貝の船
文字数 3,700文字
貴方がこの手紙を拾う頃には、私はもうこの世からいなくなっていることでしょう。
方法は決めていません。
海の水に消えていくか、もはやなんの感情も湧かなくなったこの胸に刃を突き立てるのか……。
どちらにしても、この貝殻を拾った貴方には関係のないことですね。
大きな貝殻でしょう? 父が私に与えてくれた、数少ない贈り物です。これを手放すことに後悔はありません。恐れることがあるとすれば、誰もこの手紙を拾わず、いつか読めないほどに朽ち果ててしまうことでしょうか……。
すべてはあの村長という男が現れたことから始まったのです。
都市部の開発がすさまじい速度で進んでいく中、私達の村は時代に取り残されたかのように古い姿のまま変わらずにおりました。
私は幼い頃より胸を患っており、長く家の外にはいられませんでした。少しはしゃいだだけでも意識が薄れかけるほどでして、飛び回ったり泳いだりするのは、私の一つの憧れでした。
その代わり、文字の読み書きだけは誰よりも早く身につきました。
村には学校という、都市部では当たり前の施設すらなく、子供達を集めては、おとな達が代わる代わる得意な知識を教えるという形でやりくりしていました。
私はすらすらと教わった文字を書いて、周りから賞賛されました。得意になって、難しい文字も積極的に書いてみせました。
それがよくなかったのかもしれません。
当時、村長が変わったばかりでした。前の村長が病で世を去り、選挙になるかと思われたのですが、あの男以外に手を挙げる方はおりませんでした。
村長が事前に手を回し、他の有力者を黙らせたのではないか――とは、あとになって囁かれるようになったことです。
私は村長に声をかけられました。
自分にはお前と同じくらいの年の子がいる。大勢いるところが苦手でね、そいつに読み書きを教えてやってくれないか。そのような提案でした。
村長の息子さんは、確かに勉強会の時に見たことがありませんでした。
初めて誰かの役に立てる時が来たのかと、私は嬉しく思いました。
村長の家にお邪魔したのはその翌日のことです。
彼の息子さんは私より二つ年下で、ひどく落ち着きのない子供でした。手に余る、と一目見た瞬間に感じたものですが、だからといって引き返すこともできません。
私と彼は、小さな卓に向き合って語り物の帳を開きました。私が文字を指さして読み上げるのですが、彼は復唱するどころか、書面を見てすらいないのです。
懸命に文章を読み、真似させようとするのですが、そもそも私が視界に入っているのかも怪しいような相手には教えようがありません。
やがて彼は横になって転がったり、帳を払いのけたり、横暴さを隠そうともしなくなりました。
だんだん苛立ってきた私は、思わず、
「聞いているのですか!」
と大声をあげてしまいました。
まさか、それが致命的な出来事を招くとは思いもよりませんでした。
彼は泣きながら部屋を飛び出していき、すぐに村長と一緒に戻ってきした。
彼はわめきました。これまで黙りこくっていたのはなんだったのかと思うほど、甲高い声でわんわんと。
あいつが俺に怒鳴るんだ、俺のこと年下だからって馬鹿にしてるんだ、こんなやつ大っ嫌いだ!
違う、と言うことはできませんでした。
私は村長に頬を張られ、床に倒れたのです。村長は私にのしかかってきました。何度も何度も打たれました。
何が憎い、俺の息子がそんなに嫌いか、そんなに読み書きできる自分が偉いと思っているのか、思い上がるのもほどほどにしろ!
どのくらい、何をされたのかもよく覚えていません。
ただ、気づいたら、私は自分の家の中で涙に濡れていたのです。
その日から、自分の住んでいる場所が同じ場所だとは思えなくなりました。
近所のおじさんおばさん達は、挨拶をしても返事をしてくれなくなりました。一緒に遊んだ子供らも、露骨に私を無視します。勉強会に行っても、誰も私を見ません。話しかけても、返事すらしてくれないのです。
父は長らく、水路の工事を仕事にしていました。それも失いました。村の外から呼び寄せられた作業員が水路の管理を行うようになり、仕事を奪われたのです。母の編んだ衣服も、服屋さんが買い取ってくれなくなりました。
わずか数日で、私達は村での居場所をなくしたのです。
村長の根回しは執拗でした。
たとえば……買い物に行ってみましょうか。
私が食料品店に入ると、店主がこちらを睨んで「今日はもう終わりだ」と言うのです。追い出された私の前で戸がぱしゃっと閉められました。肩を落として来た道を戻り始めると、背後で戸の滑る音が聞こえます。別のお客さんがやってきて、当たり前のように買い物をしているのです。
なんともあからさまではありませんか。
語り物の中で、こうして孤立する者のお話を読んだことがあります。まさか自分達家族がその当事者になろうとは、想像もしていませんでした。平穏と苦痛は、水の皮膜一枚を隔てて隣り合っているのだということを、嫌でも認識させられました。
ところで、この買い物の話は決定的な出来事になりました。
私が家に帰りますと、両親にひどく心配されました。涙を流しながら大笑いして戻ってきたせいでしょう。
事情を聞いた父は、壁に拳を叩きつけました。そして私のように笑いました。表面だけの笑いです。
「大丈夫だ。俺が全部なんとかするよ」
小さなつぶやきだったのに、やけにはっきり聞こえたように記憶しています。
そして翌朝……私が目覚めた時には、すべてが終わっていました。
村長は自宅近くの路傍で倒れて死んでいたそうです。上から押しつぶされて、ずいぶんと中身が飛び出していたとか。同じようにして、村長の家もぺしゃんこに潰されていたそうです。
父の復讐であることは明白でした。
しかし、私達への報復はありませんでした。
ここに至って、村長がなぜ村長の座を得られたのかがはっきりしたのです。
皆、何かしらの弱みを村長に握られていたのでした。ひとりで簡単に見渡せる程度の小さな村ですから、全員が縛り上げられていたも同然。ゆえに誰もが、うすうす、村長に消えてもらいたいと思っていたのです。
父はたちまち英雄扱いされるようになりました。
「あいつが腐らせた村を、もう一度立て直す」
父は宣言し、新たな村長の座に着きました。
改革は着々と進行していきました。すべて、私の知らないところで。
父の仕事だった水路の工事。それを任されていた村外の作業員集団は、街と村を結ぶ街道で崩落事故に遭って全員が死亡しました。
不幸な事故でした……表向きは。
実際は、父が先導し、村の若者が中心になって岩壁を崩したのです。村長の死を隠すには、外部の人間を排除することが重要でした。そのために彼らは殺されたのです。完全崩落までの時間差の計算が……奴らの逃げ場を完全に奪うために……そんな自慢話が、聞かずとも耳に入ってきたものです。
村長にこびへつらっていた者は、知らないうちに姿を見なくなりました。どうなったのかは、今も知りません。
例の、村長の息子さんも遺体で見つかりました。村長の家を片づけた時、中から出てきたのです。柱の下敷きになったまま息ができず、そのまま父親のあとを追った……。
村を立て直せば立て直すほど、私達の罪は重なっていきました。
それを誰かに打ち明けることもできず、私は、猛進する父の姿を遠く眺めることしかできなかったのです。
やがて村には学校が建ちました。
最初の教師は私です。父に頼まれ、引き受けてしまいました。
子供達の目はまっすぐです。
きらきらとした瞳が、いつだって私を責めているように映ります。
罪を抱えながら、私は子供達に正義を説く。
なんとむなしい行為でしょう。
そんなことを繰り返して、いつの間にか四年が経とうとしています。
もうこれ以上、子供達に言葉をかけることが、私にはできそうにありません。
私は今すぐ楽になりたい。
日に日に募った苦痛が、ようやく決心に結びつきました。
街に逃げることは、死よりも強い苦しみを私にもたらすことでしょう。
こうする以外に、道はないのです。
書きたいことはこれで全部書いたように思います。
願わくば、これを拾った貴方が陸 の上の方でありますように。
私は密かに、大地の上での生活に憧れていたのです。
海原の底は、あまりにも窮屈で、そして息苦しい。
これを読んでいる貴方に訊きたいものです。
土の上は温かいですか?
陽の光というものも、同じように温かいのですか?
一度はそちらで暮らしてみたかった。
人魚でありながら、満足に泳げないことを恥じなくてもよい世界。陽の光に満ちた、まぶしい世界。
けれど、やはり叶わぬ願いなのでしょうね。海蛇のようなこの半身では……。
方法は決めていません。
海の水に消えていくか、もはやなんの感情も湧かなくなったこの胸に刃を突き立てるのか……。
どちらにしても、この貝殻を拾った貴方には関係のないことですね。
大きな貝殻でしょう? 父が私に与えてくれた、数少ない贈り物です。これを手放すことに後悔はありません。恐れることがあるとすれば、誰もこの手紙を拾わず、いつか読めないほどに朽ち果ててしまうことでしょうか……。
すべてはあの村長という男が現れたことから始まったのです。
都市部の開発がすさまじい速度で進んでいく中、私達の村は時代に取り残されたかのように古い姿のまま変わらずにおりました。
私は幼い頃より胸を患っており、長く家の外にはいられませんでした。少しはしゃいだだけでも意識が薄れかけるほどでして、飛び回ったり泳いだりするのは、私の一つの憧れでした。
その代わり、文字の読み書きだけは誰よりも早く身につきました。
村には学校という、都市部では当たり前の施設すらなく、子供達を集めては、おとな達が代わる代わる得意な知識を教えるという形でやりくりしていました。
私はすらすらと教わった文字を書いて、周りから賞賛されました。得意になって、難しい文字も積極的に書いてみせました。
それがよくなかったのかもしれません。
当時、村長が変わったばかりでした。前の村長が病で世を去り、選挙になるかと思われたのですが、あの男以外に手を挙げる方はおりませんでした。
村長が事前に手を回し、他の有力者を黙らせたのではないか――とは、あとになって囁かれるようになったことです。
私は村長に声をかけられました。
自分にはお前と同じくらいの年の子がいる。大勢いるところが苦手でね、そいつに読み書きを教えてやってくれないか。そのような提案でした。
村長の息子さんは、確かに勉強会の時に見たことがありませんでした。
初めて誰かの役に立てる時が来たのかと、私は嬉しく思いました。
村長の家にお邪魔したのはその翌日のことです。
彼の息子さんは私より二つ年下で、ひどく落ち着きのない子供でした。手に余る、と一目見た瞬間に感じたものですが、だからといって引き返すこともできません。
私と彼は、小さな卓に向き合って語り物の帳を開きました。私が文字を指さして読み上げるのですが、彼は復唱するどころか、書面を見てすらいないのです。
懸命に文章を読み、真似させようとするのですが、そもそも私が視界に入っているのかも怪しいような相手には教えようがありません。
やがて彼は横になって転がったり、帳を払いのけたり、横暴さを隠そうともしなくなりました。
だんだん苛立ってきた私は、思わず、
「聞いているのですか!」
と大声をあげてしまいました。
まさか、それが致命的な出来事を招くとは思いもよりませんでした。
彼は泣きながら部屋を飛び出していき、すぐに村長と一緒に戻ってきした。
彼はわめきました。これまで黙りこくっていたのはなんだったのかと思うほど、甲高い声でわんわんと。
あいつが俺に怒鳴るんだ、俺のこと年下だからって馬鹿にしてるんだ、こんなやつ大っ嫌いだ!
違う、と言うことはできませんでした。
私は村長に頬を張られ、床に倒れたのです。村長は私にのしかかってきました。何度も何度も打たれました。
何が憎い、俺の息子がそんなに嫌いか、そんなに読み書きできる自分が偉いと思っているのか、思い上がるのもほどほどにしろ!
どのくらい、何をされたのかもよく覚えていません。
ただ、気づいたら、私は自分の家の中で涙に濡れていたのです。
その日から、自分の住んでいる場所が同じ場所だとは思えなくなりました。
近所のおじさんおばさん達は、挨拶をしても返事をしてくれなくなりました。一緒に遊んだ子供らも、露骨に私を無視します。勉強会に行っても、誰も私を見ません。話しかけても、返事すらしてくれないのです。
父は長らく、水路の工事を仕事にしていました。それも失いました。村の外から呼び寄せられた作業員が水路の管理を行うようになり、仕事を奪われたのです。母の編んだ衣服も、服屋さんが買い取ってくれなくなりました。
わずか数日で、私達は村での居場所をなくしたのです。
村長の根回しは執拗でした。
たとえば……買い物に行ってみましょうか。
私が食料品店に入ると、店主がこちらを睨んで「今日はもう終わりだ」と言うのです。追い出された私の前で戸がぱしゃっと閉められました。肩を落として来た道を戻り始めると、背後で戸の滑る音が聞こえます。別のお客さんがやってきて、当たり前のように買い物をしているのです。
なんともあからさまではありませんか。
語り物の中で、こうして孤立する者のお話を読んだことがあります。まさか自分達家族がその当事者になろうとは、想像もしていませんでした。平穏と苦痛は、水の皮膜一枚を隔てて隣り合っているのだということを、嫌でも認識させられました。
ところで、この買い物の話は決定的な出来事になりました。
私が家に帰りますと、両親にひどく心配されました。涙を流しながら大笑いして戻ってきたせいでしょう。
事情を聞いた父は、壁に拳を叩きつけました。そして私のように笑いました。表面だけの笑いです。
「大丈夫だ。俺が全部なんとかするよ」
小さなつぶやきだったのに、やけにはっきり聞こえたように記憶しています。
そして翌朝……私が目覚めた時には、すべてが終わっていました。
村長は自宅近くの路傍で倒れて死んでいたそうです。上から押しつぶされて、ずいぶんと中身が飛び出していたとか。同じようにして、村長の家もぺしゃんこに潰されていたそうです。
父の復讐であることは明白でした。
しかし、私達への報復はありませんでした。
ここに至って、村長がなぜ村長の座を得られたのかがはっきりしたのです。
皆、何かしらの弱みを村長に握られていたのでした。ひとりで簡単に見渡せる程度の小さな村ですから、全員が縛り上げられていたも同然。ゆえに誰もが、うすうす、村長に消えてもらいたいと思っていたのです。
父はたちまち英雄扱いされるようになりました。
「あいつが腐らせた村を、もう一度立て直す」
父は宣言し、新たな村長の座に着きました。
改革は着々と進行していきました。すべて、私の知らないところで。
父の仕事だった水路の工事。それを任されていた村外の作業員集団は、街と村を結ぶ街道で崩落事故に遭って全員が死亡しました。
不幸な事故でした……表向きは。
実際は、父が先導し、村の若者が中心になって岩壁を崩したのです。村長の死を隠すには、外部の人間を排除することが重要でした。そのために彼らは殺されたのです。完全崩落までの時間差の計算が……奴らの逃げ場を完全に奪うために……そんな自慢話が、聞かずとも耳に入ってきたものです。
村長にこびへつらっていた者は、知らないうちに姿を見なくなりました。どうなったのかは、今も知りません。
例の、村長の息子さんも遺体で見つかりました。村長の家を片づけた時、中から出てきたのです。柱の下敷きになったまま息ができず、そのまま父親のあとを追った……。
村を立て直せば立て直すほど、私達の罪は重なっていきました。
それを誰かに打ち明けることもできず、私は、猛進する父の姿を遠く眺めることしかできなかったのです。
やがて村には学校が建ちました。
最初の教師は私です。父に頼まれ、引き受けてしまいました。
子供達の目はまっすぐです。
きらきらとした瞳が、いつだって私を責めているように映ります。
罪を抱えながら、私は子供達に正義を説く。
なんとむなしい行為でしょう。
そんなことを繰り返して、いつの間にか四年が経とうとしています。
もうこれ以上、子供達に言葉をかけることが、私にはできそうにありません。
私は今すぐ楽になりたい。
日に日に募った苦痛が、ようやく決心に結びつきました。
街に逃げることは、死よりも強い苦しみを私にもたらすことでしょう。
こうする以外に、道はないのです。
書きたいことはこれで全部書いたように思います。
願わくば、これを拾った貴方が
私は密かに、大地の上での生活に憧れていたのです。
海原の底は、あまりにも窮屈で、そして息苦しい。
これを読んでいる貴方に訊きたいものです。
土の上は温かいですか?
陽の光というものも、同じように温かいのですか?
一度はそちらで暮らしてみたかった。
人魚でありながら、満足に泳げないことを恥じなくてもよい世界。陽の光に満ちた、まぶしい世界。
けれど、やはり叶わぬ願いなのでしょうね。海蛇のようなこの半身では……。