第1話 滅亡後
文字数 2,793文字
宋弘の父・宋尚は優秀な官吏だった。
前漢・成帝の御代(紀元前33~前7年)では少府(税と皇室雑務を担当する官職)の重職に任じられていたほどで、これほどの高位にあるからには官吏というより政治家と称した方が正しいかもしれない。
だが宋尚の真価は高職に就いても清廉さを失わなかったことにある。成帝の次に皇位に就いた哀帝は男色家とされ、董賢という男を寵愛した。その寵愛は董賢の権勢を増大させたが、宋尚は罪を得ても彼におもねることはなかった。
この後、宋尚がどうなったかはわからない。
だが彼の息子の宋弘が父に連坐されず公職に就き続けていることから見ても、また罪状そのものが言いがかりに近いものであることからも、重罰を課せられたわけではないだろう。
宋弘はそんな父を尊敬していた。宋弘の年齢ははっきりしないが、父が仕えた哀帝の時代、息子の彼もすでに侍中になっており、次の平帝の御代でも同様の地位だったところを見ると、優秀な若手選良ともいうべき二十代から三十代あたりだったのではないか。
宋弘は育ちの良さもあり、性格は温順で人当たりも柔らかく優しかった。そのような彼と交友したいと望む者も多く、自然、宋弘は広範な人脈を得ることになった。だが収入の大半を他者に分け与え、自らは清貧に甘んじるような宋弘である。自らの栄達のためにその人脈を利用することはなかった。
が、宋弘は優しいだけの男ではない。謹格な父と、その父が作った家風の家に生まれ育ち、またそのような父を心から尊敬していた男である。その心性には激越がひそんでおり、むしろそちらの性情が彼の本質といえた。
そのことを証明する機会は早晩訪れる。
宋弘が仕える帝国、漢(前漢)が亡んだのだ。
外敵に亡ぼされたわけではない。
重臣の一人である王莽という男に簒奪されたのである。
王莽は皇帝となり、自らの帝国を新と名づけた。
この大事件は宋弘にも強い衝撃を与えた。
が、だからといって明確に王莽に逆らうわけにもいかない。彼にはすでに妻もあり、家人(家来)も多数抱えている。彼らを路頭に迷わせるわけにはいかなかったのだ。
心中に渦巻くような不満と憤りを覚えながらも、宋弘は漢から新へ仕える相手を変えざるを得なかった。
新において宋弘は不遇だったわけではない。むしろ厚遇されていたというべきだろう。
彼は王莽によって共工に任じられている。共工とは前漢における少府にあたり、宋弘の父・宋尚も務めた重職である。王莽は優秀な人材を遇する術も心得ていたのだ。
しかし王莽に政の才はなかった。いや王朝を簒奪したほどの男に政の才がないはずはないのだが、彼は理想に走りすぎた。
皇帝である以上に儒者であった王莽は、儒家の理想の国家を創ろうとしたのだ。
だがそれは様々な煩雑と現実無視をともない、新の国内を急速に乱していった。
そして天鳳五年(西暦18)、赤眉と呼ばれる叛乱勢力の蜂起を皮切りに、各地で叛旗が翻り、新は崩壊。
地皇四年(西暦23)、王莽は殺され、新は滅亡する。
だがそれは国内の平安を呼び戻さず、それどころかさらなる争乱の契機にしかならなかった。
各地で蜂起した叛乱勢力同士の争いが巻き起こり、中華は明確に乱世の時代に突入してしまったのだ。
王莽が滅んだ後、帝都・長安へ乗り込んできたのは漢の皇帝だった。
亡びた前漢のではない。漢の再興を宣言した自称皇帝の劉玄である。
歴史上更始帝と呼ばれる劉玄は、だからといって帝位に座る資格がないわけではなかった。
彼は確かに漢帝一族である劉氏の一人だったが、初代皇帝・劉邦が漢王朝を開いてからすでに二百年。その間に劉氏を持つ者は数え切れないほど増え、市井の民と同様の暮らしをする劉氏も珍しくなかったのだ。劉玄もそのような劉氏の一人である。
だがこのような時勢ともなれば、「漢王朝再興」は挙兵における大義名分の最たるものとして使える。この名分を真っ先に活用したのが更始帝と、彼を擁する緑林・新市・下江などの叛乱勢力だったのだ。
真っ先にと記したように、この後、様々な劉氏が「漢帝」の名乗りを上げることとなる。長安を手にした以上、現状最も先んじているのは更始帝であるが、彼とていまだ最終勝者ではない。
この更始帝政権に、宋弘を含めた新の遺臣も臣従することとなった。というより前漢滅亡からほぼ自動的に新の廷臣として仕えることになった漢の官吏が、今度はこれも自動的に更始帝政権に仕えることになったというのが正しいだろう。前漢であろうと新であろうと更始帝政権であろうと、役人がいなければ朝廷の経営はできないのだ。
その百官たちも一心というわけではない。王莽の簒奪に憤りを覚えていた者は多く、漢の再興も喜ばしいことに違いないが、劉玄はいくら劉氏の末裔とはいえ傍流も傍流である。
それでも劉玄が英邁な君主であれば彼らも納得し、喜んで心服できたかもしれないが、劉玄の性は愚昧だった。彼は緑林を中心とした叛乱勢力が自らの権勢を正当化するために担ぎ上げた傀儡に過ぎず、それは彼らの長安入城とほぼ同時に明らかとなり、百官の失望を買った。
失望は宋弘も同様である。
史書に明記されてはいないが、宋弘は少府のまま更始帝に仕えることになったであろう。だが更始帝と彼の側近(叛乱勢力の頭目)に政の定見などあるはずもなく、このような乱世のどさくさでなければ得られない、夢のような宮廷生活を送り続けるのみである。それはただの乱脈統治であり、王莽の時代の方がはるかにましだと思えるほどだった。
長安やその周辺は更始帝たちに強掠され、みるみる荒廃してゆく。
「やりきれぬ」
宋弘は更始帝への諫言を幾度も試みたが、側近たちに遮られてかなわず、自宅で妻に苦衷を漏らすことしかできなかった。
宋弘たち百官は更始帝や彼の側近に深く失望したが、その時間は長くはなかった。
長安へ赤眉が乗り込んできたのである。
赤眉はこの乱世の幕を開いた最初期の叛乱勢力で、それゆえ規模も最大級であった。彼らも一応は漢(更始帝)に臣従する形を取っていたのだが、更始帝の乱脈統治に業を煮やし、自らが天下を握るため、長安へ侵攻してきたのである。
多勢に無勢、更始帝は殺され、赤眉は新たな長安の主となった。
だが彼らが天下を欲したのは万民のためではない。更始政権同様、彼らもまた傀儡皇帝・劉盆子を立て、自らの欲望を満たすため長安を強掠しはじめたのだ。
いや、それは更始政権以上の強掠、暴掠だったかもしれない。更始帝たちはそれでもまだ皇帝や朝廷としての形を取り繕おうとしていたのだが、赤眉にはそれすらなかった。皇帝として劉盆子を立てている以上最初はその意思はあったのかもしれないが、帝都のきらびやかさは彼らから理性の箍をはずさせた。
長安は宮廷も民も等しく赤眉に食い荒らされていった。
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