イングランドのたけるくん

文字数 1,300文字

「おやすみ、おやすみ。はい、おやすみ」

 やたらと神経質そうに早口で「おやすみ」を連呼する中年男がマンションの同じ階に住んでいて、なんだかとても面倒臭い。「おやすみ」言いたいのはこっちだよ。一生眠っててほしい。おやすみなさい。

 本人は「こんばんは」のつもりで言ってるのかなと思ったりもするんだけど。なんでこっちがあの中年男の発する言葉の真意を汲み取らなくちゃいけないんだよって腹も立ってくるから、そこがまた面倒くさい。ほんとおやすみなさい。



ー イングランドのたけるくん ー

 僕の唯一の友人、小山内たけるはイングランドに住んでいる。
 唯一の友人と言っておきながら「たける」の漢字を忘れてしまってることに気づく。「健」だか? 「建」だったか? おそらくこの内のどっちかなんだけどね。えんにょうだったかな〜えんにょうかな〜。
 そのたけるくんは日本人にも人気の観光地コッツウォルズに住んでるって言ってたっけ。イングランドの中心部にある丘陵地帯で「羊の丘」という意味のコッツウォルズ。たけるくんがまるでおとぎ話の世界にいるようだって…。そうよ、そうよコッツウォルズ、コッツウォルズ。この名だけは一生忘れない自信があるよ。

「おやすみ、たけるくん」


「おやすみ」しか言わない中年男の名前はたぶん…谷村か谷浜か、いや谷口かもしれない。とにかく「谷」の付く名前のようで。マンション1階の集合ポストに名前が貼ってあるのを見たことがあって、それが記憶に残ってる。
 ポスティング業者にどんな恨みを買ったらああなるのか、そのポストだけ溢れんばかりのチラシが鬼のように詰め込まれ投函口の外まではみ出していて、無数の矢が突き刺さった兵士のように見事に死んでいたっけ。

 そのお亡くなりになったポストを次に見たときには名前のシールは剥がされていて。荒っぽく無理矢理に剥がした様が見て取れるほどに剥がしきれてない紙のシールが一部残ってた。そこに「谷」の文字だけが薄っすらと今でも確認できる。或いはその「谷なんとか」という名前は、前の住人のものという可能性だってあるわけで。そうなってくるともう捜査は振り出しへと戻り次の容疑者名が挙がるまではあの中年男のことを「おやすみおじさん」と呼ぶしかないじゃないか。「そうは思わないかい? たけるくん」


 僕は読むともなく本を開き本は読まれることなく開かれたまま、その身を委ねてる。眠くなることにしか作用しない文章が惜しげもなく過ぎ去り、時間と共に腕組んでスキップしながら消えていく。だけど、その存在を確認することはできず羊を数えるのと似た気分。

 日本とイングランドの時差は9時間。そんな数え歌にも効き目があってそろそろ僕は寝落ちする頃だけど、たけるくんの住むおとぎの国は午後3時。
 おやつの時間じゃないか。3時のおやつといえばカステラだよね。ごめん、そっちの国のお菓子を知らないからここはカステラで許してよ。たけるくんちは裕福だからカステラの底の薄い紙は、きっと剥いだまんまで皿の上に残ってるんだろう? 僕ならフォークでこそぐけどね。もうっガッシガシに。そういうのわかんないよね。ほんとおやすみなさい。

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