第1話

文字数 1,786文字

 駅ビルの地下のスーパーに派遣された。いつも調子のいいことばかり言う派遣会社の担当者に「誰でもできるから大丈夫」と、行くことが決まっていたみたいに仕事を紹介されて、翌日にすぐ勤務となった。レジには常時4名ほどいて、ベテランさんが一番後ろのレジ担当。前方のレジで何かお客さんとトラブルがあったときに、後ろからだと気づきやすいからだろうか。私も最初の頃は対応に困って後ろを振り返ると、ベテランさんはすぐそばまで来ていて、素早く対応すると、また一番後ろのレジに戻っていった。
スーパーは駅ビルの中にあり、電車の時間が迫っているのか明らかに慌てている人もいて、気を使ってレシートを渡すやりとりを端折ったときに限って、「レシート欲しいんだけど」と言われる。お茶代くらいレシートなしでもどうにかなるだろうと、心の中で悪態をつく。一見品が良さそうな、ブランドものか何か大層なもので身をかためた“おばさま”もスーパーに来るのだが「普段はスーパーじゃなく高島屋なんだけどね」と、来店の度に私に向かって言いながら、週二日は私のレジを通っていく。別に高島屋だろうがスーパーだろうがいいし、金持ちでもそうでなくても買いたいお店に来たらいい。そして“おばさま”の聞いてもないのに言ってくる言い訳も一緒に買い物袋に詰めて持って帰ってもらえたらそれでいい。
私の勤務の時間帯は夕方で仕事帰りの人が多い。仕事で疲れた顔で、目に気力はなく、目の前の私がロボットでも気づかないんじゃないかと思うくらい、一瞬もこちらを見ることなく、終始お金のやり取りで終わる。生気のない人たちが目の前を通過していくと、私の生気まで奪われそうで、私の体がドーナツみたいに体の真ん中に穴が開くように擦り切れたような気持ちになっていった。
学習教材の電話オペレーター、不動産会社のデータ入力とか、大学中退後から定職に就かず、ぶらぶら派遣の仕事で生活してきた。親も心配してるだろうけど、特に何も言わず自由にさせてくれている。定職に就けばいいし、20代後半の私にはまだまだチャンスはあるだろうけど、定職に就いたら趣味の音楽が自由にできなくなるのではと思っていた。だからと言って、プロのミュージシャンになりたい訳ではなかった。ただなんとなくいつでも身軽に動けるようにしておきたかった。
派遣はやはり即戦力として働けるほど重宝されて、私はわりとどんな仕事や環境でも順応しやすく、自分で言うのもあれだけど、どんな仕事で割と卒なくこなせるタイプだった。行った先で「山下さんは仕事が早いね、助かるよ」なんて言われるのは朝飯前で、派遣でなく直接雇用したいなんて話もよくもらっていた。一瞬気持ちがなびくのだが「音楽をしたいので」と、そんなありがたい話も断ってきた。どんな仕事でもこなせるのだと少しいい気になっていた。
思い返せばそうだった。小学生のころから九九はクラスで一番に暗唱し、学級委員にも何度も選ばれた。クラスは各学年に1クラスしかない小さな学校で、自分は何でもできると思ったまま大人になってしまった。でも本当は何でもできると思っていたいだけで、定職に就かないことだって、自分に都合がよいことを見ていたいだけだった。本当のところ定職に就かない理由はなかった。
労働は対価としてお金をもらうが、その代わり自分の時間と命をすり減らすことになる。知らない人たちの疲れ切った顔を見ながらレジを打つ仕事を定職に、天職にしている人だっているが、私はどうなりたいのか、どこに行きたいのか分からなかった。そんな時に出会ったのが、音楽仲間のアキラだった。人と関わるのがいかにも苦手そうなアキラは、仕事帰りで仕事着なのか、ライブハウスにはよくベージュのチノパンで来ていた。掃除の仕事か何かなのかと思って聞くと思いがけず「介護の仕事」だと言われた。
人と関わるのが苦手そうなアキラがどんなに笑顔を作って、利用者と関わっているのか想像できなかったが、仕事のことを話すアキラはいつも以上に真面目な顔で、テンションこそ高くはないが、熱のこもった話をしてくれた。誰かのために頑張る姿を想像すると、私まで熱い気持ちになった。定職に就くために転職活動をしながら、レジを打つ私に唯一目を向けてくれる“おばさま”に寛容な気持ちで接することを目標に、もうしばらくレジの仕事を続けてみようと思った。
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