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文字数 1,839文字

 榊志保が「主任」と呼ばれるために犠牲したものの大きさに気づいたのはアラフォーと呼ばれる歳になってからだった。





 右も左もわからないままに二十代が過ぎていき榊の基盤を盤石にするために三十代は過ぎ去ってしまったのであった。





 高校の同級生、大学の同期たちは立派な母親になっている。





 そんな中、榊はろくに恋愛もせずに仕事に人生を捧げたのである。





 そして手に入れたのが「主任」という立場であった。





 そのような自分を顧みて榊は寂しい人生を過ごしてきたのではないかと思ったのは帰り道のことであった。





 榊の横を小学低学年と思える子どもと手をつないだ女性が通り過ぎて行った。これを見た榊は自分にも、もしかしたらあれぐらいの子どもがいたかもしれない。いや、もっと大きな子どもがいたかもしれないと思ったのである。





 榊に恋人と呼べる異性はいない。





 何人か榊に好意を寄せる異性は居たが、その時にはそのことは仕事の邪魔であると思っていたのである。





「男なんていらない」





 これが榊の口癖だった。





 だが、それは自らに好意を寄せる男性などいないという思いの表れでもあったのだ。





 その原因は、榊の中学時代にある。





 中学生だった榊には好きな異性が居たのである。彼に榊は猛アタックをした。そして、彼の家の電話番号を手に入れた時には感動のあまり涙したものである。





 それも遠い話だ。





 彼は榊をもてあそぶだけ遊び、他の男子に榊の事を売ってしまうような許せない行為をしたのである。

 榊はそのことを思い出すと、今でも虫唾が走るほどだ。





 この体験によって榊は、異性をまったく信用しなくなった。高校と大学はそれぞれ女子校と女子大学に進んだ。





 それならば、汚らしい異性達に会うことなく勉強に励むことができるというのがその理由だった。





 そして彼女が就職したのも、ほとんどを女性が占める会社であった。





 その会社で女性の頂点に立ってみせる。





 それが彼女が、その会社に入社したときの決意であったのである。







 そのような彼女を揺るがす出来事が起きたのは四十一歳の誕生日が来ようかという時であった。若い異性の副主任が本社からやってきたのである。





 管理者を除き、女性だけの社会でやってきた榊にとって、これは対応に困ることであった。なんせ、中学以来、異性とまともに話したことがないからである。





 榊にとってはこれは驚愕することであり、これから会社でどのような顔で「主任」を演じれば良いかわからなくなったのである。





 榊は副主任をとりあえず邪険に扱うことにした。パワハラ一歩手前のこともした。それでも副主任は仕事についてきたのである。





 それを見て榊は異性についての考えを改める必要があるのではないかと感じた。何よりも仕事のできる副主任に対して何とも言えない感情を抱く自分がいることに気づいてしまったのである。







 ある日、副主任に榊は尋ねられた。





「榊主任って何歳なんですか? いや、女性に歳を尋ねるのは失礼でしたね。忘れてください」





 榊は何事もないというふうに答えた。





「今年で四十二歳よ。もうおばさん」





「えっ、三十代だと思ってましたよ」





「お世辞をしても仕事は減らさないよ」





「どんどん仕事をください。頑張ります!」





「そうだ。その意気だ。今日も終電だな!」





 二人の仲はこういう会話の中で徐々に深まっていったのである。







 その日も終電帰りだった。疲れてベンチで寝かけていると不意に頬に暖かいものが押しつけられた。





「こんな所で寝ていると風邪引きますよ。缶コーヒです。どうぞ」





「おまえこの電車じゃないだろ」





「終電逃しちゃって、主任の家に泊まらせてくれませんか?」





「女性の一人暮らしの家にやってくるつもりか。よい度胸だな」





「だめですか?」





「まぁ。いい。この事は秘密だぞ。わかったな」





「はい!」





 二人が結婚するのはそれから半年後の話。



(了)
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