第1話

文字数 3,672文字

 午前中が僕の人生から無くなって一週間と少し。太陽の出ている間は身体が重くて重くて仕方ない。
 ようやく何かしようと思う頃には日が傾いていて、燃えるような夕暮れか静かな闇か。それ以外の空の色をうまく思い出せないでいた。
 子供たちが疲れを見せることなくボール片手に通り過ぎていく。知り合いかもしれないとちょっと顔を固くした。そんな年じゃないってわかっているのに。きっと僕のなかにあるなにかはまだ小学生のままなんだろう。
 背伸びして吸っているタバコは美味しくない。それがちょっとだけ悲しい。
 別に外に出られないってわけじゃない。別にみんなが嫌いってわけじゃない。それでもこんな煙みたいに消えていってほしい。
 死ね。
 そう呟いてみるけど僕の心にしっくりこない。嫌いのほうがまだしっくりきた。
「煙じゃない」
 この通りは少し騒がしい。車通りは少ないけれど子供たちがよく通る。公園が近くにあるからだろうか。小学生から中学生。高校生も時々。不思議なのは大人がほとんど通らない事。
「私は煙じゃない」
「もっと派手に。もっともっときれいさっぱり。気分爽快に」
「でも血はなんか気持ち悪いから、見たくない」
「だから私が食べる」
「みんなみんな食べつくす。一口大きく丸呑み。悪くないでしょう」
 目の前の少女は僕の心が読めるみたい。ただ真剣な顔で僕に向かって言葉を紡ぐ。
「じゃあ明日は月に行くから迎えに来るね。お望みの通り午前中に」
「月って昼間どこにあるんだろ。楽しみだね」
 彼女はそう言って笑った。

 数ある思い出の中からピックアップすべきことは何だろう。僕の人生で特筆すべきものは何だろう。何にもない。悲しい。
 そうやって毎日を過ごしている。そうやって毎日を過ごしていた。
 窓が割れる音がした。石が投げ込まれたんだ。
僕はちょっと怖くなって外を見ると、そこには彼女がいて、僕に向かって大きく手を振っていた。
「月に行くよ。迎えに来た」
 彼女は大声を出していて、それでも叫んでいるようには聞こえなくて、むしろ囁いているようで。僕は気が付いたらベッドから出ていた。いつぶりだろう。眠れない明るい夜がずっと続いていたから、こんな空のもとでベッドから出ていることも新鮮だ。
 青空は思っていたより優しかった。僕は彼女に手を引かれて、何となく強く握り返せないけれど、今ならどこにだって行ける。なんて思えたらな、って思えた。
 歩くのは苦手だった
 正確に言うならばただ歩くことが苦手だった。体力もないのだけれど、それよりも集中することが苦手だった。手持無沙汰だっていうのに見慣れた道に見慣れた信号、日常に劇的なものなんてひとつもない。退屈で退屈で、反面退屈としか思えない自分が嫌だった。
 反復と努力。それは僕の嫌いな言葉で、そんな僕が僕は嫌いだった。
「一番最初に月が出てくるのは海だから海に行く!」
 海は広い。音がする。においがする。足裏の感触が少し変わって、不規則な波は干渉しあって混ざり合って打ち消しあって。でもその本質は結局海っていう一つの個体の変化に過ぎなくて、巨大な生物の腸内環境みたいなどうでもよさも感じてしまった。
「月を引っ張り出すためにいろいろ持ってきたの」
 クラッカーとかシャボン玉。花火だとかお肉やお酒、最後に釣り竿。
「太陽は宴をすれば出てくるならきっと月だってさ」
 彼女はクラッカーの紐を恐る恐る引っ張った。思っていたより軽い音と少しの煙。楽しい時に楽しいと口に出したくなるのは何でだろうか。僕はぼんやり立ち尽くしたままに思っていた。トンビは啼く。僕に才能があれば何か読み取れたのかもしれないけれど、所詮は鳥類で無機物と同じ。
 それは僕も同じなのかもしれない。
 彼女はお酒を開けて、何となく僕も飲んだ。ビールだった。しゅわしゅわする炭酸は何も教えてくれない。ただその音はやけに大きく聞こえて、きっとこの場で唯一の僕だけのものだった。
「月、出てこないね」
 彼女はスーパーで値引きされていた豚バラ肉を放り投げた。砂浜にポツンと、もともとそこにあったみたいなそれを、海が手を伸ばして食べてしまった。彼女は笑った。
 僕はポケットに入っていたタバコを思い出して放り投げた。海には好き嫌いがないようで、すっかり平らげてくれた。好き嫌いがないなんて、それを優しいだなんて形容したくない。母なる海なんて全くの嘘だと思った。けれど、嫌いばっかりの僕よりも海は絶対的に優しい。肯定もしなければ否定もしない海は、間違いなく優しい。
「うーん。出てこないね。ホントはこんな手段使いたくなかったんだけど」
 彼女は釣り竿に生肉をぶら下げると海に放り投げた。ややすると竿が強くしなり始めて、やがて月が釣りあがった。
 月は不機嫌そうな顔をしていた。なんだか謝らなきゃって思ったけれど、彼女なんにも気にしていないような表情でお酒を勧めて。
 それでも嫌そうな顔をしている月は彼女の顔を見て、ふてぶてしく言った。
「申し訳ないけれどね、今日僕は見ての通り満月の直前でね。あまり良い気分ではないんだ」
 確かに彼はよく見ると真ん丸ではなくて、それは言われて初めて気づくようなものであったけれども、言われてしまえば確かに欠けていて、彼の気分が悪い理由は痛いほどにわかった。
「でも私満月のほうがあんまり見ないよ」
「そりゃ僕が満月でいられる時間は限られているからね」
「ううん。なんていうか、いつもそんな形の貴方ばかり見るの。昨日満月だったねとか、明日満月なんだって、そんなこと聞いた日に決まって空を見るの」
「……それは、何というか残念だよ」
「残念じゃないよ。私にとっての月はずーーーっと満月じゃなくて、だからそれを想えるの」
「……僕は満月にならないほうがいいのかい?」
「知らないよ。いいも悪いも決めるのは貴方でしょ。私の良いは満月じゃない貴方。貴方の良いなんて興味ないの」
「無責任じゃないかい。それは。僕にさんざんどうたらこうたら言っておいて。というより、まずなんだい釣り竿で僕を釣るっていうの……」
「うるさい」
 彼女は月を思いっきり蹴り飛ばして、絶命させた。飛び散った破片のいくつかを、海は相も変わらずむしゃむしゃ食べる。
 僕はなんだか可笑しくなってしまって、持っていた缶ビールを一気に飲んで、それから海にばらまいた。陽気な気分だった。海も何もかもにも酔っぱらってほしくなった。
「花火しよう」
 彼女は月のコトなんて何もなかったかのように花火に火をつけた。火花は勢いよく噴射されて、これでどこにも飛んでいけないなんて嘘だと思った。
 月が死んじゃったから太陽はまだ沈めないのだろうか。オレンジ色の光は強い影を作って、それを精一杯傷つける火花はなんだか愛おしくて、僕は死んだあとは火葬がいいなって思った。
「いいねそれ」
 彼女は僕の目を見て、
「次は火葬されに行こう!」
 明るく言ったんだ。
 彼女の車の運転はなんというか信じられないもので、寝転がって前が見えているんだかいないんだかわからないような体勢で、僕は少しひやひやした。流している音楽の歌詞はうまく聞き取れなかったけれど、ブレーキランプの赤色。テールランプの赤色。あの鋭さが僕は好きだった。幼いころ母親の車の助手席から見た景色、窓に反射する僕はあの頃の僕の表情とはかけ離れているけれど、どうしてだろうか、あの頃の僕の憂鬱と今の僕の憂鬱が重なって見えた。
 例えば今彼女が人を何人か轢き殺していたとして、それに僕が気づいていなかったとして、その時僕はどんな感情になるのだろうか。子供のころからそんなことを考えていた気がする。肉感のある太ももが千切れて窓に張り付いて。やがて首のない胴体も。そんな時僕はきっとドアを開けて、その太ももにむしゃぶりついて、それから涙を流して懺悔する。
 それでも僕はこの世を生きる誰もかれもが死んでしまえばいいと思う。死ねなんて強い言葉は使えないけれど。
 サイレンの音とテールランプよりも眩い赤の光は炎みたいで、僕は彼女の隣。瞳を閉じた彼女とそれでも目があった気がした。
「死ぬのは怖い?」
 僕は答えられない。
 怖い。でも怖くない。それでいて死にたくない。だけれども消えてなくなってしまいたい。忘れられたくないのに、痕跡は何一つ残ってほしくはない。無かったことにしてほしい。
「焼かれることそのものに恐怖はないの?」
 痛いのは嫌いで好き。痛みは考える隙間を与えない。僕が僕でいなくてもいい。考えたくないんだ。いつだって僕は目に見えない誰かを気にしていて、僕が僕がって。そんなことからもう解き放たれたい。そんな気持ちが確かにあるから。僕が何かをしたとき決まってそれを醜悪だと思う誰かを、痛みは黙らせてくれる。
「嘘つき」
 彼女がそう言った瞬間、真っ暗な世界を赤色が苛烈にぶち壊す。彼女の息は落ち着いていて、その胸の上下運動は綺麗で、僕は自分の身体が硬直していることに気づいて、身を捩って、悶えて、浅くなる呼吸にそれでも醜悪さを感じて。
もう、みんな死んでしまえ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み