君臣の絆

文字数 1,369文字

 銃弾を受けた右腕を庇いながら、信長が本能寺の地下道に降りてくるのを、森蘭丸は物陰からじっと見守っていた。
 信長は歩き出そうとして、不意に蘭丸のいる場所に目を向けてきた。
「蘭丸か」
 蘭丸は無言で物陰から出る。そのまま信長に、手にした短刀で突きかかろうとするが、それを信長の声に制された。
「わしを殺しに来たか」
「な」
 なぜそれを。
 言葉を失う蘭丸に、信長は皮肉げな笑みを浮かべて、
「此度の光秀の裏切り、お主と共謀したものであろう?」
 今度こそ、蘭丸は完全に言葉を失った。
 そんな彼を見て、信長の目に、憐れむような光が宿る。
「目的は、土岐家の再興か」
「……その通りです」
 これ以上は誤魔化しようもない。いや、誤魔化す必要などなかった。
 もともと、蘭丸の父の森可成は清和源氏の一流である土岐家に仕えていた。土岐氏の支流である明智光秀と繋がりを持つことに、なんら不思議はない。事実、蘭丸も、信長暗殺の密命を帯びて、信長の近習として仕えてきたのだ。
 それら全てを、信長は知っている。彼の目が、そう語っていた。
「どうした、わしを殺さぬのか」
「……分からぬのです」
 蘭丸の口から、自分でも思いもよらぬ言葉が漏れた。
「いまここで、あなたを殺すことが、本当にこの国のためになるのか。土岐家を再興することに、意味などあるのか」
「意味などなかろう」
 信長はそう断言した。
「意味などない……だが、意味のないことに命をかけるのが人間というものでもある」
 そう語る彼の目はどこか虚ろだ。
 銃弾による傷からの失血。
 もうすぐ信長は死のうとしている。
「殿」
「もうわしは助からん」
 きっぱりと。
 信長はそう言った。
「だが、誰に撃たれたのか分からぬ傷で逝くのは、ちと癪じゃ」
 ふ、と、また皮肉げな笑みを浮かべる信長。その皮肉は誰に向けられたものか。
「蘭丸。介錯を頼めるか」
 その言葉に、蘭丸は身体が震え出すのを抑えることができなかった。
「殿」
「阿呆が。泣くではない」
 いつ間にか、蘭丸は涙を流していた。
「この信長を殺すは森蘭丸。誰に殺されるか、なぜ殺されるか理解して死ぬることこそ贅沢よ。この戦乱の世ではな」
 蘭丸は涙を拭いた。
 そして、短刀の切っ先を信長に据える。
 信長が小さくうなずいた。
 蘭丸は、そのまま彼の心の臓を突いた。


 信長の死に顔は、ひどく安らかなものだった。
 こんなに安らかな表情ができる人だったのか、と蘭丸は思う。生前、信長はいつも険しい顔をしていたから。
 蘭丸はゆっくりと立ち上がる。
「父上、光秀さま、この蘭丸、信長を討ち取りましてございます」
 そう言いながらも、蘭丸の表情には影が差している。
 空虚。
 いま、蘭丸が感じていたのは、それだった。
 物心着く前から武術や勉学に勤しんできた。全ては信長の傍に仕え、彼を殺すため。その目的が達成されたいま、自分には何もないのだと思った。
 いや、ただ一つだけ。
 蘭丸は信長の遺体を見つめる。
『意味のないことに命をかけるのが人間というものでもある』
 意味などない。
 それが許されることかどうかも分からない。
 けれど。
「殿」
 自分の気持ちを確かめるように、蘭丸は言の葉を舌に乗せる。
「この蘭丸、最期は殿の近習として死にとうございます」
 そして、信長の遺体から視線を切ると、ゆっくりと地下道を昇っていった。
 本能寺へと。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み