第1話

文字数 1,998文字

「先輩、練習してきたよ。聴いて!」
 
 そう言いながらサークル棟にあるリコーダーアンサンブルサークルの部室にずかずかと入ってきた後輩君を、私は軽く無視する。
 
「いくよ!」
 
 このリコーダーアンサンブルをいかにもやりそうなサークルは、実質何の活動もしていない。
 二年前に私が入った時には、三人ほどリコーダー演奏に熱心な先輩がいたから、四人で楽しくアンサンブルをしていた。ファーストソプラノ、セカンドソプラノ、アルト、テナーの四本のリコーダーで、クラシックから流行のJポップまでさまざまな曲を演奏した。
 大学の音響の良い教室を無料で借りて演奏会もした。
 あの頃は楽しかった。
 そのリコーダー演奏ガチ勢以外のメンバーは、飲み会やテニスや旅行やら合コンやらと、それはそれでみんな充実したサークル活動をしていたらしいが、サークルクラッシャーな美女が現れて色々あったらしく全員辞めてしまったのだ。
 そして私の演奏仲間の先輩は卒業して、そんなサークルに新規加入する人がいるわけでもなく、私はひとりぼっちになってしまった。
 私は部室で一人、ケトルでお湯を沸かしインスタントコーヒーを飲みながら、大学の図書館で借りた小説を読む日々を送っていた。最近のマイブームは島崎藤村だ。
 パイプ椅子とガタガタのテーブルしかない部室だが、割とこののんびりした日々を気に入っていた。
 そんな中、「先輩久しぶり! 俺もリコーダーやってみたいから教えて」と、高校時代の文芸部の後輩君が新入生としてやってきたのだ。高校時代は先輩女子からモテモテの美少年だったのに、今は美青年になっているとか生意気だ。卒業式の日にラブレターを渡したが返事はなかった相手でもある。
 
 この田村亮平は、小学生の時に音楽で使って以来らしいリコーダーを一生懸命吹く。
 力任せの吹き方は直らないし、タンギングも甘すぎる。
 リコーダーなんて、タンギングをしながら吹くと音楽の授業で絶対に教わるはずなのに、この青年はタンギングの存在も知らなかった。田村君は英語学科なので、tの音だと説明すれば理解してもらえると思ったのにさっぱりわかってもらえていない。
 文芸部時代は綺麗な字で繊細な詩作を得意としていて、英語はペラペラ喋れるのに、小学生でもできる指遣いはぎこちないし、タンギングになると舌の動きが雑になるのは不思議だ。
 
「田村君、低い音を出す時にはもっとそっと息を入れるんだよ。それを意識するだけでもだいぶ違うから」
 
「頭ではわかってるんだけど、楽譜を意識するとできなくなっちゃうんだよね」
 
「あとは、タンギング。息をただふうふうって入れてるだけだと、音は出せても音色にならないから。リコーダーらしい音を出したいならタンギングは頑張ろう」
 
「はい!」
 
 いつも返事だけはいい。
 
「あとは、息継ぎ。ちゃんと息継ぎするところにはV字で印付けたでしょ? 息が続いたとしてもそこの場所で一旦ブレスを入れて。曲のフレーズを目立たせるために必要なことだから」
 
「はい!」
 
「あとはね、ロングトーン。伸ばす時に音程は一定にしないと駄目だから、息も一定じゃないとね。それに長さが雑だからもっと体でリズムを取って」
 
「ねえねえ先輩、アンサンブルしたい」
 
「うん。ちょっと歯磨きしてくるから練習してて」
 
「やったぁ!」
 
 この後輩は、海外の有名アニメ映画のヒロインとヒーローが二人で歌った曲を私と二人で演奏したいらしい。
 まあ、私もアンサンブルは好きだから付き合おうと思う。
 田村君はプラスチックのソプラノリコーダーでヒロインのパートを、私はバイトを頑張って買った木製のアルトリコーダーでヒーローパートをそれぞれ演奏した。
 リコーダーは楽しい。私の八万円もしたアルトちゃんは、今日も凛々しくて優しくて格好いい音をしてくれる。
 
「先輩、俺タンギング下手だよね。タンギングを教わるには、上手な人とのディープキスが一番だって読んだことあるんだけど」
 
「嘘だよ。どこの教本にそんなこと書いてあったの?」
 
「高校時代、先輩たちが回し読みしてた小説にあったじゃん」
 
「……あったね。うん」
 
 私の同級生が「エロくていいよ」とみんなに貸してくれたオーケストラ団員たちの恋愛小説だ。すべてをエロに絡めてくる意欲作だった。私も読んだ。面白かったし自分用にも買った。
 
「だから先輩、俺にタンギング教えて! 手紙もらってから毎日先輩のこと考えて、同じ大学まで来ちゃったんだよ!」
 
「も、もっとリコーダー上手になったらね」
 
「約束だよ!」
 
 今年の学園祭は、二人でアンサンブルできたら嬉しい。
 その頃にはタンギングも上手くなっているだろうか。
 この後輩君のせいで、タンギングについて考えるとキスを連想して顔が熱くなってきてしまう。
 私は濃いめのコーヒーを飲んでそんな気持ちを誤魔化しながら、後輩君に指導をするのだ。
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