第1話

文字数 6,627文字

「みんなももう知ってのとおり、今朝廊下の窓ガラスが割れていました。窓ガラスが勝手に割れることはないので、誰かが割ったのでしょう。今日のうちに名乗り出た人はいませんでした。みんなの中にはいないと思いますが、こんなことは絶対にしないように」

 誰と誰が付合っているかなんてどうだっていい。そんな話に興味はないし、耳に入って来て欲しくもない。それを知って何になるというのか。知らなくて何が困るというのか。
休み時間は机に突っ伏して窓の外を見ているだけで、誰かと話をすることもない。教室の中から見える外の世界は紙粘土で作られた模型のようで、学校と一続きの世界とは思えない。それでもそこには人々の生活があり、ここを飛び出してその中に飛び込みたい衝動にかられることがある。母親がベビーカーを押して歩き、宅配のトラックが走り、家のカーテンが開け閉めされ、鳥が空を飛んでいる。学校には生活がない。

「では、ホームルームを終わります」

 カバンを持って教室を出る。部活も休みだ。自転車に乗って家に帰るだけだ。下駄箱で靴を履き替えて駐輪場へ向かう。下駄箱。下駄箱特有の匂いが漂う、いつもと何も変わらない下駄箱だ。
 窓ガラスが割れていたのは知っている。廊下を歩けば嫌でも気がつく。知りたいとか知りたくないとかそんな私の意志とは無関係に目に入ってくる。誰かが割ったのだろう。何のためにそんなことをするのか、窓ガラスを割って自由にでもなりたかったのだろうか。迷惑な奴だ。そんな歌詞の歌があったけど、そんな歌に心酔した世代がいるなんてどうかしていると思う。
 学校の外に出ると、そこは紙粘土のように乾いてはいなかった。空気は澄み切ってこそいないが学校の中よりかはましだ。振り返って校舎を見ると、捏ねても捏ねても形を変えることのない強固な鉄の塊のように見えた。
 家に着いてポストを見ると一通の封筒が入っていた。自分宛のものだった。部屋に入って鞄を放り投げ、制服のまま封筒を開けた。

新アイドルグループ結成オーディション最終審査進出のお知らせ

 二か月前、学校から帰ると、ポストに一通の封筒が入っていた。それは私宛のものだったが心当たりはなかった。中を開けて確認すると、そこには「新アイドルグループ結成オーディション一次審査通過のお知らせ」と書かれた一枚の紙が入っていた。何のことかさっぱり分からなかった。封筒の宛先は確かに私の名前で住所も合っていた。何度見ても私の名前で私の家の住所で、「新アイドルグループ結成オーディション一次審査通過のお知らせ」と書かれていた。状況が読み込めないままその紙をじっと眺めた。こんなものに応募した覚えはないし、そもそもオーディションの存在すら知らなかった。アイドルに興味もない。私がアイドル?まさか。そう思うと不思議さを通り越してなんだかおかしくなってきた。何かの間違いかいたずらだろうと思いネットで調べてみると、そのオーディションは実在するものだということがわかった。それがわかると途端に怖くなってきてゴミ箱に捨てた。次の日、学校から帰ると捨てたはずの封筒が机の上におかれていた。もちろん封筒が勝手に移動するはずがない。部屋の掃除に入った母親がそれを見つけ出して机の上に置いたのだ。
「あんた知らない間にこんなことしてたのね。どうして捨てたの?せっかく受かったんだからやってみればいいのに」
「勝手に入らないでって言ってるでしょ」と言い返しただけで、身に覚えがないものだと言い出すことはできなかった。
 私はもう一度その封筒を手にとって中の紙を見た。一次審査通過のお知らせと書かれている。「通過」という言葉に引っ掛かった。大前提として応募していないのだけど、審査のお知らせだったらまだ分かるのだが、「通過」したとはどういうことなのだろうか。審査なんてもちろん受けていない。やっぱり何かの間違いだと思いつつ、もう一度ネットでオーディションのことを調べてみると、一次審査は書類選考だと記されていた。私はため息をついた。
 一週間後、二次審査の案内が送られてきた。どうしたらいいのだろうと思った。どうしたらいいかなんて考える必要はなかった。応募していないのだからそのまま無視して過ごせばいいだけのことだった。なかったことにすればいい。いや、そもそも本当にないことなのだ。でも私はその案内を捨てることができなかった。机の引出しにしまってはとりだしてを毎日のように繰り返し、何度も何度もその案内を見た。ネットで様々なアイドルのことを調べ、ユーチューブでいろんな動画を観た。こんなにたくさんのアイドルがいるなんて知らなかった。乃木坂とか欅坂とか名前だけは知っていたグループの歌をあらためて聴いて、そのかわいさとカッコよさに衝撃を受けた。彼女たちに交じってステージに立つ自分の姿を想像してみた。そんなことをしている自分が馬鹿馬鹿しいと思いながらも高揚する自分を抑えることができなかった。
 二次審査を受けた。ビデオ通話による面接だった。やましい気持ちが表情に出ていたのだと思う。「そんなに不安がらなくていい」と何度も言われた。私は「はい」しか言えなかった。「どうしてアイドルになりたいのか」と聞かれて「アイドルになりたいわけじゃない」と答えた。続きの言葉は出て来なかった。「応募した動機は何か」と聞かれていたら私は何と答えただろうか。「応募していない」と言っただろうか。あるいはそう言いたかったのかもしれない。そう言うために、この審査を受けたのだと自分に言い聞かせたかった。これは何かの間違いで、私にはそんな資格はないと。でもその質問が投げかけられることはなかった。なぜだか、いつも、待っている言葉は来ない。

 オーディションのことなんて忘れていた。二次審査の後、一カ月以上何の音沙汰もなかったし、ネットで調べることもユーチューブで動画を観ることもしなくなっていた。もともとなかったものがちゃんと無くなった生活に戻っていた。
 そうか、私は二次審査を受けたのだった。応募していないオーディションの二次審査を受けたのだった。そして、最終審査進出のお知らせが届いた。紙を封筒に戻して机の引出しにしまった。
制服を着替えてハンガーにかけ、カーテンを開けて窓も開けた。キッチンに行って冷蔵庫からお茶を取り出し、リビングのソファに座ってテレビをつけた。17時まで情報番組を見て部屋に戻って宿題を始めた。古語辞典で調べながら『竹取物語』を訳し、数学の二次関数を解いた。英単語帳を一ページ紙に書きながら暗記した。宿題を終えてからなんとなく世界史の便覧を取り出して眺めた。ジャヤバルマン2世がアンコール朝を築いたと書いてあった。
 引き出しから封筒をとりだしてもう一度紙を眺めた。最終審査進出のお知らせと書いてある。息を吐きかけても文字は消えないし、電気に透かして見ても別の文字が浮き上がってくることもない。偽物である証拠がどこにもない。
紙を机の上に放り出して、ベッドに横たわった。スマホの電源を切って画面を下向きに枕の下に入れた。仰向けに体の向きを変え天井を見た。天井はただの天井で何も言ってくれない。寝てしまえ、と思った。
 朝起きると消えてなくなっているだろうと思ったがそれは机の上にあった。紙を封筒にしまいカバンの中に入れて学校に行った。休み時間ごとにそれを取り出して眺めた。気づけばもう帰りのホームルームの時間だった。隣の席の子に何見てるのと聞かれて慌てて机の引き出しにしまった。
「今日ずっとその紙見てるよね?」
「なんでもない」
 こんな時相談する友達もいないのかと思うとなんだかむなしい気持ちになった。部活に行く気になれず、体調が悪いと嘘をついて休んだ。まっすぐ家に帰る気にもなれず、学校の近くの公園に寄ってベンチに座っていた。ただただ野良猫を眺めていたらいつの間にか辺りは暗くなっていた。家に帰って封筒を取り出そうとしたとき、教室の机の中に入れたままであることに気がついた。誰かに見られたらどうしようと不安になり、自転車を飛ばして学校に向かった。9時近くになっていたけど、門は開いていた。校舎は消灯されていて誰の姿も見えない。下駄箱が施錠されておらずそこから校舎に入ることができた。
 二階の教室に向かうため階段を上がる。中二階に差し掛かったその時、何かが割れる大きな音がした。窓ガラスだと一瞬で直感した。大きく一回、そしてもう一回。足を止めて立ち止った。足がすくんで動かない。呼吸が乱れて鼓動が速くなるのを感じる。落ち着けと自分に言い聞かせる。意識的にゆっくりゆっくり呼吸する。数秒待った。もう音はしない。足も動きそうだ。恐る恐るゆっくりと階段を上がって廊下に出た。
 そこにいたのは隣のクラスの男子生徒だった。名前は分からない。話したこともない。でも確かに隣のクラスの生徒であることは間違いない。遠くからでも窓ガラスが割れているのが分かる。彼はその前に立って割れた窓ガラスをじっと見ている。私がいることに気づいたが慌てる様子はなく、ちらとこちらに振り向いただけで何も言わない。近づきすぎないように震える脚でゆっくりと歩く。
「忘れものを取りに来た」と彼は言った。「アンコール朝を築いたのが誰だったか思い出せなくて。便覧で調べようと思ったけど学校に置いたままで、ネットは絶対に使いたくなくて、どうしても知りたかったから便覧をとりに来た。階段を上がる時に大きな音が聞こえて、来てみたら割れてた」
「あなたが割ったんじゃないの?」と恐る恐る訊いた。
「まさか。どうしてそんなことしないといけない」と平坦な調子で返って来た。「君の方こそ何をしてるの?」
「私も忘れ物を取りに来た」
「誰が割ったんだろう」と彼は言った。「俺が割ったと思ってるんだろうけど俺じゃない。そして俺は割った人を見ていない。君は向こうから上がって来て俺はそっちから上がってきた。でもお互いに見ていない。ということは、割った奴はまだここにいる」
「勝手に割れた」と私は言った。
「それはない。でもどっちでもいい。勝手に割れようが、誰かが割ろうが。どう割れようが誰が割ろうがそんなことはどうだっていい」
一呼吸おいてから「何がしたかったんだろう」と彼は言った。「分からない」と私は答えた。「でも絶対に間違ってる」
「どんな理由があっても?」と彼は聞いた。
「どんな理由があっても、どんな意味があってもやっちゃいけないことはやっちゃいけない」
「どうしても割らなければいけない必要があっても?例えばこの空間に閉じ込められてここを割る以外に外に出る方法がない場合でも」
「それは話が別。同じこととして扱っちゃいけない」
「たしかに別の話だ。でも例えば、むしゃくしゃしたから割ったというのと、息苦しさから少しでも逃れるために割ったというのとでは大義名分としての濃淡に違いある。割ることが許されないとしても許されなさに程度差がある」
「だから割ってもいいって?」
「そうじゃない。意味が助けになってくれることだってあるはずなんだよ。無意味を飲み込んでしまうと全てが終わりになることだってある」
 一瞬彼が何を言っているのか分からなかったが、はっとして、割れた窓ガラスの前に駆け寄って覗き込んで下を見た。誰の姿もなかった。もしかしたら割った人が下に落ちたのかもしれない、あるいは飛び降りたのかもしれないと思った。腰が抜けて座りこんだ。硝子の破片で膝と手の平を切った。
「忘れものって何?とってきてあげる。動けないだろ」
「いい、大丈夫。見られたくないものだから」
「最終審査のお知らせの封筒とか」と彼が言った。私は言葉が出ず、彼を見た。涼しい顔をしている
「そうなんだね」と彼は言った。私はまだ何も言えなかった。手の平にジワリと血の温かさを感じた。
「それは俺が送ったものだ。そろそろ最終審査の頃じゃないかと思っていたけど、そこまで進んでたんだ」
 立ち上がろうとしたけど無理だった。「どうして?」がやっと出てきた言葉だった。彼は教室から椅子を持ってきて私を起こして座らせ、ハンカチを持っているかと聞いた。ポケットからハンカチを出して渡すと、それを水道で濡らして私の傷の手当てをした。
「誰でもよかったわけじゃない。君なら受かるんじゃないかと思って勝手に応募した」
「何で?何で私なの?何でそんなことしたの」
「君の考えで言うと、もし俺のしたことがやっちゃいけないことだったなら、理由はどうだっていい」
「そんなことどうだっていいから、何でか言って」
「どこか悲しそうな感じがしたから。顔を見かける程度にしか君のことは知らないけど、見かけるたびにいつもどこか物悲しそうで、よく分からない何かを抱えている。その悲壮感がアイドルと符号した。そういう人がなるべきなんだよ」
「私が悲しそうだからアイドルのオーディションに応募した?勝手なことしないでよ。身に覚えのない知らせが届いてほんとうに訳が分からなかったんだから」
「無視すればよかった。勝手に送ったけど受けることを選んだのは君だ」
「そんなこと…」言葉が詰まる。その通りだ。「そんなこと、だったら話してくれたらよかった」
「事前に話をしていたら取り合ってすらくれなかったかもしれない。勝手に送るしかなかった」
「応募していないオーディションを受けることにどれだけ疾しさを感じていたと思ってるの」
「やましさを感じるべきなのは勝手に送った俺の方だ。それでも俺は君しかいないと思ったから送った」
「あなたの言うように無視すればよかった。でもできなかった。調べるうちに興味が出てきたのもあるけど、それだけじゃなくて、何ていうか、受けなきゃいけないんだという感じが自分の中にあった。それで受けてみたら何故か受かってここまで進んだ。でも応募していないオーディションを受けてることがずっと引っ掛かっていた。資格がないってずっと思ってた。ないはずのものがある疾しさで押し潰されそうだった」。なぜだか私は泣きそうだった。言葉が外に出ていくたびに涙も外に出たがっているのが分かった。
「応募はされている。だから資格はある。それはないものじゃなくてちゃんとある。応募をしたのが君じゃないというだけで、君はそのことをもう知っている。知らない知り合いが勝手に送ったと言えばいい。何の問題もない。やってみたいと思ったのなら後は君がやるだけだ。きっかけが自分じゃないことにやましさを感じる必要はない」
「勝手に送っておいてよくそんな偉そうなことが言えるね」。下を向いたら涙がこぼれた。
「君ならできると思ったから応募した。勝手に送ってなくても同じことを言ってた」
抜けた腰は元に戻っていて立ち上がることができた。割れた窓から夜の冷たい風が吹き込んでいる。窓の外には灯りのついた家々が見える。どうして窓ガラスを割ったのか、あらためて考えてみても分からない。でもこんなのは絶対に間違っている。
「今日ここで会ってなかったらどうしてたの?」と私は彼に聞いた。
「どうだろう。でも今日ここでこうして会った」と彼は言った。
「だから、会ってなかったらどうしてたのって」
「そんなことは分からない。とにかくどうしてだかここに来た」
「アンコール朝を作ったのが誰か知りたかったからでしょ」と私は言った。
「そうだった。でももういい」
「どうしても知りたかったんじゃないの」
「思い出したから。どうしても知りたいことは思い出せるものなんだ」
「だったら取りに来なければよかった」
「思い出せるまでに何があるかは分からないから。できることはできるうちにしておいた方がいい」。そう言うと彼は何も手にすることなく静かに去っていった。
 
 封筒は机の中に入っていた。封筒に手を伸ばすとき手のひらに痛みを感じて反射的に手を引っ込めた。大した怪我じゃないと思っていたけどハンカチは血で滲んでいる。どうしてさっきまではなんともなかったのだろうか。怪我の手当をされてるとき自分の怪我の程度に気がつけなかったのだろうか。一度手を閉じる。それから開く。閉じるときも開くときも痛みが走る。当たり前だ、怪我をしたんだ。痛む手で封筒を取り出す。誰かに見られた形跡はない。見られていてもいいと思った。それが何だ。封筒を握りしめて教室を出る。もう割れた窓ガラスは見なかった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み