おやすみの向こう側

文字数 12,282文字

「おやすみ百合子。また明日」
 そうやって自らの妻に声をかけると、彼女……百合子は優しく微笑んだ。
「おやすみなさい利一さん。夜更かししちゃダメよ。ちゃんと寝るのよ」
「わかってるよ。……おやすみ」
 とりとめもないやり取りの後、利一は妻の部屋を後にし、キッチンへと向かった。
 冷蔵庫を開けて飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、空になるまで一気に飲み干した。新しく口を開けていないものを取り出して、自室に戻った。
 酒はもうずっと飲んでいない。とにかく頭を回し続ける必要があったからだった。もともと酒には強かったが、一瞬でも判断が鈍る行為は避けたかった。自分が思考を巡らし、正しく行動を続けることが、妻を蘇らせる最善で最短の道であると利一は信じ続けることにしていた。
 

***
 

 目が覚める。今日もきちんと目が覚め、体が徐々に動き出し、世界が続いていることを確かめる。
 朝のあいさつと、機器類の稼働チェックをするために、利一は百合子の部屋に向かった。
 地下室への階段を降り、部屋の明かりをつけると、薄ぼんやりした明かりの中に、複数のモニターの画面が光っている。百合子はすでに目覚めていた。
「おはよう百合子。今日は早起きだね」
「おはよう利一さん。珍しいでしょう、私があなたより早起きなんて」
 百合子は早起きが苦手だ。彼女が体のほとんどを失う前、まだ普通の暮らしをしていた頃からずっとそうだった。利一が部屋の明かりをつける前に目覚めている時、百合子は、「えっへん」と誇らしげにするのだった。
「あ、でもちゃんと眠ったから、安心して。今日も元気よ」
「うん。そうらしいね」
 二人は微笑みあった。少なくとも利一はそう思った。
 百合子に残っている体は、脳と脳幹の一部、左目と肩から先の左腕しかない。顔のパーツもほとんどない百合子がどんな表情をしているかを、利一は経験と記憶と想像とで補った。
 利一は百合子が入った大きな円柱状の水槽を管理する機器類のチェックをしながら、百合子に話しかけた。
「今日は第三病院のほうまで回ってくるよ」
「あら、ちょっと遠出ね?」
 水槽から繋がったケーブルがいくつかの機器を通してスピーカーに繋がり、そこから百合子の、やや合成音声のような声が聞こえる。
「うん。待ち合わせがあってね。でも日が暮れる前には帰れるよ」
「何か面白いことがあるといいわね」
「そうだね。土産になるようなことがあるといいけど」
 水圧よし。水温よし。電圧よし。ひとつひとつ丁寧に数値を確かめ、ディスプレイやケーブルに傷みがないかを確認する。水槽の中には、今日も薄桃色の液体が満ちている。この液体が、百合子の体の消失を防いでくれる。
「あ。ねえねえ、私お花が欲しいわ」
「花?」
「そう。季節は春でしょ? きっと何か咲いていると思うの。今日のお土産はお花がいいな。『おうちに春の彩を!』ってやつよ」
「わかったよ。何か見繕ってこよう」
「やった。お願いね」
 

***


 もう五年も前のことになる。
 七十億人もいた地球上の人間は、そのおおよそほとんどが、ある日を境に忽然と姿を消してしまった。
 隕石が落ちたとか、宇宙人や地底人が侵略してきたとかではなかった。
 その日、世界と人間があまり繁栄しなかった他の世界とを隔てている境界面が、少しばかりずれて、重なり、融合した。その境界面のズレに、運悪く地球は重なってしまっていた。
 他の世界が上からのし掛かってきて融合してしまったところにいた人間は、まるでデータを上書きするかのように、いないことになってしまった。また、運がいいのか悪いのかは置いておいて、他の世界が融合しなかった部分にいた人間は、すっかり変わってしまった地球にぽつんと取り残されることになった。
 利一はこういうふうに説明を受けた。何度も説明を受けるうち、何となくわかってきたような気がしたが、やはり情報が曖昧で規模が大き過ぎたために、簡単に鵜呑みにすることはできなかった。こういった話は、利一よりもむしろ百合子のほうが理解が早く、彼女は新しくなった世界について、ある種の納得をしているようだった。
 この天変地異によって、混乱をきたしたのは何も人間だけではなかった。他の世界の住人も、あまり多くないとはいえ、融合の際に突然、地球に飛ばされてきてしまった。利一に世界の説明をしてくれたシラッハという男もその一人だった。
 この日、利一はシラッハに会いに第三病院に来たのである。
 
 内科や外科をはじめ、人間の体という体のあらゆる部位を専門で診る医者が揃っていた大型の総合病院だった第三病院は利一の元職場だった。元職場と言っても利一はもっぱら付属大学の研究室に所属し、患者を見ることは基本的にはなかったのだが。
 天変地異ののち、第三病院は人間向けの医療施設ではなく、様々な種族たちの宿泊施設兼、情報交換の場となった。犬の家族や石像の群れ、粘菌のように動く軟体生物のようなものが、雨風を凌ぐ場所として集団で泊まっていることがある。
 ただ元々大型の総合病院で、入院病棟の部屋数もベッドの数も県内有数であったが、宿泊施設となった今は半分も使われることはない。
 利一は直接会ったことがないが、この国でも生き残った者がいるらしく、放浪の途中でここを一夜の寝床にしたらしい人のメモを見つけたこともある。ただメモに「自分が人間である」と書かれていたというだけで、直接会っていないから、相手がどんな容姿をしているのかはわからない。生き残りながらも姿が変わってしまった人間が、相当数いると聞いている。
 利一が病院の正面入り口に適当に車を停めると、中からバイク用のフルフェイスヘルメットを被った、身長二メートルを優に越す大男が現れた。シラッハだ。
「よう、時間通りだな」
「……何かわかったか」
「そう焦るなって。まあ座って話そうぜ」

 シラッハは別の世界の住人だった。すなわち、地球の上に被さってきたほうの世界の住人だった。
 彼曰く、地球に乗っかった別の世界の技術レベルは、地球の文明よりもずっと進んでいたということであった。しかし一方で、こちらの世界ほど安定してはいなかったという。というのも、人口が集中している地域が限られ、人間同士が技術を高め合うような有意義な交流というものが、ほとんど行えなかったらしい。
 加えてシラッハの暮らしていた世界では、地球上には知的生命体は人間だけではなかった。人間は知恵と技術を持ちながら、その身体的貧弱さから、マイナーな種族という位置を占めていたのだそうである。他種同士の争いに巻き込まれて、集落ごと滅ぶことも珍しくなかった。
 シラッハは別世界で言うところの「人間」と呼ばれる種族だったが、利一はシラッハの体駆を目の当たりにするたびに、身体的貧弱さという判断基準も、やはり相対的なものでしかないのだと思わざるを得なかった。彼で貧弱なら、果たしてどのような生物だったら強靭と呼びうるのだろうか……
『俺が住んでたところは、別種族が治めてるところでさ。一応自治権があったから比較的平和だったよ。他の地域はちょっと、どうなってたかわからんけど。その領主的な種族がまあまあ友好的だったから、俺たちもその技術と恩恵に与ってたってわけさ』
 利一にとっては、何度聞いても頭の痛くなる話だった。理解が追いつかないわけではない。どうしても「そうですか」と飲み込めなかった。元々融通のきかない性格の利一は、天変地異ののち彼が学んできた世界の仕組みが根底から覆ってしまったショックが、何年経っても尾を引いているのだった。
 
 二人は病院のエントランスの適当な長椅子に隣り合って座った。
「朗報と悪報とがあるが、お前は悪報から聞く派なんだったな」とシラッハは神妙な面持ちで切り出した。「百合子さんのことだがな。

を始めて何年になる」
「今年の春で、五年目だ」
「五年か」
 嘆息を漏らし、シラッハは手を頭の後ろに組んでぐっと伸びをした。
「アレは無理やり個人を繋ぎ止めているだけに過ぎない。俺の持っている技術や知識がいかにお前たちのそれより優れている……というか、性質が違うもんだとしても、限界はある。俺は医者だったけど、技術屋じゃないし、この辺りには必要なモノがなさすぎる。利一、わかっているんだろうな」
 
 五年前の

、利一と百合子は海辺を歩いていた。
 久々に休みが取れて、二人で明け方の海辺を散歩していた。百合子は昔から、海から日が昇ってくるのを見るのが好きだったからだ。暁の薄明かりで辺りがぼんやりしだすと、二人は立ち止まり、水平線をじっと見つめて日の出を待った。その日もいつものように、二人は日の出を待っていた。東の空が、朝焼けに染まり始めていた。
 すると一瞬、見慣れない虹色の閃光が、ちらりと空と海との間に煌めいた。
 利一のすぐ隣でドサリと音がした。その時にはすでに、百合子の膝から下は跡形もなく消滅した後だった。血を流すことも、痛みを感じることもなかった。
 二人は声を上げることもできないまま、互いを見つめあった。何が起きたのか、全くわからなかった。そうしている間にも、波が砂をさらうようにして、百合子の体は徐々に崩れ、霧散していった。あまりに非現実的な出来事だった。
 百合子は未だ自分に何が起こっているのか、わかっていない様子だった。
 利一は足先から小さくなっていく妻を見て、夢を見ているようだった。美しいとさえ思った。しかし次の瞬間には、戦慄が走った。どうすれば。どうしたらいいのか。
 その時、波打ち際から一つの大きな塊が、ザバッ! と勢いよく音を立てて上がってきた。
 それは身長二メートルは優に越す、頭にヘルメットを被った男だった。

 別世界からやってきたというシラッハの協力を得て、利一は百合子を抱え、一番近くの建物へ走った。海辺にある小さな水族館だった。
 海から上がってきた男が何者なのか、自分達を害するつもりが本当にないのか、妻を助けられるかもしれないと言ったが本当なのか。利一の頭の中では、思考が目まぐるしく吹き荒れていた。しかし、徐々に体を失いつつある妻を目前にして、そんなことをいちいち問いただしている暇は全くなかった。とにかくシラッハの言う通りに行動した。彼が何をしているのかは全くわからなかった。何もわからなかったが、思考を置き去りにして、体だけを動かしていた。
 二時間も経った頃、水族館にあった大きな水槽に、百合子の体は収まった。体の消失は緩やかになったが、それでもこの時点で、百合子は腰から下と、右腕を失っていた。なぜか心臓は動いていたが、百合子は眠っているように目を閉じていた。
 百合子の体が入った水槽と謎の協力者シラッハを連れて、車で家に帰った。それから自宅の一室を作り替え、現在の設備を少しずつ整えた。その間にも徐々に体は失われ、最終的に脳と片方の目と腕が残った。

 利一は百合子のためならなんでも出来ると思った。実際に、なんでもやった。墓荒らしさえやった。人骨のサンプルが必要だったからだ。地上にいた人間は消えてしまったが、地中で眠る元人間は、消滅を免れていた。
 以前なら脳髄と体に染み付いた倫理観と道徳とが許さなかったありとあらゆる行為を、百合子の命を救うという名目によって全て是とした。身体のほとんどを失った彼女を生き長らえさせる技術がある。それを自分は手に入れた。だからやる。動機と目的はシンプルだ。だから彼にとって、手段もシンプルに割り切ってしまうほうがよかった。何にせよ、動機・目的・手段、それら全てを複雑にしているだけの時間も、余裕もなかった。
 シラッハは何度も「この状態では長くない」「もう死んでいるかもしれない」と利一に忠告し続けてきたが、利一は聞く耳を持たなかった。百合子は今、体を動かせないだけだ。声を出せないだけだ。眠っているだけだ。とにかく、水槽の中で死んだ金魚のように浮いている彼女が、生きているのだと妄信し続けた。その執念だけで、利一は技術を学び、必要なものをかき集め、奪い、繋いできた。

 百合子が目覚め、スピーカー越しに声を聞いたのが、天変地異から一年後のことである。
『おはよう』
 長い眠りから目覚めた百合子の第一声は、いつもの朝と変わらなかった。
 体を失ってから目覚めるまで眠っていた期間のことを、百合子は「死んでいた」と言った。

「あの処置は根本の解決手段じゃない。一時的な延命措置なんだ。それはお前だってよくわかっているだろう。……それでもよく五年も保ったもんだ。本来死んでいるものを今日この時も無理やり延命させている。それだって奇跡みたいなもんだ」
「ああ、わかっている。わかっているさ……」
「俺も遠出してみたりして、あちこち技術屋がいないか探し回ってるけどよ。そもそも生き物がほとんどいない。残るは海の中だが……」
「ありがとうシラッハ、無理はしないでくれ」
「大丈夫だ。海には入らない。心配すんな」
 利一はきつく唇を噛んだ。自分が、すぐさまに妻を回復させる手段がないことを悔しく、歯痒く思った。技術提供者であるシラッハ本人から、長くは保たないことを前々から聞かされていた。それでも、一日ずつ命を延ばしてきた。
 あの状態で、生きていると言えるのなら。そう考えないでいることはできなかった。
 それでも、ここ数年、百合子の状態は安定している。彼女は今日も元気そうだった。近頃はシラッハを通じて新しい知り合いができた。シラッハと同じく医者で、人間は専門外だが再生医療のようなことを生業としていたそうだ。もしかしたら、皮膚や骨、神経など、百合子が失った体を再生できるかもしれない。
 希望はある。嘆いて立ち止まっている暇はない。不安と焦燥と、百合子を失うかもしれないという恐れとが、どの瞬間も利一を突き動かしていた。
「それで、朗報ってのは?」
 利一が話を催促すると、シラッハは小さなビニール包みを手渡してきた。
 小さなコイン型の、黄金色のクッキーが五枚。形よく包装されたビニールには、赤いリボン飾りがついていた。正面に貼ってあるシールには、何やら文字らしき記号と、太陽と月の絵が印刷されている。
「どうしたんだ、これ」
「生きてる『人間』がいるらしいって話。これは貰いもんだし、直接会ってねぇからどこにいるかは知らん。何でも、ここの菓子屋でリボンかける仕事してるって話だぜ」
 利一は、その人間が何か有益な情報を持っているわけではなさそうだとわかると、どうしても落胆せずにはいられなかった。同時に、自分と百合子以外にも人間がまだいることに、少しだけ安堵もした。


***


「今日はどんなことがあったの?」
 百合子が目覚めている間、彼女は利一に外の世界のことを何でもよく尋ねた。利一も答えられる範囲で答え、二人が同じ空間にいる時は……利一が百合子の部屋にいる時は……二人の会話が途切れることはなかった。口下手な利一と対照的に、百合子は会話が非常にうまかった。プツリと切れてしまいそうになる言葉のやりとりを、百合子は上手に拾い、新しい会話に繋げるのだった。
「今日は帰り道に猫の嫁入りを見たよ。三毛猫と黒猫の夫婦だった」
「あら、猫の? 狐じゃないのね」
「そう。……ほら、写真を撮らせてもらったんだ」
 スマートフォンの写真を見せると、百合子は嬉しそうに笑った。
 写真には、三毛猫と黒猫の番が、仲睦まじく並んでいる。その周りをたくさんの猫たちが取り囲んでいる。猫たちの表情は、皆嬉しそうだった。
「可愛い。黒猫のほうがお嫁さんね?」
「当たり」
「うふふ。美人さんだわ」
 百合子の脳には脳波を測定する細い電極が繋がっている。電極が観測した脳波は、モニターに緩やかな波線を描き、彼女が今も生きて、思考していることを示した。
 喜んでいる時は踊るよう。悲しんでいる時はギザギザ。怒っている時は、火山の噴火のよう。人間の心って、客観的にグラフにしても、自分が感じたように見えるものね。不思議。
 自分の脳の動きが見たいと百合子にせがまれ、脳波を紙に印刷して見せた時、百合子はそんなふうに表現した。
「それで、猫のお嫁さんに、きれいな花を教えてもらったよ」
 利一は水切りしてバケツに入れていた花を取り上げると、花瓶に挿し、百合子に見せた。
「あら、素敵。勿忘草と……ラベンダーね。自生していたの?」
「空き地に生えていたよ。誰かが運んで、野生化したのかな」
「うまく適応できたのかしらね。植物はしたたかだわ」
 百合子はまた笑った。脳波はモニター上で滑らかに踊っていた。
 利一は土産の花を挿した花瓶を、いつでも百合子の視界に入る机の上に飾った。

 
 ***


 五年前、百合子の体が消失し始めたその日から、「おやすみ」のあいさつをしてからも利一はまともに眠れなくなった。
 今は、機器類に異常が発生したり、脳波に何か大きく変化が生じれば、アラートが鳴るようにしてある。毎日毎日、それらが鳴らないことを祈りながら不安に満ちた夜を過ごす。そのうち、ろくに眠れないことがわかると、夜の間も研究を続けるようになった。どうしても眠らなくてはならない時は、睡眠薬を使った。それでも、すぐに目が覚めてしまった。
 シラッハが紹介してくれた医者の話によれば、人間の体の組織を作ること自体は問題ではないという。それをどうやって残った脳や体と結合させるかが問題なのだという。
 いっそのこと、脳だけをまったく新しい体に……体の素材を問わず……移植するほうが楽かもしれない。あるいは少々不自由だが、脳の機能を維持することだけに専念して、体を作ることをやめ、現在の装置を改良して小さなシリンダー状の容器に移し替える技術もあるという。『脳缶』と呼ばれるものだそうだが、利一は後者に関してはどうしても嫌悪感があった。もはやそれは、人間として生きているとは言えないのではないか?
 しかし、どうなっていれば、人間は生きていると言えるのだろうか。
 元の体を失い、新しく四肢を手に入れた彼女は果たして、元の彼女そのものたりえるのだろうか? 義足や義手をつけるのとは話が違う。百合子は一度、死んだのだと言う。意識を失ったのではなく。
 いや違う。百合子はまだここにいる。生きている。今朝だって、話をしたじゃないか。彼女は自ら動くことはできないし、直接触れることも叶わない。だがそれは、手紙や電話の向こう側と何が違うのだろう。姿は見えず、触れられなくとも、相手は生きている。それと何が違うというのか。
 一夜にして世界がまるで変わってしまったのだ。それまでなら「死」として扱った状態も、今なら「生」と言えるのではないか。……利一はいつまでも、終わりのない内省を繰り返した。
 毎晩百合子に「おやすみ」のあいさつをして部屋の明かりを消す時、自室に戻って眠る時、利一は何とかして迷いやためらいを消そうと試みた。医師として命に向き合って生きてきた十数年の年月がいつでも足を引っ張った。「ここで止まれ」とでも言うようだった。
 
 
***


『おやすみの向こうには、必ずおはようがあるわ。おはようの向こうには、おやすみがあるわ。その繰り返し』
 利一が百合子と出会ったのは、二人がまだ学部生の頃だった。利一は医学部の三年生、百合子は同じ大学の人文学部哲学専攻の二年生だった。
 二人が付き合いだした頃、あまりに異なる二人の専攻分野に、周りは二人が長続きしないだろうと考えていた。実際に、利一と百合子は真逆と言っていいほど異なっていた。二人の関係は、相手が同質の存在であるという居心地の良さよりは、全く自分の持っていない部分を持っている相手に憧れのような感情を抱いたのが始まりだった。
 利一と百合子は、お互いに出来る限り時間の都合をつけては、いつまでも話し合った。
『だけど、私たちのおはようとおやすみの間には永遠はないのよ。永遠というのは、おはようの前か、おやすみの後にあるの。わかる?』
『君の永遠論は随分と……詩的だね』
 利一が少し笑うと、百合子はつられてクスクスと笑った。
『もう、茶化さないで。本気なんだから。
 私たちはいずれ終わりが来ることを知っているわ。私たちは有限なの。私たちの有限を、誰かが永遠の中から切り取って覗いているのよ。無限に続く映画のフィルムの一部を切り取ったり、貼り直して編集したり。無限に続く小説の始まりと終わりを設定するようなものね。だから、私たちの開始地点から終了地点までのどの「おはよう」と「おやすみ」の間にも、やっぱり永遠はないのよ』
『なるほどね。その「誰か」っていうのは?』
『さあ。みんなが神様とか仏様とか呼ぶ、そういう存在じゃない? ご先祖様の集合体とかね。今もどこかで、私たちの話を見聞きしているかもしれない』
『でもその「誰か」を知ることはできないし、本当にいるのかも確認できない』
『なぜ?』
『彼らは永遠の中にいて、僕らは彼らが切り取った有限の中だから』
『正解。覚えたわね』
 百合子は満足したようにあはは、と少し歯を見せて笑った。よく笑う人だった。皮肉からでも、嘲笑からでもない、百合子は自分が嬉しい時や楽しい時にだけ、コロコロと笑った。
『私の課題はこの永遠の証明ね』
『君の説によると、有限に属する僕らは永遠を知覚できないし、それなら証明もできないように思うけど。思考実験の類ならまだしも』
『難問を乗り越えるのよ。いつだって人間はそうしてきた。それこそが人間の素晴らしさだわ』
 人間の素晴らしさ、百合子はこの言葉を愛し、よく口にした。
 少なくとも、利一にとって百合子は人間の素晴らしさを誰よりも信じている人だった。人間の愚かさや醜さばかりを見てきた利一には、百合子の信念ははじめのうちは根拠のないただの妄信であるように感じられた。それが話をする毎、百合子の人間に対する態度というのが、同情と悲しみとに裏付けられた優しさであるとわかった。
 だから、利一は百合子に惹かれていった。
 そうして誰よりも人間の素晴らしさを信じていた百合子は、あまりにも呆気なく世界から見放されてしまった。
 ある日を境に、ほとんどの人間が、忽然と姿を消してしまった。百合子自身も体を失った。人間が作り上げてきた栄光と文明は、わずかにその痕跡が残るのみとなった。ただ今は、緩やかに衰退し、完全に風化し、誰からも忘れられる日を静かに待っている。
 

***


 数ヶ月がたったある日の朝のことだった。
「おはよう百合子。今朝の調子はどうだい」
「……おはよう利一さん。そうね」
 いつもと違う反応に、利一は悪寒を感じた。嫌な予感がした。何かよくないことが起こっている。
「そうね。……なんていうのかしら」
「調子が悪いのかい? どこかが痛む?」
「うーん」
 百合子は悩んでいる様子を見せた。百合子がこうなってから五年が経つが、こんなに歯切れの悪い回答は初めてだった。何か言いづらいことがある時、百合子はいつもこうやって口ごもった。
 水槽の中の百合子を見ると、左手の小指と薬指がなくなっていた。
「……すごく視界が悪いわ。多分、そろそろダメなのね。きっと。『死んでいた時』みたいな感覚がするもの。……詳しいことは、あなたのほうがよくわかるでしょう」
 利一は頭が真っ白になった。
 体の消失がまた始まったのだ。止める術はない。
「ねえ利一さん。今日も出かけるの」
「あ、ああ。何とかして原因を探って、消失を止めなくちゃ。シラッハにも連絡して、探してみるよ。どこか痛い感じはしないかい。怖い思いをさせるけど、少しの間……」
「いや。行っちゃ嫌。今日はここにいて」
 百合子が、こんなふうにわがままをいうのは、これが初めてのことだった。
「……ここにいて。お願い」
 突然の再消失。いつと違った様子。百合子は恐れているのだろうと、利一は思った。利一の予想を裏切るように、脳波系は緩やかに波打っていた。利一は百合子の申し出を受け入れた。
 毎朝目が覚める時に感じていた、「この日が最後になるかもしれない」という漠然とした不安が、この日ついに現実のものになってしまった。幕切れの時はいつだって突然だった。

 利一はシラッハに短い電話をかけた。シラッハは全て了承したようだった。
『なんかあったら、遠慮せずにまた電話しろよ』
「ああ。ありがとう」
『おう。じゃあ、またな』
 利一は少しだけ、電話を切るのをためらった。別段用事があるわけではなかった。

「ね、私がいつだったか、永遠について話したこと、覚えてる?」
 覚えているよ、と利一が言うと、百合子は満足気に笑った。
 利一は百合子の水槽の前に椅子を持ってきて、向かい合わせに座っていた。感じるのは今にも消えそうな妻を眺めながらどうすることもできない無力感だった。
「私、こうなる前に永遠の証明をしてみせると意気込んでたけど、結局できなかった。できると信じていたかったのね。それが人間に対する最大の賛辞だと思っていたから。後悔なんてしていないし、若気の至りとか気の迷いだなんて、言うつもりはないのだけれど」
「うん」
「でも有限に属する人間が生きている間に、永遠を獲得しえないというのは、本当だってわかったわ。……他者に向かって立証できはしないから、私自身が納得したと言うほうが正しいのかもしれない」
「納得?」
「そう」
 百合子の左腕はもう肘の上まで消滅している。砂時計のようにさらさらと、水槽に満ちる溶液に流れていくさまに、利一はやはり美しさを感じた。同時に、失われたものに対する悲しみと、寂しさがこみ上げてきた。
 百合子は続ける。
「お別れはいつだって辛かった。突然置いていかれて、どうして、って思ってた。でもそういうものなのね。私たちの有限の幕引きは、気まぐれで突然なんだわ。私たちが干渉できない存在が決めていることだから」
「神とか、仏とか?」
「そう、ご先祖様の魂の集合体とかね」
 体の消失が再び始まってからは、早かった。百合子はもう左目を失って、同時に視力を失っていた。今は脳だけが、水槽の中に浮かんでいる。
「今、私、脳だけで話をしているの?」
「うん」
「そう。……そうね。これが人間の果てなのね」
 百合子は一人、納得したようだった。彼女はいつでも、一人で納得した。
「ねえ、私いっぺん死んでみてわかったのよ。永遠は確かにあるわ。私たちはそれを感覚として捉えることも、体験としても知識としても得ることはできないけれど。でも確かにあるのよ。私にも、もちろんあなたにも」
 百合子の声は震えていた。脳波がギザギザと波打つ。
 百合子は泣いていた。それに気がついて、利一はいよいよ胸が張り裂けそうだった。
「私、そろそろ『おやすみの向こう側』を見に行くわ」
「もう少し、こっちに留まったっていいじゃないか。向こう側は苦しいかもしれない」
「向こうに行くことが苦しいことか、幸せなことかどうかは、実際に行ってみないとわからないわ。だって私たち、死ぬまで有限の中から出られないんだもの」
「死んだって、永遠の中に行けるとは限らない」
「でも、行かなくちゃ。死んだあとのことは、死んだ人しかわからないのだから」
「いかないでくれ。僕一人、置いていかないでくれ」
「私だって、あなたを置いていくのは心苦しいわ。でもあなた、大丈夫よ。私ちょっと先に、向こう側に行くだけなのだから。あなたも必ずいつかたどり着く。だからね、そんなに泣かないで。目玉が溶けちゃうわよ。
 それにね、私言ったでしょ。おやすみの向こうには、必ずおはようがあるわ。その繰り返し。始まりも終わりもなく、ずっと繰り返すの。だから、私の有限の最後の『おやすみ』の向こうにも、いつか必ず『おはよう』があるわ」

「だからね。おやすみなさい利一さん。またね」
 それきり、百合子は喋らなくなった。

 長い間、利一はその場にうずくまっていた。子供のように泣いて、呆然としていた。どうすることもできなかった。
 それからしばらくしてやっと立ち上がり、百合子に別れのあいさつをした。
「おやすみ百合子。……またいつか」
 脳波計がわずかに揺らぎ、そして完全に静止した。


***


 十数年ぶりに煙草に火をつけ、ぐっと煙を吸う。ゆっくりと息を吐くと、ほとんど閉じた唇の隙間から緩やかに紫煙が漏れ、終いには空中に霧散した。
 百合子は死んだ。今度こそ。幕を引いたのは利一だった。自宅の地下に作った百合子の部屋には、もう誰もいない。四六時中機械の動く音が地鳴りのように響いていたあの空間も、今では陳腐な映画のセットのように感じられる。
 百合子は死んだ。彼女は生き物の限界である、有限の枠を超えたのだ。
 その先に待つ永遠の中、おそらくは、こうしてひとり惨めな思いを抱えたままに煙草を呑む自分のことを見ているのだろう。女神となって。仏となって。魂の集合体と呼び習わすような存在になって。彼女は、永遠の世界に行ったのだ。利一は靄のかかったようにはっきりしない頭で、ぼんやりと想像した。
 彼女が今も自分を見ているのなら、自分の物語の幕は彼女が降ろすのだろう。それも遠くないうちかもしれない。
 一本、また一本と煙草が灰になる。日が暮れて、星が輝き、東の空が暁に染まる頃になっても、利一はそこから動けずにいた。百合子のことを思っては涙を零し、また新しい煙草に火をつける。いつかの日、一番最後のおやすみの向こう側にたどり着くまで、自分はこうして先に行ってしまった百合子を追いかけ、「誰か」が決めた有限の中のおはようとおやすみを繰り返すのだろう。
 朝が来た。
「おはよう」
 そう口にしても、返事をするものはいない。利一は立ち上がり、誰もいない朝焼けの街の中へと歩きだした。


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