶然とする。あごに手をあて、酒に酔う感覚とはこのようなものだろうかとまた思いをはせる。
 だが、どう感じようがまさに現実だ。全身を覆う一体型の黒い耐圧服がなければ地上で一秒とて生きることはできない。ゴーグルが無ければ太陽からの有害な光線でたちまち視力を失うだろう。マスクを外せば汚染された大気によって肺腑から血を噴き出すことになるに違いない。
「率直な表現をお許しいただければ、ケツをまくって地下に逃げた。ぶうぶう屁をひけらかしながら。おっと、少しばかり品位に欠ける言い回しですね」
 人類の選択が正しかったとしても、素直に首肯するのはなかなか難しかった。
 増えすぎた人類に反比例して悪化するこの星の環境。対策はいつも後手後手に回り、あわててやってみれば結果はどうしようもない裏目。膨れ上がる問題を抱えきれなくなった人類は、押しつぶされる前に残った力を注ぎこんで地下都市を建設した。コミューンと呼ぶこの地下都市のおかげでなんとか命脈を保つことができたのだ。
 正しい選択。
 そうかもしれない。ここでは汚染された世界に怯えて暮らす必要はない。地上の気候がどのように変化しようが浄化システムは安全な空気と水を提供してくれるし、食糧プラントをはじめとする各種プラントは、生存に必要な物資を効率的に生産する。
 だとしても、アルキビアデスは先人たちに問いかけてみたい。こんな奇妙な世界までも予測していたのだろうか。
「我々にはただひとつの目的がある」
 もったいぶって言ってみても、コミューンを維持すること。そこに喜びも悲しみもない。働き続け、壊れたらそれで終わりだ。
「でも、馬鹿にしたものではないですね」
 その目的のためにあらゆるものが捨てられてきた。不要と判断されれば一切の躊躇なく捨てた。人類があれほど重用した文字さえもすでに失われていた。読み書きを行えるものはもういない。
「ただ一つの目的へまい進する我々は、意識を共有する段階にまで至った。そのように進化した我々には、文字という情報伝達方法はかえって弊害が多い」
 文字がないぐらいなのだから、文化的なものはことごとく捨てられてきた。音楽も絵画とやらもわずかなこん跡しか残っていない。もしどこかにうずもれていたとしても、価値を見いだすことのできるものの方が残っていないだろう。
「本当のところは、わたしもよくわかっていないんですけどね」
 それだけどかどか捨ててきた証左といえるかもしれない。
「捨てるってのは難しいんですよ。優柔不断なわたしなぞには、できない決断の連続だったのでしょうね。ああ、それとも大して悩まなかったのかも。ものが廃れるときには、いつの間にか、気がついたらというふうに無くなっているものですから」
 卵が先か、鶏が先か。文化を生み出すテーマが先に廃れたのかもしれない。確かに、ただ一つの目的にまい進する人類には、人生の歓喜や悲哀は希薄で遠い。文化が花開く、という表現があるのならば、貧弱でもひとつかみの土壌が必要だろう。
「ない、ない。本当にそんなものはありませんよ」
 決定的だったのは、男女の間柄だろう。男女の差は、もはやわずかな機能の差異でしかない。生殖機能もずいぶん衰退した。地下都市の限られた食糧の生産能力を考えれば、環境に適応した姿であったが。
「行き着いた終着点が、これですかね」
 そして、人類は名前さえも捨てていた。
「我々は全であって個でない。で、あるのならば個を識別するのに複雑な記号は必要ない」
 コミューンの同胞は名前を持たない。
 アルキビアデスも名前がない。呼ばれることのない、自分で付けた名前だ。旧世界のアテナイの英雄から取った。あらゆる才能に恵まれた傑物。世界を気ままに引っ掻き回した自由人。敵にも味方にも愛され、より憎まれた男。
「お恥ずかしい限りです。あやかりたいと思っていますが、わたしは非才の身。人生はままならないと、ため息をつく毎日です」
 アルキビアデスは文化を愛す。または欲した。だが、残されたものはあまりに少ない。
「例えば、これですか」
 胸を軽くたたいた。耐圧服は、コンコンと軽い硬質な音をたてた。頭から足先まで覆った漆黒の一体型の標準型スーツ。地下と地上で生きていくためにあらゆる最小限の機能が詰め込まれている。躰の線にそってゆるやかな曲線で構成されたフォルムに、無駄な意匠はなにひとつない。
「それでも美しい、とおべんちゃら抜きで、ええ、思います」
 アルキビアデスはため息を漏らし感嘆する。
 誰がデザインしたかは知らないが、もう人類はこんな機能美にあふれた製品をつくれないだろう。とくに、おそらくもっとも頭を悩ませたであろう関節部の処理が素晴らしい。頭部と胴、そこからのびる手足は、それぞれのふくらみが接続部にむけて急激に絞り込まれていて、あやうさよりも美しさに目を奪われる。それでいてかなり丈夫にできているうえに、実際には広い範囲で無理なくなめらかに動かすことができるのだ。この黒光りする耐圧服がある限りは同胞を見捨てないのかもしれない。
「なぜって? あはは、耐圧服を着た自分の姿を隅から隅まで見ることはできないじゃないですか。肩からのラインがきゅっと落ちこむ、背中のくぼみが好きというのは、ここだけの秘密です」
 それに形のあるものだけが文化ではない。まだ先人より伝承してきたものが残っていた。
「決定的な解決の時間がはじまる。これがコミューンへの最高の奉仕。さあ、武器をとれ。武器をとって列に並べ。隊列を組むのだ、同胞よ」
 人類はまだ戦争を捨てていなかった。コミューンは地上の、地下のテリトリーを巡ってたびたび血を流した。
「にぎやかになると、わたしの出番」
 そのたびに、アルキビアデスは戦場で指揮官として同胞を率いた。あらゆる戦場で常に勝ってきた。
「はい、勝ってきましたよ。負け知らずです。ほほ、わざとらしい謙遜ほど、嫌味なものはありません。仕事と言えるものはこれぐらいしかありませんから当然でしょう。まあ、あのドーカン殿のような最期を迎えぬように少しばかり控えめにはふるまっていますが」
 あれ? ドーカン殿ってだれだっけ。
 ずいぶん前に聞いたことのある名前だった気がするが、アルキビアデスは思い出せない。そこそこの仕事をして、ちょっぴりしくじったうっかりものでしょうと勝手に結論をつけて忘却可のスタンプを押した。
「ええ、戦争に勝つことでしたね。勝つだけなら簡単なんです。勝つだけなら。本当ですよ。問題は、どうやって勝ってみせるか。そこは少々頭を使いますが、結局はセンスなんでしょうね」
 アルキビアデスは戦場をひとつの舞台に見立てていた。監督と脚本家を兼ね、演出もこなし、主役はもちろん自分。アドリブはきかないが、同胞も端役ぐらいは充分につとまる。
「まあ、敵になる皆さまも大事な役者と思っていますよ。はい、ありがたいです。彼らには頭が下がります。なにせギャランティーは一切ございませんからねえ」
 古典的な両翼包囲は月並みかもしれないが好み。殲滅される敵を眺めながら、包囲網にわずかなほころびもないことを確認した瞬間がたまらない。派手に正面から殴り合うばかりが戦争ではない。こちらの意図を悟らせず、大胆な機動で翻弄するとしよう。干戈を交えることなく歩くだけで敗走に追い込むのは痛快だ。
 それは華やかな一枚の絵巻。絢爛豪華にめくりめくって大団円。
 舞台の幕が下りるとき、観客はブラボーと叫び、惜しみない拍手を送る。よい舞台によい観客は欠かせない。
 観客は誰?
 無粋な同胞には、はなから期待していない。
 大きく、ぱあち、ぱち、ぱち。
 アルキビアデスは良い観客でもあった。
 さあ、拍手を送ろう。
 痛くなって手をさするまで拍手を続けよう。
「何とも皮肉じゃないですか。戦争こそが文化を破壊してきたのに。これは想像的な破壊? よくわかりませんが、いまや数少ない文化の守り手ですか」
 かつての戦争の目的は文化を破壊することではないのかもしれない。ただ、そのプロセスで人も物も、時間すら破壊する。
 憎むべき戦争。輝かしい英雄や栄光から詩歌が編まれ、絵画に筆が走っても免罪符として釣り合わない。
「それがいまはなんとまあ。ああ、物事は相対的に考えなくては。うん、うん、何も不思議じゃないですねえ」
 興味があるのはそこまでだ。
 勝敗が決したのちのことは、アルキビアデスの仕事ではない。戦後処理などは、あずかり知らない。もっとも為政者が頭を悩ましてきた問題は、いたってシンプルに処理が行われていた。
 同胞たちは敵のコミューンを徹底的に破壊した。陥落した都市の運命は、本来がそのようなものであったが、逃げ道のない地下都市だけに呵責のない殺戮がくりひろげられた。
「そういえば、捕虜の取り扱いについて説明することを忘れていました。これは手抜かりでした。いや、ずいぶん前に教えた気もしますが、結果はいつも同じでしたからね」
 廃墟と化した地下都市を後にする同胞たちは、備蓄されている食糧を両手に抱え、よろめきながら帰路につく。まれに丈夫そうな赤子だけを自分たちのコミューンに連れ帰った。眠っていた慈悲の心が呼び起されたというわけではない。これも我らのコミューンのため。戦場で消耗した人的資源を補充しようというわけだ。
「かつて人類が世界を支配していたというひとつ話を聞くたびに、深刻な疑問を抱いておりましたが、どうやらわたしの誤りであったようです。ええ、皆様方の紳士的なふるまいを拝見して蒙がひらかれた思いがします」
 アルキビアデスは、けたけた笑い声を立てた。音がマスクにこもって気味悪く響く。躰全体を小刻みに震わす。まるでたちの悪い発作にかかったようだ。笑いながら胸壁まで激しく叩きだす。胸壁から土の塊がぼろぼろ落ちたがかまわず叩き続けた。
 まったく何て楽しい世界なのだろうか。もう笑いすぎて涙が出てくるし、腹もよじれて痛い。このマスクを外して大きな声をたてて笑いたい。血を吐きながらも笑う自信があった。
「いやはや滑稽。ああ、もう涙が止まりませんよ」
 世界がぼやけた。ごしごし手の甲でゴーグルのレンズをこすった。当然ながら涙をふくことはできない。何度こすってもきゅっきゅっと音がなるだけだった。
 涙がとまらないどころか、鼻水までだらだら垂れてきたので鼻をすすった。二度、三度すすった。
「ほんとにいやだなあ、口の中にまで入ってくるじゃないですか……、ああ、しょっぱい」
 アルキビアデスはわかっていた。つい忘れてしまうが、わかっていた。
 マスクがなくても血を吐くことなどないということを。
 耐圧服と呼ぶこれは、哀れな囚人が着せられた拘束衣だということを。
 そうだ、すべてが出鱈目だ。そうに違いない。
「壮大な張りぼて。薄っぺらなイカサマ。そうなんですね」
 アルキビアデスは確かに文化を愛していた。だが、砂漠で一滴の水を求めるように欲していたのは、もっと別のものであったようだ。何を欲するのか。少なくとも自分探しではないようだ。もっと人間の根源的な何か、のはずだった。
 人類は高みへ進化し続けるさだめ。
 そう遠くない未来、さらに余計なものがそぎ落とされて、言葉は、もっとシンプルにわかりやすい形に変化するのだろう。きっと行き違いや誤解を招くこともないのだろう。
 それは幸福に類することなのだろうか。
 プロトコルにのっとった信号。
 劣化のない、損失のない、美しく整ったシーケンス。
 そこにノイズはない。
 まさに理想。
 クレイジィなまでの完全さ。
「あたまを空っぽにして、リズムにゆだねて踊れば気持ちいいんでしょ」
 ううん、嘘。
 そんなつまらない世の中は御免、御免。
 くだらなくてもノイズが聞きたい。
 ひろいあつめて大音量で聞きたい。
 それだけでは物足りないか。
 そう、ノイズでいたい。
「この世の中に、まだぐだぐだと猥雑な真理というものがあれば」
 そのとき、頭部のセンサーが反応した。五感より鋭敏で、五感と同じように脳に直接データを送信する優れもの。それがぴりぴり大気が震えていることを伝えてくる。
 どん、どん!
 腹にまで響く轟音。雷鳴だろうか。
「おや、わたしの願いが通じましたかね。でも、もう少し穏便にできないものでしょうか」
 どん、どん、どん!
 轟音が近づいてくるようだった。さらに足元からぐらぐら揺れが伝わってくる。
 頭部の突起状のセンサーが懸命にひょこひょこ働き、本能に危険を訴えるアラームをけたたましく鳴らすが、アルキビアデスはわざとらしく手で耳を覆う素振りまでして、まるで無視した。
「便利なセンサーでもこううるさくては困りものですね。ときにオフにできないのもマイナス。不本意ですが穴倉に避難しましょう」
 そううそぶくもアルキビアデスは自分がどこにいるのかを思い出す。
 コミューンを脅威から守る目であり耳である、ここは見張り台。
 さらにいえば好奇心という厄介者を満足させるための格好の見物席。
 せめて音の正体を知らなくては。
 それから逃げ出しても遅くはない。
「ときには、スリルもまた良いものですよ」
 誰にともなく、ゆったり笑って見せた。
 さて、音の正体を拝みましょうか。
 色もない、かたちのない音。
 むろん知っている。
 鼓膜を震わす空気の振動。空気中を伝わってこちらに届く、見えない波にすぎない。ならば、空気をかき回すなにかがあるはずだ。
「………」
 緩めていた口もとがこわばった。
 アルキビアデスは、眉根を寄せた。右手をポケットに突っ込む。
 これはなんだ。自分が見ているものが理解できなかった。あまりに巨大だったからだ。崩れかけのビルディングなど比較にならない。全貌すら把握できないほどの大きさだ。それも動いている。こちらへ向けて。
 唖然としながらもポケットの中で指は、墓所で拾った硝子のかけらをまさぐっていた。つやつやした感触は少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。手の中ですべらせ、ころがすたびに、ゆっくりと大事なことを教えてくれるようだった。
「まずは落ち着くことが肝心ですよ」
 滲み通るような自分のうちなる声が聞こえてくる。
「耐圧服のセンサーは?」
 ええ、健在です。オールグリーンです。先月、メンテしたばかりです。
「では、次に見えるものをありのまま目にし、ただ聞こえるものを耳にしましょう」
 はい、わたしの目や耳は丈夫なんです。それに物見が得意なんです。伏兵を見つけるときの名人芸をご披露したいぐらいです。
 物事の正しい評価というものは難しい。
 平素なら賞賛されることが時と場所によって正反対の罵倒が浴びせられることもある。
 今回はどうか。自分の状態をチェックすることは悪くはない。ただ少なくともおしゃべりは控えるべきだった。もっとも貴重な時間をほんの数秒でも費やして行うことではなかった。
 ツケはすぐにやってきた。
 もとから正常なセンサーも視覚も聴覚も懸命に働き、観測した情報を小包にしてどんどん送っていた。
 質量や温度分布を。モデリングと滑らかな動作も。大量の水の匂いが。甲高い音の響きさえ。
 ひとつでも開封して中身を確認していれば、なにかしらの結論が出ていただろうし、間に合わせでも行動に移せていたかもしれない。
 だが、もう遅い。どうにも取り返しがつかないこともある。
 本人が発見したものは、頭脳にあるロッカーにぎゅうぎゅうに押し込まれてつぶれた小包。破損して劣化したそれは、ただ混乱を助長させるだけ。こうなっては、もうなにも考えられない。
 つまり、アルキビアデスという人物は本物のアルキビアデスになれなかったし、才覚はドーカン殿に遠く及ばないということがここではっきりした。
 ある意味では、脅威を前にした平凡でも贅沢な時間の過ごし方だったかもしれない。それも唐突に打ち切られた。
 一番の激しい揺れがきた。
 どしん!
 下から突き上げる衝撃。
 脳と臓器が仲良くシェイクされる。
 アルキビアデスはあわてて胸壁につかまって転倒を防いだが、ちいさく悲鳴を上げた。
 見張り台の東側が音をたてて崩れていく。足元の土台にも亀裂が走り、底が抜けていく。ポケットからこぼれた水色のかけらも落ちていく。何者かの手が、無数の手がこの世界につかみかかっている。顔は見えなくても強い意志。もっともっと奥深い地下の世界へ力づくで引きずりこむ、そう感じさせる光景だった。
「あ、あ、あ」
 言葉にならない。心臓は意味もなく鼓動だけを大きく響かせるだけだった。
 怖い?
 頭を抱えて、うずくまってしまおうか。目をつむって丸まって、まるで胎児のように。
 早く、早く。
 まずは目を閉じなくては。
 簡単でしょ。
 そのはずが、うまくいかない。
 瞳は、あますことなくその機能を発揮しようとしていた。きっと自分の義務を知っているのだろう。とらえた情報をただそのままに脳に送り続けていた。
 舞い上がる細かな粒子。
 崩落個所から基礎の骨組みがのぞく。細く、ゆがんでいる。材質は知らない。錆びた金属か、腐った木材のどちらかだろう。
 思っていたより貧弱なつくりだ。
 だが、それでも骨組みは残っている。
 これ以上の崩壊も止まっている。
 あの揺れもおさまっている。
 どうやら見張り台は、半壊状態で踏みとどまったようだ。
 周囲を見回して、こんなにもろいものだったのかと驚きつつ、自分がしがみついている胸壁にいまさらながら気がつく。
 これが崩れていれば、転落して地表に叩きつけられていただろう。
 自分が幸運を持っていることに感謝。いつもの自分をやや取り戻す。
 ほっと吐息を漏らしたところで、急に日が陰ったことに気がついた。
「な、なんなんですか、これは。ああ、地震ではないようですね。天変地異ってやつですか。そうならば貴重な体験になりそうですね」
 アルキビアデスは空を見上げた。



「ぼくはね、アリさんがいっぱいぞろぞろ穴から出てくると思うんだ。水にびっくりしてさ」
「うーん、どうかな。もしだよ、もし水が入ってもさあ、逃げてくる間もなく穴の中で溺れちゃうんじゃないかな。やってみればわかるけどね」
 涼しいうちにやってしまおうと始めた夏休みの宿題も予定の三分の一で放り出して、兄弟は手入れのあまり行きとどいてない庭で遊び始めていた。
 セミの抜け殻を拾ったり、トカゲを見つけて大騒ぎしていたが、やがて弟が大きな蟻の巣が軒下にあることに気がついた。
 ふたりで巣穴に出入りする蟻の姿を観察していると、弟が「アリさんのおうちは、雨漏りするのかな」といった。
 その言葉に、先週の台風で瓦がずれて仏間が雨漏りしたことを兄は思い出した。普段は重々しい大人たちがあわてて家財を運び出したり鍋や丼を並べるさまは、テレビのコント番組を見ているようで強く印象に残っていた。
 兄は弟が想像するようなドタバタの騒ぎにはならないと思ったが、弟の問いにうまく答えられず、「じゃあ試してみればわかるよ」ということになった。
 よいしょ、よいしょとふたりで運んできた、たっぷりと水をいれてきたバケツをおろした。
 トタンのバケツの中で水が激しくゆれている。水を入れすぎたバケツは重すぎて、静かに着地するわけにはいかなかった。かすかな塩素臭が鼻につく。
 兄はバケツからふちが欠けたお椀で水をすくった。それを慎重な手つきで蟻の巣穴の真上まで持ってくるとゆっくり傾けた。
 どれだけ水が穴に入ったかはよくわからなかった。ただ、彼らが期待したほどではなく、水はあまり穴に入らなかったようだ。水はやわらかい土をえぐり、穴のそばにいた一匹の蟻を巻き込み、小さな濁流となって地面を這って行った。
 その蟻はわなわな手足をばたつかせて、何処かへ流れて行った。

 了
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