文字数 14,351文字

 目を醒ますと車両の床に少年が横たわっている。電光表示を見れば降りるべき駅はとうに過ぎている。耳からイヤホンを抜き取るとFear, and Loathing in Las Vegas の喧噪が止み、投げ込まれた静寂が外の夜と相まって一定の膨張を遂げそのまま車内空間と一致して停止した。Xは腕時計を見たが次の駅までにはまだ少し時間がありそうだ。再び床に転がった事実に目を落とすほか無く、しばらくはこれに付き合ってゆかねばならないわけであるが、しかしこの少年はいったい何だろう。と考えるも先方は俯せているので顔も見えない。
 (それにしては不気味な静けさだ。こいつを動かしたら爆発でもしそうなものだ)
 援護を呼ぼうにもこの車両には、それどころか隣の箱にも、扉の向こう鏡合わせのように延々と連なる空間の限りXとこの少年の他に人影は無い。つまり仮に「何か」が起こったとしても目撃者は居ないのである。膝に乗せていた潰れた軽い鞄をそっと脇に置いて自由になった脚で立ち上がり、電車は一定の揺れを続けているがこの感覚は胎内にある時のものときっとよく似る心地良さで、などと遠くの方で考えながら慎重に少年の身体へ屈み込んで声を掛ける。
 「もしもし。大丈夫ですか」
 すると、つい今まで絵画のように動かなかった少年が、オモムロに身体を起こし、こちらに顔を向けると目が合った。と思ったがそれは彼の目ではなかった。正確に言えばそれは面の双眸である。少年は面を付けていて、なだらかな白い丘の上に、どこか扇情的な二つの切れ込みが目を、小さな花弁のような縮れが唇を、簡素に示した顔である。戦慄に、思わず零れそうになった呻き声をXは呑み込むのだが、小ぢんまりとした華奢な姿態はそこはかとなく悄然としていても、その無防備さもいかにも人畜無害そうな様子さえ、皆目Xの困惑を和らげる要因にはならない。
 「何ともないの。倒れてたけど」
 「ええお気を遣わせて申し訳ない」
 慇懃無礼な口調に却って不可解は増す。こんな子供が居るだろうか。
 ふと我に返ってXは電光表示を見た。その画面はなぜか既にどことなく懐かしい感じがして、そして忽然と暗転していた。誘われるように窓外に目を遣れば
  細波のような齟齬感
がある。或る種、観念するような心境が既に生じている。何に観念したのかというのはあまりに大きいものを相手にする話のようで何と言えるものでもない。(ひとまずここにいる間は、「窓の外の暗然たる情景」には目を伏せてもよいが、しかし、少なくとも「この少年」を蔑ろにしたまま「目的地」へ着くことはできない)こんな思念が意識を浸している。
 意を決して誰何すると少年は、
「鬼夜叉」
と応えた。これはまた何かおどろおどろしい名だ。とXは眉をしかめながら肯くのだが不意に、神出鬼没という文言を思い出して妙に得心するのは同じ不具合を含有した鬼の字だからである。「それお面?」ひとまず尋ねてみた。そんなことは解りきっていたのだが、しかし少年の応答は予想に反するものであった。
 「いいえこれは私の素顔です」毅然と、彼はそう主張したのであった。
 「ああ? そうなの」
 得心の色を示してやれば「鬼夜叉」は満足そうに、あどけなく肯いたが、いよいよXは空恐ろしくなってきた。(もうダメだ、相手にしてはダメだ。もう何も話すまい、彼など居ないのだ)涙が零れそうになるほどの虚無感と疲労じみた不安が襲いきて途方に暮れ、そもそも疲れていたので、苛立ちが絶叫めく嘆息か何かとなって溢れ出すのを何とか堪えながら、震動する床から立ち上がってもとの席に着く。(もういい、何ともなかったんだから、もうおれの知ったことではない)すると少年が、何喰わぬ様子でXの隣に腰を降ろしてきたのでいよいよ冷汗が吹き出した。少年は時限爆弾の趣で、距離が近いほどXの心臓を不穏に踊らせるが、しかしノイズのように増幅しながら感情の空間を再び激しく苛み始めた違和感にどうも耐えられなくなって果敢にもXは、「いやそれは違うよ。それは違う、そういうの素顔と言わないと思う」
 その指摘に少年の肩が動揺の痙攣を示したのをXは見逃さなかった。「違うよね」とすかさず切り込む。「それ君の素顔じゃないね」その台詞は自分で言ったというにはややオートマティックすぎるようにXには感じられた。つまりこの時点でようやく、一切が夢である、という認識がXの意識と無意識の敷居を跨いでこちらへやってきたのであり、よく考えてみればあまりに視界が狭いように思えたし、それでいて八方の明暗を明瞭に認識していたし何よりも自分が話す言葉を、意識と身体とが同化する寸前のような、とにかくそんなぼやけた位置で聞いている。聞いているというより言葉などはもはや音などでなく信号のようなものである。
 (どんなに支離滅裂な事象も、夢の中では自ずと受容されるものだ)
 ともあれXの指摘は少なからず彼を狼狽させたようで少年は顔を背け縋るように面の縁を押さえている。それを見てXが多少嗜虐的な気分になったのは確かで、どんなに支離滅裂な論理も因果も夢の中では自ずと受容されるしその上、夢だと解っていれば勝ちである。どんなに大胆かつ反理性的なこともやり棄てることができるのだ。と気を大きくしたXは、不意打ちで少年の面を剥がそうと試みるが、しかし意外なことに、彼はその手を躱した。それもただ躱したというのではなかった。彼は跳んだのだ。浮き上がるようにして一畳分ほど音もなく後退ったのだった。彼の着ているものが薫りのように美しく翻ったのをXは感じた。蒼白な女面が虚ろな車内で朧に浮かんでいる。彼は言う。
 「例えば月の仮面は素顔であり光線こそ彼自身の発するものでないにせよ、照らし出された影は紛れもない月の姿なのですから、同様にこの面をこれは素顔ではないと言ってうち棄てることは決して正解ではなく、むしろひとりよがりの正義感というものです。我々は皆、夢幻舞台の演者ですから、仮面は却って不可欠の芸術です。剥奪は無我への干渉ですからしてはならぬことなのです。それにこれは決して自己防衛ではないのだ、他でもないあなたを防衛しているのです。他でもなくあなたの平静の瓦解を阻止している。明らかにしてしまえばあなたはきっと畏れ慄いて地に伏してしまう」そう言い放った語尾は僅かに震えた。虚ろなはずの女面は泣いている。俯き、清らかに彫刻された目の縁から珠玉の、涙さえ溢して。
 「そんなことは知らない」と当たり前のようにXは言ったが、自分がこの少年の言ったことを躊躇無く呑み込んで解し、相当しい応答、否、相応しいのかは知らないが少なくともひとまず何かしらの応答を、していることへ驚きを覚える。ともかくやり取りを聴いている方の自分は唖然としていた。どう考えても少年の言うことはちりぢりばらばらめちゃくちゃなのである。「あなたさえ良ければ良いと私は思うのですが同時にあなたがそれを望んでいないと私はよく知っているのです」と彼は言う。Xは笑った。何が可笑しいのか知らないが自ずと、朦朧の喉から乾燥した笑いが漏れた。「悪かったよ。もうしないから泣くのやめなよ」
 女面の虚ろな双眸は、Xがそう言った途端、ハタと降涙をやめ、彼が俯向いていた顔を上げればそこにあるのはもうもとの気味の悪い微笑である。Xは彼がそら泣きをしていたのではないかと疑って少々憤然とした。「だったらそんなこともうどうだっていいよ。いつになったら駅に着くの、おれもう帰りたいんだけど。乗り過ごしたから引き返さなきゃなんないし明日は朝拝があって早いんだ」
 すると鬼夜叉は、
「あと何億光年、あらゆるフィロソフィアの周りを一周してそこから更に少し行けば到着ですよ」
 「そうか」またもやXは、当たり前のように、応えていた。「それは長くなりそうなものだ。辿り着くかどうかも解らない」
 (「そうか」じゃねえよ。何言ってんだ、おかしいだろう)
 外は依然として宇宙の果てのような暗黒だったが、実際にそうだったのかもしれない、つまり実際Xは宇宙の果て或いはそれに相当する地点に居た、と言っても誤りでないのかもしれない。文字通り夢中のXの、あくまで観念的網膜にぼんやりと映った暗黒もとい光の空集合、はそれほどまでに深い。

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 「――諸君、大きな時代の終わりがすぐそこへ来ている。そして破壊の次にあるのは常に創造である。即ち諸君がこれから目にするのは文字通り前人未到の新時代に他ならない。黙視録は謳う、戦いがあり審判があり神の国の到来があると。我々は既にその大戦の具体的可能性の只中にある。戦いに際し諸君が問われるべき能力はもはや物理的労働力ではない。際限なき知性である。一定水準以上の知性を持つ者のみが選民となり、大戦の後に待つアルカディアを許される。それが目下この黙視録に関する有益かつ現実的解釈である。文明を、産業を、文化を開拓し、今日まで繁栄を見せてきた我々が次に本格的に着手すべき開発は、未だ荒廃した、人間の知性の領域のそれである。知性の無限の解放である。それこそが今、国家を挙げて遂行されるべきプロジェクトなのである。しかしそれに未だ気付かぬ輩は多い。花郎の徒よ、本校がその偉大なる運動の主導組織として社会の発展に最大の貢献を果たし、アルカディアへと人々を導いてゆけるよう、そして花郎の徒よ、諸君一人一人の共同体である我が花営学院が、一個の成熟した名君となりうるよう、諸君は各々の知的能力の不断の向上に努め、漠漠たる知の領域の片隅を粛粛と開墾してゆくべし」
 「漠漠」のB音でスピーカーが破裂音を震わせたので吃驚して夢うつつから引き上げられると、週に一度の朝拝の最中である。初めてこの朝礼に出席した当時こそ、この異様な空気に萎縮して居眠りどころではなかったが、今では慣れきってしまって絶えず睡魔の胸にボンヤリ寄り掛かっているのが常である。通学中には微塵も無かった睡気が、学院長が口を開いた途端に条件反射的に降りてくるのだから不可思議なものである。遠く前方の御簾越しに春王の影が見える。春王というのは学院長の通称で、当人からそう呼べと教えられているのである。
 厳めしい文言を並べ立て御簾越しでしか姿を映さず、権威と格別を装う学院長春王は、しかし学院の生徒らにとっては或る意味で愛敬のある指導者だった。というのも、とにかく春王は「王」になりたくて、朝拝のたびに諸君は「王」たれと生徒に繰り返し、そういった夢見がちなところはなかなか可愛らしくて良いのだが、曰く、どうすれば「王」的な何かになれるかと彼なりに熟考してみたところ、国家の脳細胞の育成というところに落ち着いて、その産物こそ我らが花営学院なり、ということだと言う。生徒らはその身体のまま、皆彼の夢であり野望なのである。
 銅鑼の合図が鳴ると寄せ来るように読経が始まるがそれはおよそ朝に似付かわしくない音楽である。靄掛かった意識の向こうでXの唇も惰性のように音を紡ぐ。初めは緩やかに、拍子を取る低響は、打楽器の加速に合わせて徐々に浮き足立ったものになってゆく。奥深く入り組んだ須弥壇、薄暗い空間を支える老樹じみた柱、碁盤状の升の一つ一つに仏の装飾が宿った天井、に朦朧と反響し、そのまま渦となって、半分は概念である黄金の天蓋に昇りつめ、そこを悠々と転回し、やがて絶頂を迎え、痙攣を引いて収束する。金属の幻聴じみた最後の反響の尾ひれが、薄く薄く延びて消滅するまで嘘のような無言。御簾の向こうの影が、立ち上がって下手に去っていったのを見届けると、生徒たちも思い思いに起立し、もはや厳粛さを失い日常の始まりの気を湛えだした本堂を後にする。今日は定期試験の結果が出ているので、直ちに行って確認せねばならない。

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 コンピュータ を立ち上げ アプリケーション を開き パスワード を入れて ログイン する。 デジタルタイマー が右下で時を刻んでいる。「第◯回・定期試験順位表」の項目を クリック して、 ホワイトアウト した ウィンドウ を眺める、 ページ の切り替わるまでのこの 冗 長 な 待機時間 をXは嫌悪する。拍動で心臓が膨らむたびに破裂しそうに痛むもそれを紛らわすように中指でデスクを連打するほかない。(早くしろ早くしろ早くしろ早くしろ、)机に拳を叩きつけたい衝動に駆られるがこの時こそ苛立ちを露にしてはいけない。この時こそ平然として見せるべきなのである。誰にともなく。
 ようやく最上部に「総合順位」の文字が現れた。
 簾が降りるように次々と文字が下へ連なって、白い画面が侵食されるように、一見無味乾燥な記号の羅列で埋まってゆき、目を滑らせると自分の番号があって、その可もなく不可もない位置に思わず舌打ちが出る。そのまま一覧のトップに目をやれば案の定、まるで不朽の真理であるかのごとく、悠然と君臨するコードがある。
 (もういい解っていた)Xは コンピュータ を シャットダウン して席を立った。教室に備え付けられているのは黒板と学習机ではなく間仕切りされた個別の コンピュータブース であり、生徒らは習熟度によってクラスに振られたのち十数人ずつの部屋に割り当てられ、学院の運営する インターネットアプリケーション の中に生徒が各々個人の アカウント を持ち学習の管理が行われて、集計された受講成績と一月ごとの定期試験の成績とが、校舎の入口のところにある電光掲示板に絶えず点滅している。少年たちが身を削って守り続けるなけなしの誇りがそこで抜きつ抜かれつを繰り返すのが視覚化されているのである。定期試験までには各自でカリキュラムを終えねばならないのであったが、案外ここで最も必要とされる能力とはそういったマネジメント能力、いかに自律的であるかいかに適切な計画性と実行力を備えているか、それが結局のところすべてであり、放任も放任なのであって、事実一般的にこの年頃の少年というものはそこまでストイックな生き物ではない。が、流されやすくはあるので、彼らがこの、一つ間違えれば取り返しのつかぬ不毛な停滞に陥ってしまうような環境のもとで或程度は高度な知的水準とモチベーションとを保っていられるのは、偏にその空間の、自らの価値を刻一刻数値化されているのだという慢性的緊迫感の恩恵に他ならない。
 静かな空間であった。教室の中で談笑するといった習慣はなく、換気扇やドライブの回転する耳鳴りさながらの微音が、例えば田舎でいうところの木々のざわめきや鳥のさえずりにあたる不断の基調音なのである。
 Xはこの静かな空間を気に入っている。
 教室を出ればガラス張りの、少しは開放的な白い廊下が広がっていて曇った空がよく見える。ここは感情が天気に影響され過ぎていけない。とXは思う。晴れていれば気分は晴れやかで希望的であるし、風雨が打ち付けて窓外の景色が湿気に歪んでいれば否応なく心も掻き乱される。その中で平然としていられるかどうかは或意味で一つの鍛練ではないだろうか。明るく凪いだ鉄筋コンクリートの海面を眺めていれば、ふと名を呼ぶ声があった。振り向けばA君が居る。時折言葉を交わす程度の友人である。A君とは花営学院に入る前の受験塾時代からの付き合いであるが、無愛想なXにはA君の他にこれといって親しくしている友人が居なかった。
 「今さっき朝拝中に夢見てな」と彼。
 「ウン」
 「全身白い服着た男にこう、抱かれて、」
 「抱かれる」
 「いや、抱擁の方な。それで養殖プールの水を抜くと小さい溺死体が大量に……」
 他人の夢の話ほど馬鹿らしいものはないとよく言う。扉の乱暴に閉まる音がしたので一緒にその方に目を向けると憤慨の様相で便所に向かう生徒が居り、おそらく成績が芳しくなかったのだろうと憶測されて呆れと憐憫を孕んだ同じ視線がA君との間に交わされる。
 それを見て思い出したように「順位表見た?」と彼。
 「見たよ。」
 「相変わらず上位だお前は」
 「たいしたものじゃないって。落ちたし」と言いつつもそれを聞いて脳を少しずつ麻薬的物質が浸していくのがよく解った。A君は大げさに嘆息する。 
 「そういうこと言ってると嫌われるよ。何百人居ての、三十位だろ」
 「三十一位な」
 「おんなじようなもんでしょ。そんな順位取ったらおれだったら万能感に溺れてしまうわ」
 「まさか」厭らしくなってはいけないと細心の注意を払って曖昧な微笑みで、いかにも屈託ない照れ笑いといささかの困惑、といった調子でXは返し、賞賛は麻薬的で数刻前に抱いていたはずの鬱憤も何もかも打ち消した。が、
 「一位はまたあれだな。■■■■■番」
 それを聞いた途端である、夢想的に凪いでいた心中が掻き混ぜられ沸き立った鬱屈因子の沈殿がそこを白濁とさせた。苦い、無骨な感覚が舌へ昇る。せっかくの快感が寸止めでバツが悪いというか、反動の不快が大きかった。おれをさしおいてその存在を語るなとなりふり構わず怒鳴りたいような衝動があったが、そんな錯乱で自ら社会的威信を放棄するほど理性がないわけではない。ところがそうしているうちにも、「あいつって、入学以来一位から順位落としたことなくない?」追い討ちを掛けるようにA君が言う。(おいおいお前はその口でたった今おれを賞賛していたんでなかったか)「だよなあ、いつも一番上に名前があって」手で空欄を積み連ねるジェスチュアをしながらXは「こう、第何回総合試験順位表、総合順位、■■■■■番、までが定型なんだよな」と過剰に応じ、口に出してしまえば一層屈辱が濃くなるものだとぼんやり噛み締めながら同調の体を示さなければならない。
 「初めの頃はさ。どうもおんなじやつばっか一位だから何だこいつはと思ったよね、皆、学籍番号から名前を突き止めて、どこの教室でやってるとか噂が立ってさ。そういやおれ本人って見たことないんだな」と彼は言う。「本当に居るのかなあいつは。おれ最近『フジワカ』って、AIなんじゃないかと思ってんだよね。いやおれがっていうか結構そう言ってる奴居るじゃん、学校側がさあ、こいつを抜いてみろ、って感じでおれらをけしかけてんの」
 「はは。あり得る」と返しながらも、(残念ながら居るんだ。藤若っていうのは居るんだ)残念ながら■■■■■番、即ちこのコードに記号化された、「藤若」という人間は、存在するのである。ということをXは知っている。
 かくいうXも「藤若」に関しては、何しろ、このデジタルシステムの器の中の極めて個人主義的環境であるので、同じ機関に身を置いていると言えど確かな情報は定期試験の順位のみであり、校内でそれらしい姿を見掛けることもなくその実体をアイデンティファイと言うか、確認したのは、おそらくは五年前の「卒業生の言葉」を高らかに読み上げる気高き十二歳の少年の姿が、最後なのであった。
 「──この六年間の出会いと学びに感謝し、各々の夢へ向かって、僕たちは巣立ってゆきます。その一人一人の軌跡に乗って、我が■■小学校のデントウとリネンとが、とこしえにありますように」

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 ではみなさんは、そういうふうに川だと言われたり、乳の流れたあとだと言われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。といった主旨の(もちろん、定かではないので、これは仮文である)質問を教師が投げると一同静まりかえってしまったのは風温む四月、三年生になって最初の理科の授業であった。理想主義の新米教師は初回の授業に大きな意欲と期待を抱き臨んでいたに違いない。しかし過大だったのだ。生徒らは教師の予想ほど無邪気でも能動的でなく、実際は見当もつかぬ問いかけに、皆ただ呆気に取られたようになってしまった。教師はほんの僅か動揺したが、何としてでも低俗な自問自答には終始すまいと決心したようで、ほとんど直感的な速さで一生徒を指名したのだが、それがXだったのである。Xは窮した。それは決して、そう、決して答が解らなかったためではなかった。おそらくこれが正解だろうという答案を持っていた。しかし決定的でなかったのである。
(天の川というのは、確かきっと、あれはほんとうに川なんではなくて、よく見ればたくさんの星の集まりだったような気がするのだけれども、本当だっただろうか。そう図鑑に書いてあったはずなんだけれど、間違いだったらばばかみたいな間違いだな。だってあの牛乳のようなのをよく見たらばらばらの星なのだと言うんだから間違いだったらばいくら笑われても仕方ない。けども当たっているなら言わないで知らないと思われる方が損だ。どうしたものか)(もちろん、これもまた、仮文である。しかし、質としては間違いなくこういった類の燃えるような葛藤であった)長い瞬巡のためXは沈黙を決め込む結果となってしまった。Xは身体が不穏に冷却されていくのを感じた。
窮した教師は、そこで藤若なのである、彼を指名したのだが、なぜここでちょうど藤若が指名されたのという問題がまず、ある。無作為であったかも知れないし或いはいかにも理知に富んだ顔の凛々しいこの少年ならば、或いは問題に正解しこの沈黙を打開してくれるかもしれぬという予感があったのではないだろうか。であったとすれば、事実彼はその期待に見事に応えたと言える。藤若は起立し、一斉に集約された視線の真ん中で、だいたいこんなようなことを、威風堂々言い放った。「銀河といって、地球を含む星やその他の物質によって構成された巨大な天体の一部を内側から観測した姿でしょう」
 教師は眼鏡の位置を直しながら満足げに、けれども何故だかちょっと苦い顔で「そうだね。座っていいよ」と言った。教室に居た誰もが虚を突かれたような表情をして、言うまでもなくXもその中の一人だった。異質な語句の陳列は十二歳の藤若の唇から鮮やかに滞りなく繰り出され、或者の耳を右から左へ通り過ぎて或ごく少数の者の耳に呪怨のように癒着した。Xは震撼した。自らの無知を晒したまでは良かったのである、そしてその無知が許されるためには、すなわち、仕方のない、正当な無知であったとされるためには、誰もがこの件について無知でいなければならなかった。しかし同じ年頃の、即ち、知の培養に当てる時間をほぼ同等に与えられたはずの少年が、そのことについて既知であるという証明を示したことによって、目論んだ妥協は撃墜されてしまったのである。即ち、Xはこの瞬間に相対的無知を露呈した。更にはそれが真実ならばまだ、それはそれで恐るべきことだったが、しかしまだ救いがあった。だが露呈した無知は真実ではなかったのである。つまり、藤若の発言をよく反芻してみれば、正解か否か解りかね飲み込んでしまった自らの答案は誤りでなかったのだ、即ち、本来晒さずともよかったはずの醜態を、失敗を恐れたばかりに、不本意にも晒してしまったということになる。それを幼いXは必要以上にはっきりと自覚し、その自覚の経験は案の定記憶に痛ましい爪痕を刻んで、とにもかくにもXがこの少年に対して現在に続く畏怖と嫌悪とを覚えるようになったのはこのときのショックが発端であった。
 ちょうどその頃幼い少年Xは自らの主観における偏狭な社会の中で、あらゆる側面からの測定により勝ち取った優種のステータスという意味において、充分すぎるくらいにいろいろなことが波に乗っていた時分だったので、己は他と比べ特別優れた個体なのだからその能力を常に顕示してゆかねばならないという妙な使命感を持つに至るのも、容易なことだったのであるが、それは藤若という特別優秀な個体の侵入を認知した後も実のところ大して揺らぎはせず、しばらくしてもある程度は自らの卓越性というのは真理だろうという思いがあった。けれども件の事件がその殻に不穏な割れ目を刻み、更に分別というか客観的視点というかそういったものの基礎を積み重ねていくにしたがってようやく、もしかするとそれは、即ち自らの超凡性という自負が、至極滑稽な思い違いなのではないだろうかという疑念が立ち始める。賢い人間ならばそこでその事実を承認し見切りを付けて生きてゆけるのだからそこまではまだ愛嬌の範疇であった。が、救いようのないことには、Xは臆病だったために、そうするのを、つまり自分という個体は絶対的には何の優越も持っていないことを認めるという重大な通過儀礼を、いつまでも渋っていたわけであり、これはどうも救いようがない。
 Xが彼の優越を目の当たりにしたのはその一度きりに限らず、彼が並外れた子供であることは誰の目にも明らかであったのだけれど、しかしそれも彼が優秀だと認識される他の何人かの生徒らのように数値などの証拠を振りかざして自らの優秀さを触れ回るためではないのであって、優秀な人間の中にはそれという顕示された確たる証拠がなくともこいつは優秀だと解ってしまうような風格がある者が居るが、藤若はそういった、好都合が向こうからやってくるような人間の一人であった。せめて彼に前者のような軽侮の余地がいささかでもあればこうも気に喰わぬこともなかったものを──とXは常々思っていたけれども、彼は実際そつのない、本当に抜け目のない子供であった。彼の美点は抜群の成績に限らないことをすぐにXは知ることとなった。彼は万能で、少なくともXの目にはそう映った。少なくとも、それくらいの時分の或る子供が、周囲の同じ年頃の子供たちの成す矮小な社会の中で万能と認められるには十分すぎるものを彼は持っているように思われた。したがって教師の評価も頗る良いし、ませ始めた少女らの憧れを一身に浴びる。それだけの地位を持ちながら、しかし何よりも彼の巧いところは、決してその諸々の美点をいやらしく誇らないところなのであった。彼がその言動でもって、無意識か、それとも確信犯なのか知らないが、そういった成熟を含めた自らの完全無欠ぶりを補強していくたびに、Xは内心そのクレバーさに唾棄していた。
 何よりもいけなかったのがルービック・キューブである。騒々しい色合いの知育玩具である。四年生か五年生の時分だったようにXは記憶しているけれどもとにかく一時期教室で流行ったのである。男子児童たちがそれまでの流行の玩具に変わってこぞってそれを持ち合わせ始め、休み時間のたびに弄くっていたのだが、藤若はそれを持っていなかった。或日試しにやってみろと同級生の一人が彼に自分の手持ちを差し出した。藤若はそれを手に取って、しばらくそれを珍しいものでも見るかのように弄んでいたかと思うと、オモムロに目を閉じ、そのまま何と、みるみるうちに六面揃えてしまった。囲んでいた観客は呆気に取られていたが彼はいつものようにうまい具合に謙遜して「やり方が解るとすぐできるよ」それを聞いてなるほどと思い無精せずに研究した者の中に少しは上達したのが居たが、さすがにその短いブームの間に藤若のように目を瞑ってできるようになった者は居なかった。
 「Xは持ってないの」誰かが言った。
 「持ってない」
 「貸してあげようか」
 「Xは頭良いから、ヒョっとできそうだね」藤若ほどではないのだが、 実はXも、当時教室の中でそれくらいの評価を得ていた。
 「おれはそういうのやんないよ」やらないというより、できないのでやりたくないのであった。Xは自分が、周囲が思っているより余程不器用で頭の鈍いことをよく解っていた。そんな事実を晒して皆から落胆されるのは恐ろしいことだった。Xは常より藤若をよく観察していたわけであるが、その強い関心の事実は誰にも悟られてはならないのであった。というのも藤若に関心を持つことは彼の特異性を認めることであり、自分と彼との間の隔絶を認めることであり、その格差への見苦しい執着を認識することであり、そうした卑屈さの漏洩は暴露であった。無関心であること、無関心であるという態度を示すことがなけなしの自己防衛だったと言えるのだが、そのたった一つの反例も許されないやり方はなかなか神経を擦り減らしたものである。
 彼への憎悪を深める決定打となったのはXの目指していた国内トップ進学校のS中学に、藤若が、おそらくは難なく、というのは単なるやっかみではあるが、いずれにせよ通ったという事実であった。Xは不合格だった。不合格を知った時にXは生まれて初めて精神的な昂ぶりによる嘔吐を経験し、藤若の結果を聞いた時はついにまやかしでない客観的優劣が明確に示されてしまったとXは白い立方体の自室で自己とのみ向き合って嗚咽した。匹敵さえしない自らと藤若とを直接隣に置いて比較する者の存在こそないと解ってはいたが、もし誰かがそれをしたとすれば明白な結果が出る前提が潜在的にできてしまったのは確かだったし、しかし自分の名が藤若のそれとそうやって列び立つこともないであろうという事実もそれはそれでまた悲しかった。
 特別に接点があるでもなかったので藤若の消息は小学校の卒業と共に途切れた。中学時代の三年間は見も知らぬS中の同期と世界に対する恒常的劣等意識の中で寝起きし、食べて排泄し勉学のような何かに励むふりをして生命を繋いだ。来る高校進学の暁にはとにかく最上とされている場所へ行こうと決めた。当然ながらその恐るべきコンプレックスの払拭も目的の一つであったが、一方で、さすればその頂上に藤若は居ると、どこかでXは思っていたからでもある。激烈な選抜試験を通って晴れて花営の徒となると、案の定その最上の場所の最上段で悠々美しい脚を組み、藤若は待っていた。こうしてここに至る。

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〈どこかの時空間における春王という男の話
「序」
 若き春王が天の祝福に与ったその童子を初めて拝んだのは、■■■に開かれた演劇の催しであったわけであるが、既にその一座は各所で名を馳せており、芸の幽艶もさることながら大評判の最たる要因となっているのは座頭清次の嫡男花夜叉の存在である。何でも、日頃はよく解らない面をつけているらしいが、その少年の晒した直面を目にした女たちが次々に卒倒したというから、春王の好奇心と独占欲とをかきたてないわけがない。この若い将軍にとっては、この世の事物は全て己の知識でなければならなかった。更には己の精神が叡知そのものでなければならなかった。もっともそれは青白い驕傲と、そして逆説的なことには、恐るべき無知の域を過ぎない。
 散桜の季頃、野外の仮設舞台であったのが幸いし、大気を柔和に混ぜ込める春風と押し流される散花の流線の絵画性というのは貴人に奉る華麗な演出に申し分ない要素であると見える。ぬるい浅敷は既に満員である。
 「ここに居る奴等は皆芸など見に来ていないんだろうな」春王は傍らに座していた清麿に向かって言う。寡黙な従者は怪訝な表情をする。「そんなことないのか。いや、花夜叉のことよ。お前知らんのか、あれを」
 「いえ存じ上げておりますが」
 「すごいらしいじゃないか」
 「皆そう言いますね」
 「本当だろうか」
 「どうでしょうね」
 「おれは常から、例えば吉報を聞いても我が目で確かめるまではあまり期待を持たないようにしているのだ。むしろ諦めのようなものを予め故意に造っておくんだ。そうすれば事実が話以上のものだったとしてもその逆でも損することがないから。良かったら期待以上だし悪くとも期待通りだから、どう転んでも負にはならない」
 「確かにそうでございますね」
 「つまり自分は人一倍落胆を恐れているんだろうな。落胆は怖いものだよ。自分がするのも他人にされるのも。羞恥のような何かが起こるんだな。何だろう、羞恥というにはもっと危機的な。いや羞恥とは実のところ激しい恐怖と同質なのかもしれない」
 「しかしどうしてもどこかで期待はしてしまうものです。所詮表面的な弁明です」
 「うむ。それは否定できない。でもそれで良いのだ。事実今もこれ以上ないくらい興奮している。本来それ自体が美しいものである女さえもが肝を抜く美しさとは如何程のものだろう」
 「きっと御期待を裏切らないでしょうよ。これほどの噂なんですから」
 乾木を打つ音が高らかに響き、そこにある空間を一つの湖面とするならば、人々のざわめきの波紋の最後の輪が広がりきって消え、慎と静まった。
 奏楽と共に橋掛かりに現れ松の木を背に透かして中央へ遅々と進み入る大小二人の役者の姿はその歩一つさえ荘厳な感がある。たかが卑賤の芸人である。一方の大男、清次という男はというと、演技に入ればその雄々しい体躯が手弱女のようにも幼子のようにも衰弱した老人のようにも錯視されるという伝聞の神妙な技巧の持ち主であり、一方隣に並ぶ少年役者は、素顔を覆う面の大きさも不恰好な細っこい童子であったが、しかし、そのしなやかな四肢の運びは父の技巧を凌駕する霊圧で桟敷を嘆息で満たした。
 まして面を外し、噂の直面を表せば、加えて場は色めきたつ。
 舞台の中央に留まった少年は面の縁に丁重な様子で手を掛けるがその挙動によって発せられる僅かな衣擦れの音はすべて克明に聞こえた。それほどに人々は息を詰めている。
 引き現れたその容貌は、並々ならぬ、妙麗。
 一同は一斉に息をついた。「何と」「美しい」開演前の細波が帰ってくる。ただし今度は波の性質が違い、散漫に寄せては消える波飛沫ではなく、うっとりと、一所へ向かう安らかな轟きで、それらは舞台上の美童のもとに吸い込まれていった。彼はまだ年端も行かぬワラベだ、幾度となく舞台に立ちまた直面の御披露目のところで毎度一様な反応を示されることなどもうウンザリしてしまっているだろうに、決まりの悪い様子もなく毅然として眉一つ動かさない。あまりの詩情に黙ってもいられない大人たちよりも、彼らの陶酔に付き合って美術品の役割を全うしているこの童子の方が、余程成熟しているかのように見える。千年は優に生きているのではなかろうか。と憶測させる化石的瞳孔。
 いつの間にやら舞が始まったがそれもまた当然のように伝聞を裏切らない。空気抵抗の隙間を縫って降りしきる花弁を、掬って弄ぶような扇裁きや、霊峰の感さえある不振の重心や泳ぐ足運びは悉く裏切らない。しかし既に観客の注目は少年一人に注がれて清次ほどの芸さえ一背景であった。それは狙いなのか不本意なのか。
 さて、直面の少年は
跳ねた。
その跳躍の残像はこの世のどんな賞嘆すべき運動を持つ生物の名を用いても形容しえないアラベスクなのである。
 演技は冗長な上に至って静的であったので、半ば夢をみているような気分だった。少年とその父は朦朧とした視界の中の恐ろしく遠い場所で陽炎のように舞っていた。
 「あの童子。褒美をやらなくちゃいかんから、後で確かにおれのところへ寄越せよ」と、呆けながら、春王。
 「勿論参りましょう。あわよくばと春王様に取り入ろうとして来ているんですから」
 「うむ。役得だ」
 「あちらも万々歳ですね」と清麿。
 「名前を付けてやるのさ。うん、もう決めた。鬼夜叉っていうんだ。ぴったりだろう、花が霊を吸って鬼に変わったのだ。あれは人間じゃないよな。人間じゃないよ」〉
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