第1話

文字数 4,462文字

ユキ子へ

 この手紙を読んでいるということは、父さんはもう旅立ったということだから、優しいお前は父さんを思って空を見上げ、悲しみに暮れているに違いないね。まだ若いお前を一人残していく身勝手な父をゆるしてほしい。しかし、人間みないつかは旅立たねばならぬ時が来る。父さんにも、その時が来た。それだけのことだ。これだけは忘れるな。母さんも父さんも、そばにいなくとも、いつも空の上からお前を見守っている。

 これから、お前は独りで、人生を切り開いていかなくてはいけない。まだ一八歳。人生の大冒険に乗り出すべく、ようやく準備を整えたばかりの年齢だ。父さんのことを嘆くのはほどほどにして、お前らしく前を向いて、新しい人生へと乗り出していって欲しい。

 お前はたいへん優しく、かしこい娘だが、母さんに似たのだろう、ときおり一人で見当もつかない方向に突っ走っていったりすることがある。小学校三年生のときを覚えているだろうか?お前が、「りゅうひょうがなくならないうちに、ちょっとみにいってきます」という置き手紙を残していなくなったとき、父さんはたいへん驚いた。そして、本当にオホーツク海まで行って流氷を見て、一週間後に戻ってきたときはもっと驚いた。警察の人に伴われて玄関を開けたお前は、姿を消したことを謝るでもなく、帰った来た安堵感に泣き出すでもなく、にやりと誇らしげに笑って見せたのだった。ミッションをやり遂げたスパイのように。父さんはとがめるつもりが、その顔を見て、何も言えなくなってしまったよ。お前は母さんと同じ、根っからの冒険家なのだと悟った。

 でも、生き別れたお父さんに会いに行くのです、などという嘘を涙ながらについて、知らないおじさんにヒッチハイクを頼んで北海道まで行くような無茶なマネは二度としてはいけないよ。無茶をするときは、練りに練った計画を立て、あらゆる状況をシミュレートし、絶対に失敗することはないと確信した上で無茶をするものだ。肝に銘じておきなさい。

 そんな危なっかしいお前を、これまで通り父がそばでお前を見守り、適宜軌道修正してあげられれば良いのだが、それももうかなわぬ。そこで、この手紙に、お前がこれからの人生で必要とするであろう父の助言をあらかじめしたためておく。悩んだとき、行き詰まったとき、この手紙を読み返して欲しい。父さんの写真も同封しておくから、一緒に手帳のポケットにでも入れておいて、肌身離さず持ち歩くといいだろう。たまには写真にキスをしてもいいぞ。この手紙をバイブルとして、お前がステキな人生を送ってくれることを父は願っている。

・男について
 お前は冒険家だから、敢えて危険な香りのするパートナーを選ぼうとするのではないかと父は心配している。しかし、男選びで冒険なんてしてはいかんよ。家庭において、いちばんだいじなのはバランスである。N極とN極が反発し合うように、冒険家と冒険家は反発し合うものだ。ライオンとライオンは仲良くしないし、ボケとボケのコンビは成立しない。そういうものである。第一、夫婦が二人とも世界を縦横無尽に冒険していたら、いったいどこが家庭なのかわからない。家庭とは、お前がどんなに遠くに行ったとしても、いつか必ず帰るところのことを言うのだ。お前が自由奔放に飛び回るのであれば、帰ってきたときに羽を休めさせてくれる男を選びなさい。母さんと父さんを見てみなさい。父さんは石橋を叩きに叩いて渡る男だが、お前の母さんは吊り橋を全速力ダッシュで駆け抜けるような女性だった。勇ましく、美しく、アクロバティックに我が道を邁進する母さんに、父さんは引きずられていくのみで、彼女の後ろ姿を追いかけるばかりの日々だったが、それでたいへん幸せだったんだよ。
 
・子供について(あるいは他人について)
 お前が良き伴侶を得たら、だんぜん子供を持つことを勧める。愛しい我が子こそ、お前の人生を照らす光となるであろう。もちろん、お前が十八年間ずっと父を喜ばせてばかりだったわけではない。お前が父の繊細なハートを木っ端みじんに打ちくだく日もしばしばあった。たとえば、中学一年生のとき、お前が父の洗濯物がクサいから一緒に洗濯するのはいやだと、思春期の女子らしい不満を言い出したときのことを覚えているだろうか。あのあとしばらく父は、お前に内緒で、通信販売で購入した米国製の強力な柔軟剤を洗濯機に大量投入し、身の回りの布という布が濡れそぼるくらいファブリーズを噴射し、自室に大量のお香をもうもうと焚いて部屋を煙たくした。古今東西の科学的な芳香地獄の中で危うく窒息するところだった。
 後日、お前は「お父さんはお肉を食べ過ぎです。動物性タンパク質を摂りすぎると男性ホルモンが過剰に分泌され、体臭につながります。肉を摂取するのを控えるか、私と洗濯物を別にするか、どちらかにしてください」と言い渡してきた。ショックだったが、自分の目的達成のために、科学的分析を怠らない姿勢を身につけた娘の成長に感激もした。やはり、お前は母さんの子だと思った。
 お前は、子育てのコツは何ですか、と父に聞くかも知れない。お前のように立派な娘を男手一つで育て上げたのだから、当然のことだろう。出版社から子育て本の執筆が来てもいいくらいだと思う。父に言えることは一つだけである。子供は「育てない」ということである。思い出してみてほしい。お前がこの十八年間、父の期待に適おうとしたことがどれほどあっただろうか。お前は自分の好奇心と本能の導く方向へひたすら進んだだけである。結果、現在のような立派で、オモシロい人間になった。父はそんなお前を誇りに思うし、そんなお前が好きだ。お前は、父さんとも母さんとも違う人格である。他人である。我々は他人をコントロールすることはできないし、他人をコントロールしようとする試みの行き着くところは戦争と相場が決まっている。親にできることは、子の行く道が人としての範疇を超えてしまわぬよう、最低限の軌道修正をする、ボウリングのガターのような役割にすぎない。

・つながりについて
 父さんがまだ幼かった時、しげる叔父さんという人が、父さんの家によく遊びに来ていた。昼間からうちに上がり込んで縁側のロッキングチェアに座って本を読んでいた叔父さんに、父さんはよく遊んでもらったものだ。父さんの父さんと母さん、つまりお前のおじいちゃんとおばあちゃんは、しげる叔父さんに対してあまりいい感情を持っていないことが、子供だった父さんにも感じられることもあった。今にして思えば、叔父さんは、定職に就かず、兄のすねをかじっていたのだろう。おじいちゃんが叔父さんに説教めいたことを言うところを見かけることもあった。だが、大人がどんな風に見ていようと、父さんにとっては、しげる叔父さんほど魅力的な大人はいなかったと断言できる。叔父さんは、奇妙で面白い話をする名人だったのだ。
 叔父さんの話は必ず、その時に周囲にあるものから、いまそこに起こった出来事から、紡がれていった。例えば、遠くで救急車の通る音がしたら、「救急車といえば、隣のS町には、乗ってしまったら必ず助からない救急車があるという…」という具合に、お父さんが駄菓子屋で買ってきた都こんぶをかじっていたら「都こんぶの製造には、普通では手に入れることのできない特別なだしが使われていて・・・」という具合に。その場にあるものから始まった叔父さんの物語は、尾ひれはひれがつくどころではなく、気づけば羽が生えて、未知の世界へと飛翔していくのだった。
 父さんは叔父さんの影響を受けて、本を読むようになった。叔父さんの不思議な話術の秘密は、膨大な読書量にあると考え、叔父さんのように自在に物語を作り出せる人間になりたいと思ったのだ。読書が習慣づいてわかったのは、本と本はつながっているということだ。叔父さんがさいしょに勧めてくれた太宰治を一通り読んでからは、太宰が若い頃に憧れた芥川龍之介の作品に取りかかった。そこから、芥川の師匠である夏目漱石へと進み、洗練された文体に感激した。その文体のルーツが、漱石が若き日に読んでいた漢文にあると知り、漢文を独学で学び、漢書を読みあさる時期があった。漢文の素養がある作家といえば中島敦だ。中島敦の小説には、漢のみならず、ユーラシア大陸のさまざまな部族・国家が登場し、独特の不思議な世界を作り出している。特に『古潭』という小説集に魅了され、繰り返し読んだものだったが、その舞台である古代オリエント国家に興味を持ち、歴史文献を読んだ。そこで出会ったのが古代オリエント占星学である。古代オリエント占星学は「占」という字が入っているが、個人の相性や運勢を知るための占いの類いではなく、古代バビロニア人が種まきの季節や、氾濫の時期、旅路での進むべき道を知り、国家の進むべき道を星の運行から読み解くためのものだった。遠い昔、人は星に導かれて旅をし、生活をした。星が人を導いたのだ。星の不思議な魅力に導かれ、父さんは国立天文台に就職した。就職して五年目の春、人類初の火星探査プロジェクトチームに抜擢されたひとりの日本人宇宙飛行士が、天文台に見学に訪れた。それが母さんだった。

 自分のだいじなものを追いかけていると、だいじなものが次のだいじなものを運んできた。世界はきっとそのようにつながっているのだ。お前も自分にとって今だいじなものをしっかり追いかけなさい。そうしたら、だいじなものがつながっていき、お前の世界は広がっていくだろう。

 さて、思ったより長話になってしまった。そろそろ行かねばならん。母さんが待っている。

 十五年かけて、ようやく母さんに追いつくことができるよ。いつだってあの人は父さんのずっと先を走っている。

 母さんが行ってしまってから、父さんは来る日も来る日も今日のことを思って生きてきた。すぐに後を追うつもりだったのだが、それは我々夫婦のスタイルに反すると思い直した。父さんはあくまで、母さんについて行く男だ。そうしてこのプロジェクトを立ち上げた。そこでたいせつな仲間たちもできた。母さんがまた、父さんにこのたいせつな十五年をプレゼントしれくれたのだ。
 人は今回のうち上げを、無謀な自殺行為と言う。NASAもまだ到達していない火星に、日本の中小企業が作ったロケットでいけるはずがない、とね。でも、人が何を言うかなど、どうでもいい。父さんは、練りに練った計画を立て、あらゆる状況をシミュレートし、絶対に失敗することはないと確信した上でこの無茶な旅に出るのだから。

 ユキ子。お前のだいじなつながりを辿って、お前だけの冒険を楽しむといい。他人の言うことなどに耳を貸さなくていい。いつまでも、ヒッチハイクで流氷を見に行ったあの時のお前のままでいい。そうすれば、お前のつながりは、きっと火星にも届くだろう。

父より
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