第1話
文字数 4,542文字
「きゃあ……!」
「あぶなっ……」
けやき坂から六本木ヒルズの階段をあがろうとしていたら、制服の女の子がよろけて落ちてきたので、慌てて腕を伸ばして抱きとめた。
ジム通いもしておらず、筋肉自慢でもない三十代後半もうすぐ四十路の我が身には、なかなかの重みだったが、ここで見捨てたら、男と言うより、人間として、ありえなさすぎる。
「……す、すみませ」
「……大丈夫?」
完全には彼女の体を支えきれず、二人して転ぶことにはなったが、まあクッションがわりくらいにはなれたろう。
「……あれ?」
僕は首を傾げる。
流行の小説のように、タイムトリップでもした気分だ。
腕の中の女の子は、二十年以上も前の僕の恋人にそっくりだった。
長い黒髪、整った顔立ち、最近見かけないような、やぼったい制服まで、瓜二つだ。
十八歳のときに、僕は北海道の田舎から、東京の大学に受かって上京した。
大学はほとんど口実で、僕は音楽がやりたかった。
高校二年生からつきあっていた美砂とは遠距離恋愛をしていたが、大学を卒業しても定職にもつかずにフリーターでミュージシャンを目指すと言ったら、案の定ふられた。
そりゃあそうだ。
いろいろ仕事の選択肢もあって、晩婚の東京の女の子とは違いすぎる。
僕の田舎の女の子は大半が二十代前半で結婚するのだ。
確かな約束もないのに、音楽をやりたいなんてバカな男につきあってる場合ではない。
いまの時代ならフォロワーの多い人気のユーチューバー、僕らの時代なら人気のインディーズバンド。
大人気ならまだしも、僕らのバンドは地味な人気はあったが、誰かを納得させるほどの、怪物的な人気などなかった。
(……ごめん。臣くんの夢、凄いと思うけど、私、ふつうの生活がしたいんだ──)
(……うん)
必ずプロになって食わせるから、僕を信じて待っててくれ、なんて言えるほど、僕は自分にも、自分の歌にも、自信がなかった。
僕に、子供の頃からあふれる音楽の才能があったわけでもない。
プロデューサーにしろディレクターにしろ一般客にしろ、とびきり人を魅きつける魅力があった訳でもない。
ただ好きなだけ。
ただ音楽が好きなだけ。
ただ夢を諦めきれないだけ。
その儚い夢につきあって、もう少し、もう少し、それがいつまでかわからないけど、待ってもらえないか、なんて無責任なこと、他人に望めるはずもない。
(一緒に夢は追えないけど、私、歌ってる臣くんが一番好きだよ)
これから捨てる男に、そんなひどいことを言った美砂。
あれから二十年経って、僕は何とか、音楽で食べれるようになったけど、君はどうしているんだろうか。
遠くに行きたがる男ではなくて、傍にいて、普通に幸せにしてくれる男を望んでた、優しくて現実主義者の君は、いま、幸せだろうか。
「里沙?」
「お母さーん、転んだのー。このおじさんに助けてもらったのー」
おお、昔の甘い切ない追憶に浸ってたら、現実の令和の少女は容赦ない。
そりゃ、うちのファンの人でもなければ、十代には、三十路も四十路もおじさん、だよな。
「まあ、すみませ、ありがとうございま」
この子のお母さんてことは、その人も美砂に似てるのかな、と顔をあげたら、変な声が出そうになった。
似てるどころじゃない。
藤崎美砂、本人だ。
いくら二十年ぶりでもわかる。
「………っ」
少し老けたけど、変わらず、とても綺麗だ。
あまり僕の周囲では見かけない、優しそうな幸せそうな奥さんだ。
僕の周囲は離婚流行りで、なけなしの僕の結婚意欲を挫き続ける。
僕は美砂が幸せそうで綺麗で嬉しい。
そして、ほんの少しだけ残念。
何が残念なのかわからないけど、たぶん、美砂をこんなに幸せにしてる旦那さんへの微かな嫉妬なのかも知れない。
僕がやれなかった羨ましい役をやってる見たこともない、逢うこともないだろう男への。
いまのいままで思い出しもしなかった昔の彼女の旦那に何か想うなんて、我ながらどれだけ意味不明の独占欲なんだ、とは思うが。
彼女のほうはわからないけど、僕は嫌いになって彼女と別れたわけじゃないから、ずっと何処かで薄く未練なのかも知れない。
「……臣くん」
美砂も僕に気づいてくれたので、僕は少しだけ報われた。
昔、別れるとき、彼女は言った。
(何処かですれ違っても、私きっとあなたに気づけないね)
それは、たぶん、意地悪な意味ではなくて、僕への励ましだったののかも知れない。
それくらい、がんばって、見違えるくらい、立派なミュージシャンになってね、という。
そんなに立派な人にはなれなかったけれど、相変わらずな僕は、二十年後も、高校時代の憧れの彼女に名前を忘れられてなくて嬉しい。
「お母さん、知り合い? あれ、おじさん、よく見ると、FACEのヴォーカルの人に似て……」
「FACEのヴォーカルの人よ、里沙が下敷きにしてるのは。ぜんぜん変わってないね、臣くん」
「み……藤崎も」
女子高生の娘さんの前でもあり、人様の奥様をよその男が呼び捨てはまずいかと想ったんだけど、まあよく考えたら藤崎のはずないよな……。
「嘘よ。私老けたわ。いまは、佐倉なの。佐倉美砂」
微笑った美砂の声が遠く聞こえる。
あたりまえだけど、本当に、人様ん家の奥さんの美砂さんなんだなあ、と……。
「えええ。すごい。FACEのヴォーカルの人に助けてもらっちゃった…わー、やっぱ、東京ってすごいね!」
美砂の自己紹介に僕がしんみりしてたら、美砂の娘の里沙ちゃんが何だかテンション上がりまくっていた。
僕みたいなそんなにテレビ出ないミュージシャンでも、美砂の娘に少しは喜んで貰えてよかった……。
もともとバンドメンバーに喋り上手がいないので、あまりテレビ出てなかったのだが、最近はネットで情報を伝えられるので、テレビサボり癖は余計にひどくなっている。
たまにはミュージックステーションとかNHK出とかないと、ファン以外の日本人から忘れられて、いまも言われるけど、さらに親と親戚からおまえ仕事うまくいってないんじゃないのかて心配されるから、と皆をガンガン叱ってくれるギターのユキが唯一の僕らの頼りだ。
「すごーい。すごいねっ。FACEの人、お母さんの同級生て聞いてたけど、嘘だーって想ってたけど、ホントに知り合いなんだー」
僕たちの微妙な空気を物ともせず、里沙ちゃんのテンションはあがり続ける。
そうか。
僕は同級生の設定なのか。
いや、僕たちは同級生には間違いない。
昔の彼氏とは紹介して貰えてないのかな、ミュージシャンの元彼なんて黒歴史なのかな、と僕は勝手に密かに拗ねる。
まあ、いい奴ばっかだけど、僕だって、妹の彼氏がミュージャンと言われたらちょこっと心配するだろうから、仕方ないんだけど。
「ねぇお母さん、沢さんモテた? 高校の頃から」
「そうねぇ……」
「ぜーんぜん。僕は地味な男で、君のお母さんの方がよほどモテたよ、高校の頃」
「えええ、ほんとにー!」
信じられないと言いたげに、美砂の娘さんが、僕と美砂を見比べる。
「おみく……沢くん!」
めっと視線で叱られる。
変わらないなー優等生の美砂。
成績もよくて、みんなに優しくて、先生にも友達にも好かれてて。
「ホントだよ。みんなの憧れの人だったよ」
だから君とつきあえた僕は、密かに有頂天だった。
学校から一緒に帰るだけのことに、すごくドキドキして。
君にふられて、大人になって、仕事が軌道に乗り出してから、何人かの女性とつきあったけれど。
ああいう恋は、高校のとき、独特だよなあ、と想う。
何ももってなくて。
将来なんて、何も見えなくて。
文句いいつつ、親にしっかり守られて、生きてるだけでお金のかかる、生活のことなんて考えたこともなくて。
音楽の夢と、綺麗な君のこととと、宿題と、今夜の晩飯くらいしか考えることのない、不自由だけど、とても幸せな時代の恋。
「ホント、ママ?」
「まさか。もちろん沢くんのがモテたわ。でもね、当時からずっと歌のことばっかり考えてた人だから、自分がモテてたのなんて知らないのよ、この人」
それはないと想うぞー。
僕は本当に音楽バカの地味男だったんだし。
まあでも、美砂なりに娘の夢を壊すまいとしてるのか。
昔の僕をかっこよく演出してくれようとしてるのか、かなあ……。
「そうなんだー、帰ったら、パパに自慢しなきゃねっ」
「母と娘二人で旅行!」
「うん。ディズニーランド行って、ヒルズでケーキ食べて、今夜は銀座で舞台見て、明日帰るよ」
「盛りだくさんだね」
「うん。思いがけず、沢君にも逢えた……」
よく東京来るなら連絡してよ食事でも、と連絡先渡そうかと想ったが、不倫をお誘いする不埒なヴォーカリストに見えるだろうか、と言いかねた。
美砂のことはいま見ても綺麗で好きだと想うけど、現在そういう不埒な気持ちはない。
だが真実がどうかより、他人にどう見えるかが問題だ、とはうちのマネージャー氏の弁である。
まして、普段それほど騒がれない芸能人でも、『不倫』というワーズには世の中は超過敏だ。
不倫どころか、そもそも、最初の結婚にさえ、辿り着いてない僕には、些か謎な話なのだが。
「僕も久しぶりに逢えて嬉しかった。東京楽しんで帰ってね」
営業トークみたいなことしか言えなくて少し寂しいが、口のうまい男じゃないことは美砂は先刻ご承知の筈だ。
「うん、がんばってね、臣君、活躍楽しみにしてる」
活躍できてるかはともかく、僕は音楽を奏でて、生活していく。
それが僕の日常であり、僕の生活。
綺麗な奥さんも可愛い娘も、優しい家庭も持ってないけど。
変わり者の友人たちと、食べるに困らない収入、僕は僕の生活をそれなりに愛してる。
もちろん、夢も素敵な家庭も財産も、何もかも手に入れてる人には遠く及ばないだろけど……。
「沢さん、札幌にもコンサートで来てくださいね! もしチケットとれたら行きますねー!」
「ありがと、里沙ちゃん。待ってる」
里沙ちゃんがお愛想できゃっきゃっ手を振ってくれたので、にこっとファンの人に笑うように僕が笑ったら、
「里沙、今年の冬はキンプリ行きたいんでしょ。臣君のFACEのチケットも、ジャニーズもどっちもプラチナチケットなんだから、どっちも行きたいなんて欲張ったら、心がけ悪くてどっちも落ちるわよ」
「やめて、ママ、こんな映画みたいなことあった日に、そーいう夢のないこと言わないで!」
釘を刺す美砂は、幸福な家庭の美しいお母さんであり、相変わらず僕の知ってる、ニ兎は追わない現実主義者の、僕とは対局の地にしっかり足のついた女の子だった。
里沙ちゃんは、昔の美沙よりミーハーで、年相応に子供っぽいから、美沙が夢見た普通の生活の為に、人生のパートナーに選んだ男性は、僕のように少し呑気者な男なんだろうか、と埒もないことを思っていた。