第1話

文字数 46,483文字

黄金仮面    江戸川乱歩
 この文章全ては江戸川乱歩の黄金仮面を引用したものです。

  キャスト
  黄金仮面
  明智小五郎
  不二子
  波越警部
  
  ナレーター
  黄金仮面を目撃する人々
  看守の少女A
  看守の少女B
  看守の男C
  看守の男D
  警官たち
  舞台の観客たち
  ルージェール伯爵
  美子
  小雪
  鷲尾侯爵
  大使一行
  三好老人
  鷲尾家書生
  三好の妻
  土地の警察署長
  鎧武者
  近所の漁師
  大鳥喜三郎
  尾形
  お豊
  大鳥家女中
  浦瀬七郎
  警視総監
  エベール
  ルパンの部下
 川村雲山
 娘の絹江
 川村家女中
 白い巨人
 帝国ホテルのボーイ


 ☆始まり 

ナレーター『この世には五十年に一度、あるいは百年に一度、天変地異とか、大戦争とか、大流行病などと同じに、非常な奇怪事が、どんな悪夢よりも、どんな小説家の空想よりも、もっととほうもないことが、ヒョイとおこることがあるものだ。
人間社会という一匹の巨大な生き物が、何かしらえたいの知れぬ急性の奇病にとりつかれ、ちょっとのあいだ、気が変になるのかも知れない。それほど常識はずれな、へんてこなことが突拍子もなくおこることがある。
あのひどく荒唐無稽な「黄金仮面」の風説も、やっぱりその五十年百年に一度の、社会的狂気のたぐいであったかも知れないのだ。』

★黄金仮面を目撃する人々

 ★大博覧会
 その年、四月一日から五カ月にわたって、上野公園に十年来の大博覧会がひらかれた。余興では喜劇「黄金仮面」。そして出品物では三重県の真珠王が自慢の価格八千万円ほどをとなえる国産大真珠であった。「志摩の女王」
 大博覧会の様子。

★志摩の女王盗まれる
志摩の女王の番人四人は、看守控室でも話し友だちであった。誰かが四人のところへお茶を持ってくる。
男「高貴のお方の御顔をおがむんだ、お茶でものんで、心をしずめて」
看守の少女A「おお、にがい」
男「少し入れすぎたかな」

まもなく、看守たちは館内にはいって、さだめの持ち場についた。
看守の少女A「静かねえ、なんだか気味がわるいようだわ」
看守の少女B「ああ、ああ、ねむくなってきた」
四人の看守は居眠りを始めてしまう。

そのとき一人の洋服男が、ソフト帽をまぶかに、オーバーの襟を立て、大きなハンカチで顔を隠すようにして、何か急用でもあるらしく、急ぎ足で、居眠り看守の陳列場へ近づいてきた。
ハンカチのうしろから現れたものは、いうまでもなく、ゾッとするほど無表情な、金色の顔であった。
黄金仮面はツカツカと大真珠の陳列台に近づき、ガラスに顔をくっつけて、燦爛たる「志摩の女王」に見入った。彼の黄金の花の頭が、ガラスにふれて、カチカチと鳴った。金色の三日月型の口から、異様なつぶやき越えがもれる。怪物は今、喜びにふるえているのだ。
彼はビロードの台座から、大真珠をつかみとった。
ジリリリリ
黄金仮面「アッ。」
少女たちの悲鳴。警察官。殺到する人々。

★逃げる黄金仮面
奇妙な鬼ごっこがはじまった。陳列台と陳列台の作る迷路を、あちらこちらと逃げまどう金色の怪物、はさみうちにしようとあせる追手の人々。
とうてい逃げおおせることはできないと見た怪物は、せめて、もっとも手うすな追っ手の方面を目がけて、こちらから突き進んで行った。
そこには、小さい出入口を背にして、一人の警官が立ちはだかっていたが、賊が捨て身に突進してくるのを見ると、サッと青ざめて、しかし勇敢に大手をひろげた。だが、警官はとうてい金属製怪人の敵ではなかった。
怪物は建物のそとに消えた。そこには建物の裏手にあたり、見物人が入りこまぬために、両方のはしに鉄条網みたいな柵が設けてある。きょうは貴賓御警衛のために、大道路には数名の警官の姿が見える。
警官「オーイ、今その柵を越したやつはないか」
左右の大道路に立ち番をしていた警官がいっせいにこちらを向いて、口々にそんなやつは見なかったと答えた。
人々はお互いに顔を見あわせて立ちすくんでしまった。逃げ道はないのに、賊の姿が消えたのだ。
警官「オイ、この正面の建物はなんだ」
看守C「演芸館の裏口です。ここから向こうが余興場になっているのです」
警官「開演中かね」
看守C「ええ、ホラはやしの音が聞こえるでしょう」
警官「まさか、やつ、開演中の群集のまっただ中へ飛びこんだのじゃあるまいね。いくらなんでも、そんな無茶はしまいね」
看守D「だが、左右の道路へ逃げなかったとすれば、いくら無茶でも、やつはここへ飛びこんだと考えるほかはない。蒸発してしまったんでなけりゃね」
警官「ともかく調べてみよう」
一同は演芸館の裏口から、ドヤドヤとはいって行った。

★恐ろしき喜劇
お話かわって、その時演芸場の舞台では、喜劇「黄金仮面」の第一幕が終ったところであった。何も知らぬ数千の見物たちは、舞台上のにせの怪人「黄金仮面」に笑いこけていたのだ。
とつぜん幕そとに一人の警官が現れて、何かしらどなりはじめた。
警官「みなさん、ただ今この裏の陳列場から、有名な大真珠を盗んで逃げ出した曲者があります。ほかに逃げ道はありません。この小屋にまぎれこんだに違いないのです。きょうは貴賓御来場の日です。もう御到着になったころです。粗相があっては一大事です。われわれは舞台と木戸口は充分しらべました。しかし見物席はこの満員で、しらべようがありません。で、諸君にお願いです。めいめいに身の廻りを注意してください。そして、怪しいやつがあったら私に知らせてください。」
男「そいつはどんなふうをしているのです。」
警官「そいつは一と眼みればわかります。(躊躇する警官)金製の面をかぶったやつです。噂の高い黄金仮面です」
ドッと笑い声がおこる。
男「そんな賊が群集の中へ飛び込んでくるものか。ばかばかしい、何を血迷っているんだ。もっとほかを探してみるがいいや」
小言をいいはじめる見物。

第二幕目の緞帳が巻かれた。

いよいよ怪物が姿を現した。前幕とちがって、顔ばかりでなく、全身をダブダブしたマントようの金色の衣裳で包んだ、へんな恰好のやつだ。
それを見た臆病者の大げさな仕草、当然見物席に哄笑が起る筈の場面である。だが、誰も笑うものはなかった。
やがて、この幕第一の見せ場が始まる。
燐光のスポットライトが、闇の中に、怪物の顔の部分を丸く浮き上らせた。舞台にはたった一点、金色のお能面の様な顔丈けが、燐光に燃えている。
喜劇と知りながらも、余りの怖さに、見物は息を呑んで、静まり返って、怪物の顔から目をそらす力もない。
突如、舞台が明るくなった。怪談から喜劇への転換だ。そこへ臆病者の知らせによって、三人の滑稽なおまわりさんが駆けつけて来る。
ある予感に震えていた少数の見物人は、それを見ると、思わずアッと叫び相になった程だが、一般の群集は、反対にゲラゲラ笑い出した。
追いつめられた黄金仮面が、金色の衣裳を焔の様にひるがえして舞台から見物席へ飛降りた。
見物「やっぱりそうだ。やっぱりあいつだ」
怪物は椅子と椅子との間の細い通路を正面に向って走り出した。お巡りさん達も舞台を飛び降りて彼のあとを追った。
警官「捉まえてくれ。そいつが曲者だ。そいつが本当の曲者だ」
見物「やれ、やれ、しっかりやれ」
警官「君、そいつを逃すな。オイ、馬鹿ッ、間抜けッ、何をボンヤリしているんだ」
その時、舞台に数名の、明かに役者でない人々が立現われ、ドカドカと見物席に飛降り、お巡りさんのあとから走り出した。
笑い声がパッタリ静まった。一瞬間死の様な静寂、続いて湧起る恐怖のざわめき。訳の分からぬののしり声。
だが、その時分には、怪物はとっくに木戸口を脱出して、会場内の広っぱを、まっしぐらに走っていた。

★美子姫
日光山中の、鷲尾侯爵家の別荘。鷲尾氏の古美術品を納めた小美術館もこの別邸内に建てた。
十九歳の美子は、同家の一粒種。その名伏しがたきあどけなさ、不思議な魅力をたたえ、夢見るごときまなざしに、うっとりせぬ者はなかった。
その日、彼女は書斎の窓にもたれて、眼下に横たわる、眠ったような湖水を眺めながら、物思いにふけっていた。
思うは、遊学中の千秋さんである。美子と結婚することになっていた。

あのいまわしい黄金仮面の怪賊が、この二、三日、屋敷の近くを徘徊する噂。
きょうは古美術品を鑑賞するために、東京からはるばる自動車を飛ばして、お出であそばすという、某国大使ルージェール伯爵様のこと。
すぐ眼の下の塀のそとにうろうろしている私服刑事。

そこへとつぜん、まっ青な顔をして駆けこんできたのは、美子のお気にいりの侍女の小雪だ。
小雪「お嬢さま、わたくし、もうもう、こんなゾッとしたことはございません。どうしましょう。どうしましょう」
美子「まァ、小雪、どうおしなの」
小雪「わたくし、今、お部屋に生ける花を探しに、築山の奥の方へまいりましたの」
美子「ええ、それで」
小雪「その小暗い森の中を、なにげなく見たのでございます」
美子「ええ」
小雪「すると、お嬢さま」
小雪「私見ましたの、あれを・・・」
小雪「金色の・・・」
小雪「黄金仮面」
美子「お前、ほんとうにごらんなの」
小雪「ええ、森の茂みの奥から、あの、三日月型の口で笑っているように見えたのでございますの」
美子「で、お父さまに申しあげて?」
小雪「御前さまにも、警視庁のお方にも申しあげました。今警視庁の方々が、築山のうしろをしらべておいでなさいます」
小雪「一体そのものは、ここで何をしようとたくらんでいるのでしょう。盗みでしょうか、それとも、もっとほかに何か恐ろしい目的があるのではないでしょうか」
そこへ父の鷲尾侯爵の姿が見えた。
美子「ああ、お父さま」
鷲尾侯爵「小雪がしゃべったのか」
美子「お父さま、警察の人たちは、そのものをつかまえまして?」
鷲尾侯爵「いや、残るくまなく調べさせたが、どこにもそんなものはいない。小雪が、あまり怖がっているものだから、きっと幻を見たのだ」
小雪「けっして、御前さま。幻やなんかではございません。わたくし、いくらなんでも、そんな臆病者ではございませんわ」

鷲尾侯爵「美子、もうお客様の見えるに間もあるまい。お出迎えの用意をしなければなりません」
美子「でも、邸内にまで、そんなものがはいりこんできますのに、お客さまをお迎え申しあげても、よろしいのでしょうか」
鷲尾侯爵「それは、私も気がつかぬではない。しかし、今さらどうするわけにもゆかぬのだ。もうさっき大使館をお出ましになったという電話がきているし、ルージェール伯爵は豪胆なお方だ。それに、いくら怪賊にもせよ。なんの利害関係もない大使に、御迷惑を及ぼすようなことをしでかす気づかいもあるまいではないか」

★小美術館
ルージェール伯爵が到着。
まず三好執事が持参の鍵をもって、入り口の大扉をひらくと、侯爵を先頭に、
大使一行、美子嬢、三好老人の順序で、館内にはいっていく。

異様な恐怖を感じている鷲尾侯爵。
鷲尾侯爵『もしや怪賊は、この貴賓来訪の時を待ちかまえていたのではあるまいか。どういう手段かはわからぬ。だが、この虚に乗じて、美術館内の宝物を盗みだそうともくろんでいるのではないだろうか。』
伯爵への受け答えさえ、おろそかになる鷲尾侯爵。
だが、ルージェール伯爵は、思いもかけぬすばらしい観賞家だった。
渡金物におびえる美子。
鷲尾侯爵も同じ思いで、とつぜんヒョイと手を出して、仏像の腕を力まかせにつかむ。

ルージェール伯爵「アハハハハ」
ルージェール伯爵「では、『黄金の仮面』といわれている盗賊はまだ捕縛されないのですね。おそらくその賊は、この仏像みたいな顔をしているのでしょう。きっとそうでしょうね、鷲尾さん」
鷲尾侯爵は、ソッと手を引いた。

突然、美子の悲鳴。
小窓に奇怪な人間の顔。とっさにヒョイと隠れてしまったが、たしかに何者かが大使の一行を覗いていた。

鷲尾侯爵「君、ちょっと待ちたまえ」
鷲尾侯爵「君は、いったい誰です。今何をしていたのです」
三好老人「木場さん。こんなことをしでかしてくださっては、私が困るじゃありませんか。もう一日もお泊めしておくことはできませんぞ・・・いや、旦那様、なんとも申しわけがございません。あの男は、じつは・・・」
鷲尾侯爵「わかった、わかった、君の信仰している天理教の教師だね」
鷲尾侯爵「だが、再びこんな粗相のないように、君からよくいっておく方がよい」
木場はルージェール伯爵を一と眼見たかったのだ。

★浴場の怪人
風呂に入る美子。小雪に話しかけるが侍女の姿は消えていた。
美子「どこへ行ったのかしら。きっと着がえの寝間着を取りに行ったのでしょう」
しんと静まり返った夜の中に、裏山の夜鳥の声。
不安にかられる美子。
すると窓の扉が、一分ずつ一分ずる、じりじりとひらいて行くではないか。
扉の隙間はみるみる拡がって、その向こうから、吹きこむひややかな夜気とともに、まっ黒な夜がバアと覗いている。
美子は身動きができない。
まっ黒な隙間から、無表情な金色の顔が、覗くのだ。黄金仮面が、三日月型の口で笑いながら、ほんとうに、ヒョイと現れたではないか。
美子は半ば意識をうしなって、ニッコリと笑いかける。
美子『早く、早く、逃げなければならぬ』
逃げまどう美子。
ポロリと落ちた黄金仮面。
美子「まあ、おまえ!」
美子は黄金仮面に殺されてしまう。

小雪「旦那さま、たいへんでございます。お嬢さまが、胸を刺されて・・お湯殿で・・」
風呂場に到着した鷲尾侯爵。
鷲尾侯爵「おい、三好を呼ぶんだ。それから波越警部にも知らせるのだ」
書生が走る。
娘のなきがらにすがり涙にくれている鷲尾侯爵。
鷲尾侯爵「三好は、三好はどうしたのか」
三好の妻「三好が、なんだかへんなのでございます。それから、うちに泊っています木場さんも。二人とも一と間に横になって、グーグー寝こんだまま、いくらおこしても眼を覚まさないのでございます。」
鷲尾侯爵「眠っているって?それはへんだ」
鷲尾侯爵「波越さん、一つ見てやってくださいませんか」

ルージェール伯爵は、鄭重な悔みの挨拶を残し、例の紋章入り大型自動車を駆って、東京へと引きあげて行った。

★ALの記号
忙しく捜査をする警部。
土地の警察署長「三好執事の家に泊っている木場という天理教の教師は、お見知りごしの人物でございましょうか」
波越警部「いや、きのう見たのがはじめてです。三好も見知らぬ男のようです。ただ教会のたしかな紹介状を持っていたので、泊めたと申すことです」
土地の警察署長「では、あの男をここへ引き出して、一応訊問をしてもさしつかえございませんか」
波越警部「いいですとも、わしもあの男はなんだか妙なやつだと思っていたくらいです」
木場という男が、この臨時法廷へ連れ出された。
波越警部「君はゆうべ十二時ごろ、どこにいたのですか」
木場「十二時少し前、三好さんとお茶を呑んでいました。それからあとは、御承知のとおり、何も知りません。犯人はなぜ私のような者を睡らせる必要があったのかと、怪しむばかりです」
波越警部「君は、お茶を呑んだのが十二時前だというのですね。しかし、三好さんも三好さんの奥さんも、たしかな時間は記憶がない。三好さんがお屋敷から帰ってきたのが、たぶん十二時ごろだったといっています。とすると、あなた方がお茶を呑んだのは十二時をよほど過ぎていたと考えなければなりませんね」
木場「私もたしかな記憶はありませんが、もし十二時すぎであったとすると、どういうことになるのでしょうか」
波越警部「君が自分で入れた麻酔剤で眠りこけてしまう前に、湯殿へ忍びこむ時間があった、ということになります」
木場「つまり、私が令嬢の下手人だとおっしゃるのでしょうか。で、何か証拠でも」
波越警部「オイ、君は、まだ、証拠発見されないと高をくくっているのかね。そりゃだめだ。まず第一の証拠は、君の朴歯の下駄だ。この邸には朴歯の下駄をはいているものは一人もない。ところが、湯殿の窓のそとの足跡は、君の朴歯とシックリあてはまるのだ」
木場はなんの抗弁もしない。
波越警部「それだけではない。もっとたしかな証拠がある。」

波越警部「これを見るがいい。この金色のおもちゃは、君の行李の中から発見されたのだ」
警部の手にあるのは、金色の仮面と、金色のマントである。
木場「ああ、仕方ない」
木場は警部の耳元でささやいた。
波越警部「うそだ。うそだ・・・」
木場「波越君、君はとうとう僕の邪魔をしてしまった。そんなに疑うならこれを見たまえ。」
木場は、頭に手をやったかと思うと、いきなり長髪をかなぐりすて、次には、顔じゅうのひげをむしりとった。
天理教の布教師と見えたのは、素人探偵明智小五郎であったのだ。
波越「ああ、明智君。まさか君の変装とは知らなかった」
興味をおぼえる人々。
土地の警察署長「だが明智さん。かんじんの時に睡らされてしまたったのは、少々手抜かりでしたね」
明智小五郎「ええ、しかし、おそらくシャーロック・ホームズだって、僕と同じ失策をやったでしょう。なぜといって、ゆうべ、ほとんどあり得ないことがおこったのです。僕の想像がまちがっていなければ、歴史上いまだかつて前例のない椿事がおこったのです。僕はそれを口にするのも恐ろしいほどです。むろん、僕にもまだ真相がはっきりわかってはいないのですが。」
土地の警察署長「というと、なんだかあなたは、ゆうべの犯人を御存知のようですな」
明智小五郎「いうまでもありません」
明智小五郎「たぶん、存じています。たぶんという意味は・・波越君、ゆうべからの捜索の結果は?」
波越警部「皆無だ。君自身が犯人でないとすれば」
明智小五郎「そうでしょう。では、僕は、ハッキリと申しあげることができます。この犯人は、数日来私の目ざしていた人物です」
鷲尾侯爵「明智さん、それは誰です。その男の名前をいってくださらんか」
明智小五郎「いや、侯爵、その前に、あなたにとって、お嬢さんの御死亡とほとんど同じくらい重大な問題があります。私は、一刻も早くそれをたしかめたいのです」
鷲尾侯爵「というのは、ああ、もしや君は・・・」
明智小五郎「ええ、国宝にも比すべき、御収集の美術品です。大使御訪問のおりもおり、どうしてこうも、さまざまの凶事がかさなり合って突発したのでしょうか。賊は、めったにひらかれぬ美術館の大戸が、きのう大使一行のためにひらかれるのを待ちかまえていたのではありますまいか。その証拠には、たとえば・・・」
鷲尾侯爵「たとえば?」
明智小五郎「たとえば、三好さんはなぜ麻酔剤を吞まされたかということです。失礼ですが、三好老人は眼も耳もうとい御老人です。賊は三好さんの睡っているすきに、隠し戸棚にしまってある美術館の鍵を取りだして、また人知れず元の場所へ返しておくこともできたのです。もし賊が、その隠し戸棚を前もって知らなかったとすれば、きのうのように、たまたま美術館がひらかれる日を待って、その隠し場所をたしかめるほかないではありませんか」
鷲尾侯爵「明智さん、きてください。美術品をあらためてみましょう」
古美術品のこととなると気ちがいのような侯爵は、もう心配に青ざめてて、明智をせきたてた。
彼は、三好老人から鍵を受けとって、明智、波越警部、警察署長の三名をともない、美術館にはいって行った。
だが、一廻り歩いてみたところでは、別段紛失した品物もない。
鷲尾侯爵「明智さん、少し取りこし苦労だったね」
明智小五郎「ですが、この仏像は?」
鷲尾侯爵「藤原時代の木彫阿弥陀如来像です」
明智小五郎「いえ、私のいう意味は・・・」
明智は長いあいだ如来像を凝視していたが、何を思ったのか、突如、拳を固めて如来様の横面をはりとばした。
鷲尾侯爵「コラッ、何をする。きさま、気でもちがったのか」
割れている如来像。
明智小五郎「ごらんなさい。これが藤原時代の木像でしょうか」
見ると明らかに石膏細工のにせ物だ。
明智小五郎「ごらんなさい。これが藤原時代の木像でしょうか」
明智がなにげなく、石膏の一片を拾いあげて、ひねくりまわしているうちに、その表面に、A・Lという何かでひっかいたような文字がしるされてあるのを発見した。

明智小五郎「いや、宝物の方は、大して心配することはない。あれほどの品を、人知れず処分するなんて不可能なことだ。またそう急に買い手がつくものでもない。やがてありかが知れる時もあるでしょう。だが、娘は、もう永久に帰ってくることはないのです・・・」
鷲尾侯爵「明智さん、君はさっき、娘の下手人を知っていると言いましたね」
明智小五郎「ええ、ぞんじています。あなたもよく御存知の人物です」
鷲尾侯爵「誰です。そいつはいったい何者です」
侯爵は日頃のたしなみを忘れて、素人探偵につめよった。

★意外!意外!
明智小五郎「お急ぎなさることはありません。そいつは決して逃げだす気づかいはないのです。逃げない方が安全だということを、ちゃんと知っているからです」

明智小五郎「けっして御心配には及びません。犯人は逮捕されたも同然です。五分以内にお引きわたしすることをお約束します。しかし、ここはなんですから、みなさん、あちらのお部屋へお引きとり願いたいのですが」

土地の警察署長「あと三分で、お約束の五分ですよ」
明智小五郎「三分ですって?そいつは少し長すぎますね。三分どころか、一分、いや三十秒で充分です」
波越警部「君、冗談をいっている場合ではないぜ」
明智小五郎「侯爵、令嬢づきの召使いをここへお呼びくださいませんでしょうか」
鷲尾侯爵「小雪に何か御用ですか。あの女には糺すだけは糺して、もう聞くこともないと思うが」
明智小五郎「私は犯人をお引きわたしする約束をしました。それについてぜひ必要なのです」
鷲尾侯爵「では・・・」
そばの書生に小雪を呼んでくるように命じた。
土地の警察署長「明智さん、この小間使いを問いただして、それから犯人を探すのじゃあ、三十秒ではちと無理ですぜ。ホラ、そういううちに、三十秒は過ぎてしまった」
明智小五郎「過ぎましたか」
明智小五郎「だが、僕はちゃんとお約束を果たしたのです」
土地の警察署長「ホホウ、こいつは奇妙だ。で、その犯人は?」
明智小五郎「あなた方の捕縛を待っています」
鷲尾侯爵「どこに。一体その男はどこにいるのです?」
明智小五郎「男ですって?」
明智小五郎「男なんていやしませんよ。ここには小雀のようにふるえている、小雪という少女がいるばかりです。」
鷲尾侯爵「小雪?すると君は・・・」
明智小五郎「そうです。気のどくですが、この小間使いが令嬢殺しの犯人です」
小雪の美しい顔はみるみる青さを増し、眼は恐ろしい決意を示して逆立った。
明智小五郎「あっ、いけない」
小雪は隅のテーブルに走りよって、金の仮面とマントをとると手早くそれを身につけて、あっとおどろく人々の前にスックと立ちはだかった。
そこには黄金仮面が、三日月型の唇でニヤニヤと笑ていた。
彼女は金色の燕のように、鬼警部の手の下をくぐって、ドアのそとへ飛びだしてしまった。
廊下を幾曲り、ヒラリヒラリと金色の虹が飛びすぎるあとを、波越警部を先頭に、署長や刑事連中が追いかける。
小雪は美術館へ飛びこむと、中から重いドアをしめてしまった。

鷲尾侯爵「そこへはいれば袋の鼠です。あわてることはない」
おくればせに、明智小五郎とともにかけつけた侯爵が叫んだ。
波越警部「しかし裏手の窓は?」
鷲尾侯爵「大丈夫。窓にはみな鉄格子がとりつけてあります。女の腕で、あの鉄格子を破ることはできません」
波越警部「では、ここの鍵を・・・三好さんはどこへ行きました」
明智小五郎「部屋にウロウロしていました。どなたか、呼びに行ってください。しかし、なアに、あわてることはない。もうつかまえたも同じことですよ」

★鎧武者
ドアを乱打する警官の声。
内にはうす暗い陳列場に、無気味な仏像の地獄図絵。
とぼしい窓にはすべて厳重な鉄格子。
小雪は黄金仮面をつけたまま、美術館内を駆け回った。
彼女は部屋中で一番暗い隅っこへ、そこにニョッキリ立ちはだかっている鎧武者のうしろに身をひそめ、息を殺して屋外の物音に耳をすました。

鎧武者の中から動機が聞こえてくる。
鎧武者の顔を覗く小雪。
小雪「ギャッ」
鎧武者「怖がることはない。おれはお前の味方だ」
小雪「あなたは、誰です。誰です」
鎧武者「名前をいったところでお前は知るまい。おれは首領のいいつけで、ゆうべからこの鎧武者に化けていたのだ。なんの目的?そんなことをしゃべっている暇はない。お前を救わなければならぬ。お前を助けるのも、やっぱり首領のためなのだ。さア、逃げ道はちゃんと作ってある。こちらへくるがいい」
小雪「ああ、わかった。あなたはあの人の仲間ですね。それで、もし私がつかまれば、あの人の秘密がバレてしまうものだから、それが怖いのですね」
鎧武者「早くいえばその通りだ。つまり、お前を助けるのではない、われわれの首領の秘密を救うのだ。しかしお前にしては、このさい、そんなことはどうだっていいじゃないか」
小雪「逃げ道って、どこにあるのです。それをちゃんと私のために用意しておいてくだすったのですか」
鎧武者「お前のためだって。ハハ・・お前の悪事がこんなに早くバレようなんて誰が思うものか。明智のやつさえ出てこなければ、万事うまく行ったのだ。それを、あのおせっかいめ・・だからおれはあいつの鼻をあかしてやろうと決心したのだ」
鎧武者は鎧面を脱ぎすて、小雪の手を取って、裏手の窓へと走った。
ちょうど彼らが窓に達したとき、ガラガラと大きな音を立てて、背後の大扉がひらかれ、追っ手の群がドヤドヤと踏みこんできた。だが、ふいの暗さに、彼らはまだ窓の二人には気がつかぬ。
鎧武者「さア、ここだ。お前のためじゃない。おれの逃げ道に、この鉄棒を切っておいたのだ」
鉄格子を握って、一と揺りすると、ポッカリとはずれて、大きな穴があいた。
二人がそこをくぐってそとに出ると、芝生と、低い生垣の向こうに、湖がひろがっている。その岸に一艘のモーターボート。侯爵家の遊覧船だ。
鎧武者「お前、モーターボートが動かせるか」
小雪「ええ、できますわ」
鎧武者「そいつは幸いだ。じゃ、お前一人で、それに乗って逃げだすんだ」
小雪「でも、どっかへ上陸したら、すぐにつかまってしまいますわ」
鎧武者「だからよ。それにはちゃんとうまい用意ができているのだ・・」
男はボソボソとささやくと、小雪はビックリして、ボートの中に横たえてある、ステッキよりは少し長い竹竿を見た。
小雪「まア、これで?」
鎧武者「ウン、この追っ手を逃れるには、それくらいの苦労はあたりまえだ。お前は人殺しなんだぜ」
小雪「ええ、やりますわ。どうせ絞首台に送られるからだです。女でもそのくらいのこと、できないはずはありませんわ」
小雪はボートに乗り込んだ。
鎧武者「オット、それを脱いじゃいけない。さっきもいったとおり、そいつの利用法を忘れちゃいけないぜ」
小雪が金色の仮面やマントを脱ごうとするのを、男がとめた。
鎧武者「じゃあ、しっかりやるんだぜ。おれは又おれで、仕事がある」

★奇妙な呼吸器
明智がモーターボートを指さし言う。
明智「あれのほかに、もう発動船はありませんか?」
書生「あります。あります。ホラ向こうからやってくる。あれは近所の漁師の持ち船です。」
あやつっているのは、近くの漁師らしい木綿縞の半纏を着た男だ。

明智「オーイ、その舟をちょっと貸してくれ。あのモーターボートを追っかけるのだ。警察の御用だ。」
乗り込んだのは、警察署長、波越警部、明智、刑事が二名、漁師の六人。

漁師「こう見えても、馬力はこっちの方が強いんだから、あのボートを追いぬくくらい造作はありませんや」

刑事「オーイ、舟を止めろ、でないと打ち殺すぞ」
威嚇の一発。それでも強情な小娘は、見向きもしない。
モーターボートに追いつき、一人の刑事が敵のボートに飛び移ったと思うと、黄金仮面に飛びついた。
刑事「ワッ、やられた。」
そこにあるのは金の仮面とマントばかり。中はもぬけの殻だ。
二枚の板を立てて、それに金色マントが着せてあったのだ。

舟でさまよう明智たち。
明智「よし、舟を止めて・・。誰かうすい紙をお持ちではありませんか?」
刑事がごくうすい鼻紙を取りだして、明智に渡す。
波越警部「君、それは一体なんのまじないだね。」
明智「静かに。静かに。今、妙な実験をしてお眼にかけるのだから。」
明智「ホラ見たまえ。水草のあいだに、細い竹きれがあるだろう?
明智「ホラ見たまえ。水草のあいだに、細い竹きれが首をだしているだろう?こいつがどういう反応を示すか。うまくいったらおなぐさみだ。」
すると不思議。その紙切れがスーっと吸い寄せられていき、しばらくするとふわっと離れる。
何者かが、水中に隠れて、竹筒で呼吸しているのだ。

★第二の殺人
刑事「よし、しぶとい女め、こうして浮きあがらせてくれるぞ。」
野蛮な刑事が手をのばして、竹筒の口を押えた。
波越警部「よしたまえ。かわいそうだ。」
刑事が手をはなすと、小雪が浮きあがってきた。

小雪「ああ、もう我慢ができない。早く、早く殺してください。」
明智「君、僕のいうことが間違っていたら、訂正するんだよ、いいかね」
明智「君が令嬢を殺したのは、英国にいる千秋さんのためだね。そうだろう。」
うなずく小雪。
明智「つまり君は、洋行以前、侯爵邸にいた千秋さんと、何か深い関係を結んでいた。その千秋さんが近々帰朝して令嬢と結婚する。それが君には耐えられなかったのだ。君がたびたびロンドンの千秋さんに手紙を出していることを、僕はちゃんと知っているのだよ。その返事がいつも君の予期に反した。つまり千秋さんに捨てられたのだ。」

明智「君は殺人が絶対にバレないように、黄金仮面に変装し噂を流すことを思いついた。僕は姿をかえて三好老人の家へ泊りこみ、何もかも調べあげていたのだが、某国大使の御来訪と、例の麻酔薬の騒ぎで、非常な失敗を演じてしまった。僕に麻酔薬を飲ませたのは君ではなかった。むろん、あの仏像や仏画を偽物とすりかえたのも、君の知ったことではない。つまり、君の殺人事件よりもずっと大物が突然ころがりこんできたのだ。」

明智「僕が一番聞きたいのは、君の知っているもう一人の犯人だ。君の逃亡を手伝ったんだろう?」

漁師「あ、妙なものが流れてきた」
すると大金が入った男物の財布が流れていた。
明智「さあ、小雪さんお願いだ。君の犯した罪ほろぼしに、たった一言いってくれたまえ。君の一言で、歴史上に前例もないような恐ろしい大犯罪を未然に防ぐことができるのだ。お願いだ。小雪さん・・、おや、どうかしたのか。君、しっかりしたまえ。」
明智が驚いて小雪の肩をゆさぶった時にはもう息絶えていた。

刑事が見つけた紙切れを読む明智。
『小雪を殺したのは誰でもない。明智小五郎、きさまだぞ。おれの方は殺す気は毛頭なかった。第一われわれの首領は血を見ることが何よりもきらいなのだ。小雪を逃亡させるために、あれほど苦労したのでも、それはわかるはずだ。きさまがいらぬおせっかいをしたばかりに、とうとうこんなことになってしまった。即刻手を引くのだ。でないと、この次はきさまの番だぞ。』

★黄金仮面の恋
自宅のデスクで頬杖をついて、プカプカ煙草を吹かしているいる明智。
すると見知らぬ老人が入ってくる。
うやうやしく取りだした名刺には、「大鳥喜三郎」と書いてある。
尾形「私は大鳥家の執事を勤めておりまする、尾形と申す者でござります。実は黄金仮面の事でご相談したい事がありまして・・。」
明智「はい、詳しくお話しください。ちょっと待って・・。」
明智はある人物の名前を書いて、尾形に見せた。
尾形は意味不明といった様子。
明智「さぁ、どうかお話ください。私はもう充分あなたをご信用申しているのです。」

回想
大鳥喜三郎には二人の令嬢があった。姉の不二子さんは今年二十二歳。なかなかの才女で二年ほど欧州へ勉強に行っていたし、美貌で社交界の花とうたわれていた。今から一週間前、不二子さんは日暮れにふといなくなったまま、十二時すぎまで帰らなかった。それが毎晩のように起こるようになり、尾形が尾行してみると、古い洋館の中で、黄金仮面と密会している不二子を目撃しまった。
そして、父の大鳥氏が土蔵へはいってみると、家宝の「紫式部日記絵巻」が入った箱が紛失している事に気づいた。

明智「で、お嬢さんは、どんなに尋ねても、何もおっしゃらないのですか?」
尾形「さようでございます。平常はまことにおやさしいお方ですが、今度だけはどうしたものか、まるで人間がかわってしまったように、お話にならぬ強情で、じつに主人も困りきっております。」
明智「恋です。恋の力ですよ。よくわかりました。あの賊の最近の動静がわかっただけでも僕は非常にありがたいのです。だが、令嬢のお名前が出ぬように、黄金仮面だけを始末して、絵巻物を取りもどすというのは、なかなかむずかしい仕事ですね。が、お引き受けしましょう。」

尾形「どうかと心配をいたしましたが、御快諾を得まして、主人もさぞ喜ぶことでござりましょう。私もひと安心でございます・・おお、それで思い出しましたが、さいぜんこちらへまいります前に、玄関のところで、どこのお方が存じませぬが、この手紙をあなた様にお渡し申してくれとことづかりましたのを、つい失念しておりました。」
明智「へぇ、妙ですね。」
『明智君
大鳥令嬢の問題については、おせっかい断じて無用だ。いや、大鳥嬢の問題にかぎらぬ、いわゆる黄金仮面の事件から一切手を引いてもらいたい。我輩がそれを命令するのだ。諾か然らざれば死だ。我輩はいたずらに人命を絶つことを好まぬ。だが、我輩の慈悲心には、場合によって例外あることを記憶せよ。

★恋の魔力
お豊「お嬢さま、あなたは悪魔に魅入られなすったのです。」
不二子「婆や、もうたくさん。どうか私をソッとしておいておくれ。」
お豊「まぁ、それではやっぱり、あなたはあの恐ろしい男が、思いきれぬとおっしゃるのでございますか。」
不二子「それじゃあ、あの人がどんなにすばらしいお方だか、知っているのかえ。」
お豊「まぁ何をおっしゃるのです。きょうがきょうまで、お嬢さまがそんなみだらなお方とは、ちっともぞんじませんでした。婆やは、お嬢さまの心が変わるまでこの部屋を一歩も出ませんから。」
不二子「お前もお父さまと同じようなことを言いだしたのね。どんなに見張りを厳重にしてもあの方にとってはちっとも邪魔にならないのよ。今にきっと私を迎えにきてくださるから。」
女中がお茶を持ってくる。
お茶を飲む二人。しばらくするとお豊が眠りだす。

その間に不二子が消え、騒ぐ大鳥家。明智が呼ばれている。
明智「承知しました。きっとお嬢さんは取りもどしておめにかけます。」

★黄金の戦い。
洋館で逢引きをする不二子と黄金仮面。
すると天井の人の足音に気づく。黄金仮面は不二子を残し、敵を探しに行く。
そこにはもう一人の黄金仮面が立っていた。(明智小五郎)
二人は戦うが、黄金仮面が消えてしまう。
黄金仮面に扮した明智小五郎は不二子の下に戻ると、不二子の手をとり、門外へと出て車に乗せた。
不二子「私、こわかったわ。」
不二子「あら?まぁ、あなたは一体誰です、誰です。」
明智「何もこわがることはありません。僕はあなたの味方です。あなたを恐ろしい悪魔の手から救い出してあげたのです。」
明智は仮面を外す。

不二子「明智さん、車を止めてください。でないと。」
不二子はピストルを取りだす。
明智「おや、妙なおもちゃをお持ちですね。」
明智「僕をうつのですか。ハハハ、あなたに人が殺せますか?さぁ、やってごらんなさい。」
不二子はピストルを自分の胸に当てる。
明智「あっいけない、およしなさい。」
沈黙
すると運転手が手を伸ばし、ピストルを取り上げた。
明智「君・・。」
すると運転手は黄金仮面で、ピストルを明智に向けた。
黄金仮面「車を出なさい。出なければあなたを殺します。」
明智がしぶっていると、ついに一発が発射され、叫ぶ不二子と明智。
明智「畜生!」
明智は車を降りる。

★死体紛失事件
明智のアパートで本を読んでいる明智の影。
撃たれ、明智が倒れる。(影。)

死体がないという事で騒ぐ警察たち。

★大夜会
明智の死体が見つからないので頭を抱えている波越警部たち。
するとルージェール伯爵の下に一通の手紙が届いていた。
黄金仮面がルージェール伯爵が開く大夜会に現れるというのだ。

接待係になりすまして、大夜会に忍び込んだ警察たち。
楽しんでいる客。謎めいた西洋悪魔になりすました給自人。そこに黄金仮面が現れる。
一斉に追う警官たち。しかし、ルージェール伯爵が勇敢にも黄金仮面が忍び込んだ部屋に一人で入り、一発撃った。
波越警部「いけません。大切な犯人です。殺してはいけません。」
ルージェール伯爵「マスクを。」
その下から現れたのは、ルージェール伯爵の法人秘書、浦瀬七郎だった。
波越警部「黄金仮面はフランス大使館通訳官。犯人は治外法権にかくれていたのだ。わからなかったのも無理はない。なるほど、これで辻褄が合うわい。鷲尾家の盗難も、こいつのしわざとすれば合点が行く。あの時、こいつはルージェール伯爵の随員として、美術館へはいったのだからな。」

波越警部「君たちはこの犯人をすぐ病院へ運んでくれたまえ。そして、捜査課へ電話をかけて、黄金仮面はただ今取りおさえましたと伝えてくれたまえ。」
覆面男「ハハハ!」
波越警部「どうかしたのですか?何がそんなにおかしいのです。」
覆面男「アルセーヌ・ルパンはこんな男じゃありません。」
波越警部「アルセーヌ・ルパンだって?」
覆面男はマスクを外し、明智小五郎が姿を現した。
波越警部「おお、君は!」
波越警部「明智君、挨拶はぬきにして、君がどうして生き返ったのかもあとで聞くとして、今いった妙なことは、一体どういう意味だね?」
明智「黄金仮面はアルセーヌ・ルパンだ。突飛に聞こえるかもしれない。僕も長いあいだ迷っていた。だが、二、三日前、やっと思い違いでないことが判明した。ルパンは今この東京にいるのだ。」
明智「浦瀬君、教えてくれ。アルセーヌ・ルパンは誰だね?」
浦瀬が指さした先にはルージェール伯爵が立っていた。

★ルパン対明智小五郎 
警視総監「ワハハハ……、これはいかん。いやに滅入ってしまったぞ。……サア、皆さん舞踏を続けて下さい。伯爵も、どうかあちらへ。跡始末は我々の方でうまくやって置きます」

明智「閣下!この明瞭な事実を、お信じなさらないのですか」
警視総監「アハハハ……君、そりゃいかんよ。いくら名探偵の言葉でも、こいつばかりは採用出来ん。仮りにも君、一国の特命全権大使ともあろうお方が、盗賊を働くなんて、そ、そんなバカなことが、ハハハ……」
明智「この男が、証人です」
 明智は、已に息絶えた浦瀬秘書官を指さした。
警視総監「証人? バカな。こいつは伯爵に射殺された恨みがある。それに瀕死の苦しまぎれ、血迷った奴が何を云うか分ったものではない。一秘書官の言葉を信ずるか、F国大統領の信任厚き全権大使を信ずるか、一考の余地もないことだ」
明智「では、これをごらん下さい。僕は何の証拠もなくて、迂闊にこの様な一大事を口にするものではありません」
 明智は云いながら、黒毛糸シャツのふところから、大事そうに一通の西洋封筒を取出して、総監に示した。
警視総監「待ち給え。みなさん。暫く御引取り下さい。波越君だけ残って、外の刑事諸君も、一度外に出てくれ給え。そして、そのドアを締めて下さい」
 
警視総監「手紙の様だが、それはどこから来たのかね」
明智「パリからです。お聞き及びでしょうと存じますが、元巴里警視庁刑事部長のエベール君からです」
警視総監「エベール?」
明智「そうです。ルパンが関係した、二つの最も重大な犯罪事件、ルドルフ・スケルバッハ陰謀事件と、コスモ・モーニングトン遺産相続事件で、ルパンと一騎打をした、勇敢な警察官として、よく知られている男です。当時の警視総監デマリオン氏の片腕となって働いた男です」
警視総監「で、そのエベール君から、何を云って来たのだね」
明智「僕は電報で、ルージェール伯爵の身元調査を頼んでやったのです。伯爵はシャンパーニュの大戦で一度死を伝えられた人物です。そして、彼が巴里の政界でメキメキと売出して来たのは、大戦の後でした。ここに恐ろしい疑いがあるのです。大戦以前のル伯と、戦後のル伯とが、全く同一人であるかどうか。万一別人であったならば、それはアルセーヌ・ルパンではないか。ルパンと聞くとエベール君、異常な熱心で調査を始めてくれました。戦友を探し出し、伯爵の幼馴染を探し出し、写真を蒐集し、あらゆる方面を調査した結果、大統領を初め戦友達の一大錯誤を発見したのです。ル伯はシャンパーニュで、本当に戦死したらしいことが分ったのです。併し、事は余りに重大です。迂闊に一退職警察官の進言を採用することは出来ません。盗賊に大統領の親書を与え、国家の代表者として、日本皇帝陛下に謁見(えっけん)せしめたとあっては、巴里政界に大動揺を来すは勿論、由々しき国際問題です。一通の電報によって、犯人引渡しを要求するが如き、軽挙に出でることは出来ません。そこで、ルパンを最も熟知せるエベール君をひそかに日本に派遣して、ル伯の首実検(くびじっけん)をさせた上、適宜の処置をとらしめることになったのです。エベール君は、この手紙を書くと同時に本国を出発しました。恐らく数日中には到着することと思われます」
 
ルージェール伯爵「わたしは、あちらへ引取っても差支ありませんか」(フランス語)
 
明智「失礼しました。伯爵。お察しでもございましょうが、我々は警察の者です。殺された男が、有名な盗賊とは申せ、兎も角ここに殺人事件が起ったのです。被害者の身元も調べなければなりません。又、ご迷惑ながら、大使閣下に二三御尋ねしなければならぬ点もございます。今少々この部屋に御止まりを願わねばなりません」(フランス語)
ルージェール伯爵「さっき、この男は、わたしを指さして、何を云ったのですか」
 
明智「閣下が、有名な紳士盗賊アルセーヌ・ルパンだと申したのです」

ルージェール伯爵「ハハ……、このわしが、……全権大使ルージェール伯爵が、ルパンだというのかね。そして、君は、それを信じているのかね」
明智「若し信じていると申上げたら、閣下はどうおぼしめしましょうか。あらゆる事実が、それを物語っているとしたら、仮令大使閣下であろうとも、御疑い申上げる外はないのです」
ルージェール伯爵「あらゆる事実? それを云ってごらんなさい」
明智「黄金仮面は滅多に口を利きません。()むを得ない場合には、ごく簡単な言葉を喋りますが、それは非常に曖昧な、日本人らしくない発音です。これは、黄金仮面が外国人であることを語っています。奇妙な金色のお面も、一目で分る異国人の容貌を隠す為に考案されたものです」
ルージェール伯爵「それで?」
明智「黄金仮面は、日本に一つしかない様な、古美術品ばかり狙っていますが、並々の盗賊には、そういう有名な品を処分する力がありません。ルパンの様に私設の博物館を所有するものでなくては出来ない芸当です」
ルージェール伯爵「それで?」
明智「大鳥不二子さんは、なぜ恐ろしい黄金仮面に恋をしたか。それは彼がアルセーヌ・ルパンだからです。あの気高い令嬢が、若し盗賊に恋をするとしたら、世界中に、ルパン一人しかありません。ルパンはどんな女性をも惹きつける、恐ろしい魔力を持っているのです」
ルージェール伯爵「ルパンがそれを聞いたら、さぞかし光栄に思いましょう。併し、わしには何の関係もないことです」
明智「鷲尾侯爵家の如来像が偽物と変っていました。その偽物の像の裏にA《ア》・L《エル》の記号が記してありました。日本人にLの頭字(かしらじ)を持った人名はありません。アルセーヌ・ルパンでなくて誰でしょう。頭字が一致するばかりでなく、犯罪の現場(げんじょう)に自分の名札を残して行く盗賊は、恐らくルパンの外にはありますまい。彼は欧洲各国の博物館の宝物を、にせものと置き替え、そのにせものの人目につかぬ場所へ、悉く署名を残して置いた先例があります」
ルージェール伯爵「…………」
明智「そして、あの盗難のあった頃、鷲尾侯爵邸を訪れた外国人と云えば、閣下、あなたの外にはなかったのです。僕は当時已に、黄金仮面がアルセーヌ・ルパンであり、ルパンは即ちルージェール大使であることを、薄々感づいていたのです」
ルージェール伯爵「ハハハ……、愉快ですね。このわしが世界の侠盗アルセーヌ・ルパンか。で、証拠は? 空想でない証拠物は?」
明智「エベールの調査です」
ルージェール伯爵「ナニ、エベール?」
明智「御記憶でしょう。ルパンの仇敵、元のエベール副長です。彼がルージェール伯爵の身元を調査した結果、何もかも分ったのです。大統領は、閣下を捕縛させる為に、あのエベールを日本へ送りました。閣下は已にF国政府の信任を失われたのです」
 
ルージェール伯爵「アハハハ……、日本の名探偵明智小五郎君、よくもやったね。イヤ、感心感心、アルセーヌ・ルパン、生涯覚えて置くよ」
波越警部「で、君は白状した訳だね」
 
ルージェール伯爵「俺は少し日本人を軽蔑し過ぎていた様だね。アパートの窓に映っていたのは、君だとばかり思っていた。そして、君は死んでしまったと信じていた。君さえなきものにすれば、今日の様なことも起らないで済むのだからね」
 伯爵は煙草に火をつけて、紫色の煙を棚引(たなび)かせながら、我身の危急も知らぬげに、呑気らしく云った。
明智「それを褒められては、汗顔(かんがん)だ。あれは君、シャーロック・ホームズの用いた、古い手なんだぜ。蝋人形さ。蝋人形と分ってはなんにもならぬから、撃たれるとすぐ、僕は死骸を隠してしまったのさ。それにしても、君の射撃には恐入った。人形の丁度心臓部を、間違いなく射抜いていたからね。若し俺がやられたらと思うと、ゾッとしたよ」
 明智は、奇妙な西洋悪魔の扮装のまま、伯爵のルパンの前を、右に左に歩きながら、ニコニコして喋り続けた。
明智「だがね、ルパン君、君を笑ってやることがあるよ。流石のルパンも少し耄碌(もうろく)したなと思うことがだぜ。というのは、君が人殺しをしたことだ。鷲尾侯爵の小間使を殺したのは、君の部下の専断かも知れぬ。だが、僕を射撃した。それは幸い失敗に終ったが、浦瀬の殺人だけはどうしてものがれることは出来まい。君は血を流したのだ」
ルージェール伯爵「浦瀬は日本人だ。俺は嘗つてモロッコ人を三人、一時(いちどき)に射殺したことがある」
明智「畜生ッ。君にして、白色人種の偏見を持っているのか。実を云うと僕は、君を普通の犯罪者とは考えていなかった。日本にも昔から義賊というものがある。僕は君をその義賊として、いささかの敬意を払っていた。だが、今日只今、それを取消す。残る所は、ただ唾棄(だき)すべき盗賊としての軽蔑ばかりだ」
ルージェール伯爵「フフン、君に軽蔑されようが、尊敬されようが、俺は少しも痛痒を感じぬよ」
明智「アア、アルセーヌ・ルパンというのは、君みたいな男だったのか。僕は失望しない訳には行かぬ。第一君は、何の為にこの浦瀬に黄金仮面の扮装をさせたのだ。人々にこれこそあの怪賊だと思い込ませて、一思いに射殺(いころ)してしまう積りではなかったのか。それが、狙いをあやまり、即死させることが出来ず、瀕死の部下の為に、君自身の正体をあばかれる様なヘマをやるとは。ルパンも耄碌したものだなあ」
ルージェール伯爵「フフフ……、耄碌したかしないか、決めてしまうのは、まだちっと早かろうぜ」
 ルパンは煙を輪に吐いて、ふてぶてしく空うそぶいた。
明智「という意味は?」
ルージェール伯爵「という意味は……これだッ! 手を上げろ!」
 突如として、ルパンの口から雷の様な怒鳴り声がほとばしった。
 彼は黒檀の大時計の前に立ちはだかって、明智を初め三人のものに、ピストルの筒口をむけ、油断なく身構えをした。
 
ルージェール伯爵「身動きでもして見ろ。容赦なくぶっ放すぞ。ハハハ……これでもルパンは耄碌したかね。俺はまだ日本の警官達に捕まる程間抜けではない積りだよ」
 だが、流石の兇賊も、うしろには目がなかった。仮令うしろを眺め得たとしても、時計の中までは気がつかなんだ。
 黒檀の大時計の蓋が、音もなく開いたかと思うと、そこから飛び出した人物がある。そして、飛び出すが早いか、彼はいきなりルパンのピストルを持つ手に掴みかかった。
エベール「ハハハ……、フランスの警察官には捕まる間抜けか」
 その男は、早口のフランス語で叫んだ。
 ルパンは、その声に聞き覚えがあった。ギョッとして振向くと、そこにいかめしい同国人の顔があった。
ルージェール伯爵「ア、貴様、エベール!」
エベール「そうだ。嘗つて君の部下であったエベール副長だ。よもや見忘れはしまい。俺の方でもよく覚えていたよ。明智さん、こいつこそ、ルパンに相違ありません」
明智「アア、ではあなたは、あの手紙と同じ船で……」
エベール「そうです。上陸すると直様(すぐさま)、ここへやって来たのです。丁度夜会に間に合って仕合せでした」

ルージェール伯爵「オイオイ、いやにしんみりしてしまったじゃないか。何が悲しいのだ。俺の最後を憐んでくれるのかね。ハハハ……、つまらない取越苦労は御無用に願い度いね。俺は別に捕縛されることを承諾した覚えはないぜ」
 
エベール「貴様の承諾を求めているんじゃない。我々は確実にルパンを捕えたのだ。天変地異でも起らぬ限り、ルパンの運命は尽きたのだ」
 エベールが、やや感慨をこめて云った。
ルージェール伯爵「天変地異が起らぬ限り? フフン、ではその天変地異が起ったらどうするのだ」
 ドアの外の刑事達は、中の人達が、いつまでたっても出て来ないので、不審を抱き始めた。ドアに耳を当てて見ると、さい前まで微かに聞えていた話声もパッタリやんで、しいんと静まり返っている。変だ。
刑事「波越さん。波越さん」
刑事「総監閣下」
 彼等は口々に呼びながら、ドアを叩いた。だが、何の返事もない。
刑事「変だぜ。開けて見ようじゃないか」
 誰かが云うと、一同同意したので、手近かの一人が、ソッとドアを開いて、その隙間から中を覗き込んだ。
刑事「アラッ、これはおかしい。誰もいやしないぜ」
刑事「いないって? 一人もか?」
刑事「猫の子一匹いやしない」
 そこで、一同ドヤドヤと室に()り込み、黒天鵞絨の垂れ幕や絨毯をとり去って、壁や床を叩き廻って調べたが、どこにも秘密の出入口などはなかった。黒檀の大時計の中にも、秘密戸の仕掛けはない。廊下に面したガラス窓は閉じたままだし、その外には、刑事のある者が、今の今まで立っていたのだ。
 警視総監と、波越警部と、明智小五郎と、ルージェール伯と、浦瀬秘書官の死骸と、刑事達が知っている丈けでも五人の人物が、密閉された、どこに隠し戸もない部屋の中で、煙の様に蒸発してしまったのだ。溶けてなくなってしまったのだ。
 刑事達は狐につままれた様な、夢でも見ている様な、変な気持になって、きょろりと顔を見合わせたまま、突立っている外はなかった。

ルージェール伯爵「君はさっき何とか云ったね、そうそう、天変地異の起らぬ限り、俺は()がれられぬと云ったのだ。ところが、この俺にその天変地異を起す力がないと思っているのかね」
 
エベール「馬鹿なッ。俺は断言する。アルセーヌ・ルパンは確実に逮捕されたのだ」
ルージェール伯爵「ところが、俺は今この部屋を出て行こうとしているのだ」
 ルパンが傲然として云い放った。
ルージェール伯「エベール、長官の命令だ。ドアを開け」
 ルパンが昔日(せきじつ)のルノルマン刑事部長の(おもかげ)を見せて、厳然と命令した。
エベール「ハハハ……、つまらないお芝居はよせ。そのドアを開けば、貴様の自滅を早めるばかりだ。ルージェール大使の面目を失うばかりだ。その外には、警官ばかりではない、夜会のお客様がウヨウヨしているのだぜ。それとも、たって開きたければ、貴様自身で開いて見るがいい」
ルパン「よし、では我輩自身で開くぞ。異存はないのだな」
 云うかと思うと、已にドアの前に達していたルパンは、引手を廻すが早いか、サッとそれを開いた。
明智「ア、いけない」
 明智が異様な不安を感じて叫んだ時はもう遅かった。素早い怪盗は、室を飛出して、外からドアを閉めてしまった。
 だが、そこには、十数名の刑事が集まっている筈だ。逃げようとて逃がすものか。
波越警部「オイ、諸君、ルージェール伯を捉えよ。大使を逃がすな」
 
ルパン「ワハハ……、オイ、オイ、エベール君、明智君、日本の警官達は一体どこへ行ったのだね。ここには誰もいない様だぜ。夜会のお客様も一人もお出でなさらぬ。ハハ……、では左様なら、君達は暫くそこで我慢していてくれ給え」
 カチカチと外からドアに鍵をかける音。
エベール「畜生、ピストルだ。構わぬ、ぶっぱなせ」
 エベール氏が、明智の外には通ぜぬフランス語で怒鳴った。怒鳴ると同時に彼のピストルは煙を吐いた。続いて波越警部、明智と、三挺のピストルの釣瓶撃(つるべう)ちだ。二つ三つ四つ、見る見るドアの鏡板に穴があいて行った。
 だが、敵は一向倒れた様子がない。
 エベール氏と波越警部が、いきなりドアへぶつかって行った。合鍵を持たぬ彼等は、ドアを破って賊を追撃する外はないのだ。
 ルパンはどうなったか。彼は微傷だも負わず、ピストルの乱射をあとに、長い廊下を走っていた。
ルパンが無人の廊下を走りつくして、突当りの部屋に飛込むと、その暗闇の部屋の中に、影の様な五人の人物が、彼を待受けていた。五人とも燕尾服姿で、三人は外国人、二人は日本人だ。恐らくルパンの部下であろう。
 彼等はルパンを加えて総勢六人、全然無言のまま、ガラス窓を開いて、外の非常梯子の足溜りへ出た。そして、一人一人、音も立てず鉄の梯子を降りて行った。
 非常梯子の下に二名の刑事が見張りを勤めていることは先に記した。彼等はその時も、忠実にその役目を果していた。
刑事「誰だッ」
 
ルパンの部下「シッ。静かにし給え。怪しいものではない」
刑事「誰です。名をおっしゃって下さい」
 刑事は対手(あいて)の燕尾服に敬意を表して、言葉を改めた。
ルパンの部下「大使閣下です。ある重大な用件が生じたので、夜会の座をはずして、外出されるのです。閣下恐れ入りますが、この者達にお顔を見せてやって頂き度いのですが」
 云われるまでもなく、刑事の懐中電燈が人々の顔を一巡した。その真中に立っている一人は、確かに大使ルージェール伯爵だ。
刑事「これは失礼しました。」
 やがて、深夜の構内に響き渡るエンジンの爆音。地上を辷り行くヘッドライトの光。二台の自動車は、怪しき風の如く大使館を遠ざかって行った。

★驚天動地
明智「待って下さい。これはひょっとすると、僕達は飛んでもない目に会わされたのかも知れませんよ」
 明智が、廊下に面する窓の、血の色の薄絹をじっと見つめながら、口をはさんだ。
波越警部「何ですって?」
明智「ごらんなさい。あの薄絹の(むこう)の光が、何となく変です。若しや……」
 明智はつかつかとそこへ歩いて行って、いきなり薄絹を引ちぎった。
 すると、これはどうだ。窓の外は、さい前までの廊下がなくなって、薄汚い漆喰壁で塞がっているではないか。廊下の燈火(ともしび)だと思っていたのは、窓枠にとりつけた小さな裸電球であった。
 総監も、警部も、エベール氏も、刑事達も、「アッ」と叫んだまま立ちすくんでしまった。
 明智は何を思ったのか、部屋の中をグルグル歩き廻っていたが、大時計の前で立止ると小腰をかがめてそこの床を眺めた。
明智「アア、これだ。ここにスイッチがあるのだ」
 彼の指さす箇所を見ると、真黒な絨毯の上に、小さな突起物が出ている。
警視総監「スイッチとは?」
明智「実に驚くべき機械仕掛けです。たった三ヶ月程の間に、誰にも気づかれず、これ丈けの細工をしたとは、やっぱりルパンでなくては出来ない芸当です。彼奴(あいつ)は驚天動地の夢想を、易々と実行してのける怪物です」
警視総監「機械仕掛けとは?」
明智「さっき、ルパンの奴、天変地異を起して見せると豪語したではありませんか。そして、事実天変地異が起ったのです。彼奴は自から起した天変地異に隠れて、易々と警官の包囲を()がれたのです。ごらんなさい。この小さな白い押釦(おしぼたん)。これの一押しで、彼奴の所謂天変地異が起るのです。これがあればこそ、彼奴は最後の土壇場になっても、平気で笑っていることが出来たのです」
警視総監「すると、我々は今、実際二階にいるのだと云うのかね」
明智「そうです。恐らくこの釦を押せば、我々はここにじっとしていて、元の階下へ戻ることが出来ましょう」
 明智は云いながら、思い切って、床の釦を押した。
 
明智「ごらんなさい。我々は今、極く静かに下降しつつあるのです」
 
エベール「ルパンの考えつき相な思い切ったトリックです」
当局者はこの重大事件を、極秘に附し、新聞記事をも差止めたので、大使失踪事件は公表されずに終ったけれど、奇怪なる噂話は、蔭から蔭と忍び歩いて、忽ち全都に拡がって行った。
街の人々「あの黄金仮面の怪賊は、F国大使ルージェール伯爵が化けていたんだってね。しかもその大使が又偽物で、ルージェール伯爵実はアルセーヌ・ルパンだってね。滑稽じゃないか。ルパンがF国の代表者になりすまして、国書まで捧呈したんだぜ。あとにも先にも、こんなべら棒な話は聞いたことがないね」
 よると触ると、ヒソヒソ声で、奇怪千万な噂話だ。
 
★アトリエの怪
それから半月程の間、ルパン一味の行衛は(よう)として知れなかった。随って怪盗を慕って家出した大鳥不二子嬢の所在も、依然謎のままである。
 しかも一方東京市中の子供達の間には、皮肉にも、奇妙な遊戯が流行していた。
「黄金仮面して遊ばない?」
 子供達は、そんな風に云って、剣劇ごっこの代りに、黄金仮面ごっこを始めた。
 いつとも知れず、おもちゃ屋の店頭に、張り子の黄金仮面がぶら下る様になった。子供等はそれを一枚ずつ買って来て、てんでに怪盗黄金仮面に扮して、一種の鬼ごっこをやるのだ。
 (ちまた)()っぽけな黄金仮面が充満した。
 どこへ行っても、不気味な金色のお面があった。
 この不思議な流行は、市民に名状し難き不安を与えた。夕暮の街頭で、一寸法師の黄金仮面に出合って、ハッと息を飲む様なことが屡々起った。
 
 その夜、麹町区M町にある、川村雲山(かわむらうんざん)氏の邸宅には、同氏の一人娘絹枝(きぬえ)さんが、数人の召使と共に、淋しく主人の留守を守っていた。
 雲山氏は、人も知る東京美術学校名誉教授、我国彫刻界の大元老だ。夫人は数年前に物故(ぶっこ)して、家族といっては、令嬢たった一人の、淋しい暮しである。
 雲山氏は二日ばかり前、所用あって関西に旅行し、明日は帰宅する予定になっていた。丁度その夜、妙なことが起ったのだ。
雲山「絹枝、わしの不在中は、例の通り、必ずわしのベッドでやすむのだよ」
 
 雲山氏は、和風建築の母屋の横に、西洋館のアトリエを建て、寝室もその中にあるのだが、寝室とドア一重の広いアトリエには、丹誠をこめて刻み上げた仏像などが、沢山置いてあるので、その見張番をさせる意味で、いつも留守中は、この洋館の方のベッドで、令嬢をやすませる習慣になっていた。
雲山「このアトリエには、わしの命より大切なものがあるのだ。傭人達では信用が出来ません。是非お前に番をして貰わねば」
 
絹江「その大切なものというのは、お父さまのお刻みになった仏像のことですか」
雲山「それもそうだが、もっともっと、命に換え難いものがあるのだ。お前に云った所で分りはしない。兎も角、お客さんであろうが、召使であろうが、わしの留守中は決してアトリエへ入れてはならぬ。まして夜中に泥棒でも忍び込む様なことがあったら、必ず枕もとのベルを鳴らして傭人を呼び集め、泥棒を追払ってくれなくてはいかん」
 
絹江「マア、何て疑い深いお父さまだろう」
 
 その夜、絹枝さんは、何故か妙に眠れなかった。
絹江「何時かしら」
 と寝返りをして、枕もとの置時計を見ると、もう一時を過ぎていた。
絹江「オヤ、あれは何だろう?」
 絹枝さんは不審に思って、置時計の前を見た。そこにまだ封を切らぬ一通の封書が投出してあったからだ。
 封書の表にはただ「お嬢さま」と書いてある。裏を返して見たが、差出人の名前がない。
絹江「誰がこんなものを置いて行ったのかしら」
 彼女は何気なく封を切って、中の手紙を読んだ。
ルパン『この手紙を見た瞬間から、あなたはどんなことがあっても、絶対に声を立ててはいけません。身動きしてはいけません。若しこの命令に背くと命がありませんよ。』
 手紙にはこんな奇妙な文句が記してあった。
思い切って、枕元の呼鈴を押そうと、ソッと手を伸ばしかけると、部屋の隅に垂れている天鵞絨のカーテンが、まるで警告でもする様に、モクモクと動き始めた。
 黄金仮面!
 
ふと耳をすますと、いつの間にか、隣室のやかましい物音がやんで、底知れぬ静寂の中から、殆んど信じ得られぬ様な、(ほがら)かな(にわとり)の声が聞えて来た。
 閉じていた目を、毛布の中で開いて見ると、荒い網目を通して、早朝の薄白い光が感じられた。
 絹江は呼び鈴を鳴らした。
ひょいと、例の天鵞絨のカーテンを眺めると、突如、地獄の底からの様な、何とも云えぬ恐ろしい悲鳴が、部屋中に響き渡った。
 アア、何ということだ。あいつは、朝の光を恐れもせず、絹枝さんの挙動を監視する様に、同じカーテンの隙間から、ギラギラ光る顔で、じっとこちらを睨んでいたではないか。
 黄金仮面は、その不気味な顔に、ニタニタと異様な笑いをたたえて、徐々にベッドの方へ近づいて来るかと見えた。
雲山「オイ、絹枝、どうしたのだ。しっかりなさい」
 賊が彼女の肩を揺り動かしながら、太い声で云った。イヤ、賊ではない、聞覚えのある声だ。
絹江「お父さま、あれ! あれ!」
 
雲山「ハハハ……、絹枝、何を怖がっているのだ。ごらん誰もいやしない。ホラ、金のお面とマントが、カーテンに引掛けてあるばかりだ」
雲山「サア、もういい、もう何にもいなくなったよ。お前、さぞ怖い思いをしただろうね。併し、飛んでもないいたずらをする奴がある。黄金仮面なんて、いやなものがはやるね」
絹江「いいえ、お父さま、いたずらではありませんわ。本当の泥棒ですのよ。早くアトリエを検べて下さい。何か盗んで行ったに違いありませんわ。何だか、ゴトゴトゴトゴト、長い間やかましい物音がしていました。きっと色んなものを持って行ったのですわ」
 それを聞くと、雲山氏は、顔色を変えて、ドアに駈けより、それを開いて、アトリエの中を覗き込んだ。
 絹枝もベッドを降りて、父のうしろから、怖々部屋の中を見た。
絹江「アラ、どうしたのでしょう」
 思わず立てる驚きの声。
 不思議、不思議、アトリエの中は、昨夜寝る前に見た時と、少しも違わぬ。
雲山「お前、夢を見たのではあるまいね」
 雲山氏は、異様に青ざめた顔で、令嬢を振返った。
絹江「不思議ですわ。いいえ、決して夢なんかじゃありません。確かにひどい物音が続いていたのです。でも、何も盗まれたものがなければ、幸ですわ。何が何だか、まるで狐につままれた様ですけど」
雲山「何も盗まれたものはない。だが……」
絹江「アラ、どうなさいましたの? お父さまの顔真青ですわ。何か分りましたの?」
 
雲山「絹枝、お前は可哀相な子だ。ひょっとしたら、お前などが夢にも想像しなかった、恐ろしい事が起るかも知れぬ」
絹江「お父さま、あたし怖い。そんなことおっしゃっちゃいやよ」
 
雲山「絹枝、暫く母屋へ行ってくれぬか。わしを少しの間、一人で置いてくれぬか」
 
絹江「マア、どうしてですの」
雲山「今に分る。何でもないのだ。心配することはないのだ。わしが呼鈴を押すまで、どうかあちらへ行っててくれ。少し考えごとがあるのだ」
 
絹江「ほんとうに、どうかなすったのじゃありません? 大丈夫?」
雲山「ウン、大丈夫だ。サア、早くあっちへ行ってくれ」
 絹枝さんは、何となく心残りであったが、父の言葉にはさからわず、その場を立去った。
 母屋へ来て、茶の間で、女中達に、ゆうべの恐ろしい出来事を話していると、突然アトリエの方角から、バーンという異様な物音が聞えて来た。
 絹枝さんも女中達も、ハッと押し黙って顔を見合わせた。
女中「鉄砲の音じゃございませんか」
女中「エエ、アトリエの様だわね」
 
絹江「マア、お父さま!」
 案の定、そこには父雲山氏が、血を流して倒れていた。死体の側に転がっている一挺のピストル。
 
 同じ日の午前、川村雲山氏変死の数時間後、事件の現場には、検事局の人々、警視庁、所管警察の人々などが、今一応の取調べを終って、不思議な事件について語り合っていた。その人数の中には、黄金仮面担当の波越警部の顔も見え、特に呼ばれた民間探偵明智小五郎も混っていた。
 
明智「お嬢さん、お父さんはフランス語がお出来になりましたか」
絹江「いいえ、父は外国語は少しも出来ませんでした」
明智「あなたは?」
絹江「いいえ、ちっとも存じません」
波越警部「明智君、フランス語が、この事件に何か関係でもあるのかね」
 波越警部が(たま)りかねて尋ねた。
明智「ウン、関係があるらしいのだ。これを見給え」
 明智は右手に握っていた、もみくちゃの紙片を、引のばして一同に示した。成程フランス語らしい綴りの文字が、三行程並んでいる。だが、あいにくなことに、明智の外には、誰もフランス語を完全に読み得る者がなかった。
 フランス語の文句とは別に、紙片の一方の隅に、()の様な数字と妙な記号が記してある。
明智「さっき、この部屋の隅に丸めて捨ててあるのを、見つけたのだ。若しここの家族にフランス語の出来るものがないとすると、そして、昨日この部屋を掃除したとすると、この紙切れは、昨夜忍込んだ奴が落して行ったと考えることが出来るのだ」
 
波越警部「で、そのフランス語は、何が書いてあるのだね」
 
明智「それが、ちっとも分らないのだ。気違いの文章か、おみくじの文句みたいに、不得要領なことが書いてある。こっちの隅の数字と渦巻も分らない。分らない丈けに興味がある。ひょっとしたら何かの暗号ではないかと思うのだよ」
波越警部「それが賊の落して行ったもので、本当に暗号文だとすると、非常な手掛りだが……」
明智「イヤ、確かに暗号だ。僕は殆ど確信している。あとはためして見る丈けだ」
 
明智「僕の考えはこうなのです。川村雲山氏が、この部屋から何も盗まれなかったと知って顔色を変えたこと、それから令嬢に立去る様に命じたこと、この二つの一見不可解な事実が何を意味するか、先ずそれを考えて見なければなりません。部屋の中の品物が一つも盗まれなかったのは、川村さんにとっては、盗まれたよりも、もっと悪いことであったに違いない。川村さんは、賊の目的物が、このアトリエに並んでいる様な、ありふれたものでなく、もっと別のものであったことを知って、戦慄したのです。そして、その別のものが、果して無事であるかどうかを確める為に、令嬢に座をはずさせた。と考える外に解釈のしようがないではありませんか」
 
明智「アトリエ内の品物が一つも紛失していないとすると、川村さんが顔色が変る程心配したものは、人目につかぬ極く秘密な場所に隠されていたと想像する外はありません。川村さんがこのアトリエの隣室に寝室を設け、そこに電鈴を仕掛け、旅行する時は必ず令嬢をここで休ませることにしていたというのは、アトリエによくよく大切な品物があったからでしょう。それを他人に発見されることを極度に恐れたからでしょう。こう考えて来ると、アトリエのどこかに、秘密の隠し場所があるという僕の想像が、一層本当らしくなって来ます。
 川村氏は令嬢にさえ、それを打開けなかった。命にも拘る秘密なのです。現に令嬢を立去らせ、その隠し場所を改めた結果、命にかけて守っていた品物が、盗み去られたことを知って、川村氏は失望の余り、自殺したではありませんか。
 明かに自殺です。若し他殺だとしたら、犯人は何を酔狂に、兇器を現場に残して立去りましょう。イヤ、そればかりではありません。僕は川村氏の旅行鞄の中から、ピストルのケースを発見したのです。このピストルはピッタリそのケースと一致します。
 ところで、この川村氏が旅行中にさえピストルを所持していたことは一体何を意味するでしょうか。同氏が絶えずある種の不安にかられていたことを語るものではありますまいか。防がねばならぬ強敵があったか、それとも、いつでも自殺の出来る用意をしていたか、どちらにしても、命がけの秘密を持っていたことは確かです。
 想像をたくましうするならば、その川村氏の大秘密をルパンの黄金仮面がかぎつけて、それを盗み去った。川村氏は絶望の極、遂に自殺したという順序です。賊がルパンであったことは、この紙片のフランス語や、令嬢を脅かした黄金仮面の扮装から想像することが出来ます。
 川村氏は日本有数の彫刻家です。その人が命にかけて大切にしていた品物は、恐らく美術蒐集狂のルパンが、垂涎おく能わざるものであったのでしょう」

明智「で、あとはただ試してみるばかりです。僕の想像説が当っているかどうかを、実地について試して見ればよいのです。
 そこで、この紙片の数字と渦巻に意味が生じて来ます。これは賊が川村氏の秘密をかぎつけて、その隠し場所のキイを、心覚えに書きつけて置いたものと仮定するのです。そして、この仮定が当っているかどうかを、試して見るのです」
 
明智「僕はさい前から、この部屋のあらゆる部分を、入念に研究しました。そして、暗号の数字と一致するものは、あの暖炉(だんろ)のマントルピースのまわりに刻んである、飾りの玉の外にないことを確めました。アトリエに備えつけた暖炉にしては、あの飾りは不相応に立派です。それが先ず僕の注意を惹いたのですよ。
 あの玉の彫刻は、全部で十六箇あります。ところで、暗号にある数字は、六、二、十一、三の四種で、どれも十六以下です。この数字は、夫々(それぞれ)マントルピースの彫刻の玉の順位を示しているものではないでしょうか。
 イヤ、必ずしも、そうではないかも知れません。渦巻が曲者です。六と二の間にある渦巻は右巻き、十一と三の間にあるのは左巻きです。これは若しかしたら、あの玉を、右に廻し、左に廻すことを暗示しているのではないでしょうか。
 六番の玉を右へ、十一番の玉を左へ廻せということではありますまいか。
 すると、二と三は、どちらへ廻すのかしら。アア、そうだ。これは玉の順位を示すのではなくて、廻す度数を記したものかも知れぬ。六番目を右へ二廻転、十一番目を左へ三廻転。そうだ、どうもそうらしい」
 
 
そこで明智は、紙片(かみきれ)を片手に、ツカツカと暖炉に近づき、先ず右から始めて六番の玉型の彫刻を、グッと廻して見た。廻る廻る。彼の想像は適中したのだ。次に、十一番目の玉を左へ三度、グイグイと廻したかと思うと、カタンと妙な音がして、突然、暖炉の横の板壁が、音もなく観音開きになって、そこにポッカリと大きな黒い穴が開いた。
 
波越警部「やっぱりそうだ。何もない、空っぽだ」
明智「イヤ、空っぽじゃない。こんなものが落ちていた」
 手の平にのせて差出すのを見ると、五分にも足らぬ長橢円形の、扁平なピカピカ光ったものだ。金属ではない。布でもない。紙でもない。
 明智は、窓際の明るい所へ行って、それを光にかざす様にして、入念に調べていたが、何を気づいたのか、愕然として、日頃の彼に()げなき厳粛な表情で呟いた。
明智「本当かしら。信じられぬ。だが……アア恐ろしいことだ」
 
波越警部「オイ、明智君、どうしたのだ。何か分ったのか」
明智「ウン、僕は今恐ろしいことを考えたのだ。非常に恐ろしいことだ」
 日頃物に動ぜぬ明智が、声を震わせている。ただ事ではない。
 明智が惶しく電話室の所在を尋ね、令嬢の案内でそこへ走り去ったあとに、人々は素人探偵の異様な振舞にあっけにとられて、ただ顔見合せるばかりであったが、そこへ令嬢が戻って来て、
絹江「長距離を呼出していらっしゃいますの、少し手間取るけれど、どうかお待ち下さいます様にって」
 と報告した。明智は至急報を依頼して、先方が出るまで、電話室を離れず、イライラとそこに立ちつくしていたのだ。明智程の男をかくも昂奮せしめたのは、抑々(そもそも)如何なる重大事件であったか。
 明智が電話室から帰って来たのは、それから三十分以上もたった頃であった。

明智「皆さん、やっぱりそうでした。実に恐ろしい犯罪です」
波越警部「どうしたんだ。君は一体何を発見したんだ」
 
明智「盗まれた品物が分ったのだ。皆さん、驚いてはいけません。ルパンはアトリエから、国宝を盗み去ったのです。それも並々の国宝ではありません。国宝中の国宝、小学生でも知っている程有名な宝物です」
波越警部「なんだって? 君は何を云っているのだ。こんな一私人のアトリエに国宝が置いてある筈がないじゃないか」
 
明智「それが置いてあった。現に僕は今、奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)事務所へ電話をかけて、それを確めたのだ」
波越警部「エ、何ですって? 法隆寺? ではその国宝というのは……」
 
明智「金堂に安置してある、玉虫厨子(たまむしのずし)です」
波越警部「君、それは冗談ではないでしょうね。若し本当だとすると、実に容易ならん事件だが……それにしても、法隆寺では、この貴重な国宝がなくなっているのを、今まで気づかなかったのですか。小さなものではあるまいし、どうも少し変ですね」
 
明智「ところが、法隆寺の金堂には、別に異状はないのです。玉虫厨子はそこにちゃんとあるのです」
波越警部「ホホウ、すると君は……」
明智「そうです。偽物(ぎぶつ)です。何ヶ月かの間、法隆寺には巧みに出来た偽の玉虫厨子が安置してあったのです」
波越警部「偽物? ああ云う古代美術の偽物を拵えるなんて、不可能です。信じ難いことです」
明智「法隆寺事務所の管理者もそう云いました。あれが偽物だなんて、そんな馬鹿なことがあるものか。つまらないいたずらは止し給えってね。僕が電話でいたずらをしていると思ったのです。僕は管理者に、厨子の底を調べてくれる様に頼みました。若しやそこに、ルパンの例の虚栄心たっぷりの署名がしてないかと思ったのですから」
波越警部「それで、その署名があったのですか」
明智「管理者は暫くすると電話口へ帰って来ましたが、まるで声が変っているのです。ブルブル震えて何を云っているのだか聞取れぬ程でした。『A《アー》・L《エル》』の署名があったのです。しかも御叮嚀に『川村雲山氏に代りてA・L』と日本語で刻み込んであったのです」
 
明智「つまりこういうことになるのです。川村雲山氏は天才的な彫刻家であった丈けに、狂的な美術愛好癖を持っていた。愛好の余りその美術品を所有したくなるのは、無理もないことです。併し、雲山氏の場合は、不幸にして、それが金銭ずくでは所有出来ない国宝中の国宝だったのです。」
 
波越警部「で偽物の作者は、無論雲山氏自身ということになりますね」
明智「そうでしょう。あの精巧な美術品を作る為には、この密室で数ヶ月、或は数年の間、コツコツと仕事をしていたことでしょう。雲山氏の如き天才的美術家にしてはじめて企て得る悪事です」

波越警部「それにしても、密室に隠してあった品物が玉虫の厨子であることを知ったのだ。」
 
明智「この紙切れに種があるのだよ。例の密室を開く記号の上に、三行ばかりフランス語の文句が書きつけてある。ホラ、これだ」
 彼はその紙片をテーブルの上に拡げて見せた。
明智「訳すると、こんな風になる。『今夜、かの仏陀(ぶっだ)の聖堂を運び出せ。手段は予め()めた如くせよ。聖堂は例によって白き巨人に届けよ』というのだ。仏陀の聖堂というのはつまり寺院のことだが、寺院を運び出せというのは如何にも変だ。寺院なんて大きなものが運び出せる訳がない。僕は最初は、何かの隠語だろうと思っていた。ところが、さっき密室の床で、妙な(うるし)のかけらみたいなものを見つけた。一見して普通の漆ではない。素人にも非常に古いものであることが分る。そこで僕はハッと感づいたのだ。
 アトリエの主人公は美術界の老大家だ。その人がこれ程の仕掛けをして隠して置いたもの、又それが盗まれたと知って自殺しなければならぬ程重大な品物――仏陀の聖堂――古い漆――古美術蒐集狂のルパンと考えて来ると、さしずめ思い当るのは玉虫の厨子だ。誇大妄想狂のルパンが狙うもので、しかも持ち運びの出来る仏陀の聖堂といえば、あの国宝の外には一寸考え当るものがない。そこで、僕は兎も角も電話をかけて、それを確めて見たという次第さ」

★白き巨人
 国宝玉虫の厨子盗まる。しかもその盗賊は黄金仮面のルパンである。
 このまるで悪夢の様な出来事は、忽ちにして日本全国に知れ渡った。当局者は、あらゆる手段を講じて、事を極秘に附していたが、新聞記者は彼等の鋭い第六感によって、早くも事件の内容を察知し、「ルージェール伯即ちルパン」の一条に触れぬ範囲で、この大椿事をこまごまと報道してしまったのだ。
 アメリカなればリンチが叫ばれたかも知れない。温和なる日本人も、流石に激昂し、ルパンを捕えよ。国宝を取戻せの叫声が全国に湧上った。攻撃の的は警視庁だ。
「波越警部はどうした」
「明智小五郎は何をしている」とどこからともなく、非難の声が聞えて来た。
 全警察力を上げて、ルパン逮捕の網の目が、蟻の這出(はいで)る隙もなく張りめぐらされた。東京市内は申すに及ばず、殆ど全国の警察署にルージェール伯の人相書が廻った。停車場、船着場、税関、ホテル、旅館等、それと覚しき場所は漏らさず取調べられ、張込みがついた。そして五日、ルパンも、玉虫の厨子も、ルパンの恋人大鳥不二子も、数名の部下も、杳として行衛が知れぬのだ。
 
 明智小五郎は、今日も開化アパートの書斎にとじこもり、例の謎の紙片を前にして、思案に暮れていた。大敵ルパンに飜弄され、その上世間からは非難の声をあびせられ、何とも云えぬいらだたしさに悩まされていた。
明智「白き巨人、白き巨人、白き巨人」
 
 沈思する彼の前で、卓上電話がけたたましく鳴り響いた。
明智「アア又波越君に極っている。うるさいな」
 
波越警部「アア明智君、吉報だ。すぐ外出の用意をしてくれ給え。例の謎の白い大男が見つかったのだ」
明智「エ、白い大男って?」
波越警部「ホラ、例の暗号紙片の文句さ。白き巨人という奴さ。あいつがやっと見つかったのだ」
明智「もっと詳しく話してくれ給え。よく分らないが」
 
波越警部「部下の刑事が今電話をかけて来たのだ。戸山ヶ原の空屋ね、まさか忘れやしまい。君が黄金仮面と一騎打ちをした怪屋だ。僕は念の為にあの家のそばへ、刑事を一人張り込ませて置いた所が、刑事が云うのには、三十分程前、あの空屋から一人の西洋人が出て来るのを見た。無論怪しいと思って跡をつけた所、その西洋人は自動車で銀座へ出て、今カフェ・ディックへ這入った所だ。表に見張りをしているからすぐ来てくれという電話だ。君もそちらから直接行ってくれないか」
明智「ウン、行ってもいいが、それがどうして白き巨人なんだね」
波越警部「そいつが頭から足の先まで真白なんだって。白いソフト、白い顔、白い服、白いステッキ、白い手袋、白い靴とね。僕はそれを聞いてギョッとしたよ。こいつこそ問題の白き巨人なのだ、背も非常に高く、馬鹿に太った奴だという話だ」
明智「よし、行って見よう。カフェ・ディックだね」
 そして電話が切れた。
 明智は寝室に飛込んだかと思うと、五分程の間に自動車の運転手といった風体に変装して出て来た。羊羹色(ようかんいろ)になった黒セルの夏服、汚れた鳥打帽、大きな塵よけ目鏡(めがね)、赤革の長靴という出立ちだ。そして自動車を呼んで、客席へは乗らず、本物の運転手の隣へ腰かけた。
 十分の後、自動車はカフェ・ディックの十軒程手前で停車した。見ると、黒目鏡をかけ、つけ髭をつけ、古風なアルパカの背広を一着に及んで、黒の折鞄(おりかばん)繻子(しゅす)洋傘(こうもり)という、保険の勧誘員か、集金人みたいな中老人が、カフェの前をうろうろしている。
 明智は車を降りると、その老人に近づいて行って、ポンと肩を叩いた。
明智「波越君、(まず)い変装だなあ」
 
波越警部「アア、明智君か、静かに静かに、今白い奴が出て来るんだ」
 波越氏は五六間向うの、カフェの入口を目で知らせた。その入口の向側の軒下には、商店の手代(てだい)といった和服の男が、うろうろしている。波越氏の部下の刑事に相違ない。
 間もなく問題の白き巨人がカフェの外へ姿を現わした。如何にも白い。頭から足の先まで白粉(おしろい)で塗りつぶした様に真白だ。服を脱がせたら、皮膚も白子みたいに真白かも知れない。少くとも顔丈けは、白人にも珍らしい白さだ。
 身体も巨人の名に恥じぬ偉大なものであった。六尺以上の身長で、しかも角力(すもう)取みたいに肥太(こえふと)っているのだ。
 彼はカフェを出ると、車も拾わず、ブラブラと銀座通りへ歩いて行く。
 珍妙不可思議な尾行行列が始まった。先頭に立つのは白粉のお化け然たる肥大漢、それから十五六間あいだを置いて、アルパカ黒眼鏡の怪老人、赤い長靴の運転手、つづいて兵隊上りの番頭さんといった恰好の刑事君。

波越警部「あいつが果して暗号の白い巨人だとすると、根気よく尾行を続けて、家をつきとめさえすれば、ルパンの贓品の隠し場所が分る訳だ。イヤ、ルパンその人のありかも自然たぐり出せるというものだ。うっかり見失ったら大変だぜ」
 波越氏が小声で囁く。
明智「ウン、そりゃそうだが、あいつイヤに白いね。どうも少し白過ぎる様な気がする」
 明智はなぜか気のりがせぬ様子だ。
波越警部「白過ぎるって? それだから怪しいのだ。あの真白な出立ちに、何か僕等には分らない意味が隠されているのかも知れない」

 白き巨人は、白いステッキを打振り打振り銀座の電車道を横切ってそこの大百貨店に入って行く。
明智「変だぜ、あいつ尾行を悟ったのじゃないかしら。呑気らしく百貨店なんかへ入るのは」
波越警部「感づいたにしても、尾行をやめる訳には行かぬ。どこまでも執念深くつき纏って、あいつの隠れ家をつきとめなきゃ」
 巨人はエレベーターで屋上庭園に昇った。尾行者達も同じエレベーターの片隅に小さくなって、獲物から目を離さなかった。屋上庭園には、おびただしい群衆が、空を見上げて、何かを待っていた。
明智「アア、(やっこ)さん飛行機を見に来たんだ。あいつフランス人かも知れないね」
 その日は丁度フランス飛行家シャプラン氏の世界一周機が、東京の上空に飛来する当日であった。
 ラジオは、東海道の空を、刻々近づき来たるシャプラン機の位置を報道していた。
 東京市民は、この前人未到の壮挙を迎えて、湧き立っていた。ビルディングというビルディングの屋根には、人間の鈴なりだ。
明智「フランス人は恐ろしい国民だね。シャプランを生み、ルパンを生み」
 
波越警部「オイ、見給え、あいつが変なことを始めたぜ」
 波越氏が明智の腕を突いた。この忠実なる警察官に取っては、空の英雄よりも、地上の白き巨人が大切であった。
 見ると、白き巨人は如何にも変てこな事をやっていた。彼は屋上の突端(とっぱし)へ出て、どこから出したのか、両手に真赤な小旗を持ち、まるで旗信号でもする様に、しきりとそれを打振っている。その様は、丁度百貨店の真上にさしかかった飛行機に向って、歓迎の合図をしている様に見えて、実は必ずしもそうではなかった。彼の目は空を見ず、附近に(そび)え立つビルディング群のどれかに向けられている。その屋上の群集中の何人(なんぴと)かに向けられている。
波越警部「君、あいつは向側のビルディングの屋根にいる誰かに、合図をしているのだぜ。愈々(いよいよ)怪しい」
 
明智「フフン、妙な真似をするね」
 機影が空の彼方に没し、屋上の歓声も静まると、群衆は感激の言葉を交しながら、階下へと立去る。白き巨人もその人波に混って歩き出した。
 エレベーターが一階に止って、はき出された尾行行列の四人は、巨人を先に立てて、百貨店の出口へと進んで行った。
波越警部「オイ君、どうしたんだ。愚図愚図していたら、見失ってしまうじゃないか」
 波越氏がイライラして明智を引っぱった。だが明智は店内のツーリスト・ビュロー出張所の前に立止ったまま動こうともせぬ。
 そこの壁に美しいポスターが下っていた。外国人向きの日本遊覧案内だ。画面には富士山がある。厳島(いつくしま)神社の鳥居がある。振袖娘の舞姿がある。鎌倉(かまくら)の大仏様がある。
波越警部「オイ、明智君、しっかりし給え。何をボンヤリ見ているんだ」

明智「君、日本にはこんな大仏様がいくつあるか知っているかい」
波越警部「そんなことを知るもんか。サア、ポスターなんかあとにして、尾行だ。ここまで追跡して、今見失ったら、取返しがつかんじゃないか」
 波越氏はプリプリして云った。
明智「何だか気分が悪いのだ。尾行は君達二人でやってくれ給え。僕はもう帰るよ」
波越警部「困るなあ。そんなことを云い出しちゃ。君、本当に気分が悪いのかい」
明智「ウン、本当だ。(とて)も歩けない。あとはよろしく頼む。僕は車で帰るから」
 問答をしている間に、白い大男はズンズン歩いて行く、大分隔たってしまった。
 もうこれ以上愚図愚図してはいられない。
波越警部「じゃ、結果は電話で知らせるよ。大切にしたまえ」
 波越警部は、あきらめて、刑事と共に大男のあとを追って行った。
 警部を見送った明智は、柵の中にいる旅行案内係に近づいて何か忙しく尋ね始めた。その様子を見ると一向病気らしくもない。どうも変な鹽梅だ。
 それはさて置き、波越警部達は、あくまで執念深く、テクテクと巨人のあとをつけて行った。西洋人はやっぱり車に乗りもしないで、健脚にどこまでも歩き続ける。
 
大男はつい公園の前の帝国ホテルへ姿を消してしまった。ではホテルの泊り客であったのか。併し、ホテルを贓品の隠し場所にしているとは思われぬが。
波越警部「君、一寸尋ねるが、今ここを這入った西洋人は泊り客かね」
帝国ホテルのボーイ「エエ、そうですが」
 中年のボーイが、妙な顔をして、ジロジロと警部を眺める。無理もない、彼の服装はどう見ても集金人以上には踏めぬのだ。
 
波越警部「私は警視庁のものだが、一寸支配人に取次いでくれ給え」
 と、ポケットから名刺を出した。
 東京市民で波越鬼警部の名を知らぬものはない。ボーイは名刺を見ると、急に鄭重になって、早速支配人室へ案内してくれた。
 
波越警部「お客様は?」
支配人「さっきご出立になりました」
波越警部「御出立になった? そんな馬鹿なことはない。今朝お着きなすったばかりじゃないか」
 
支配人「でもご出立になったのです。つい今し方です。外からお帰りになると、私を呼んで、これから出立するからと、そのまま手ぶらでお出ましになったのです」
 
波越警部「手ぶらで? 車も呼ばないで? じゃ、荷物はどうしたんだ。大きなトランクがいくつもあった筈だが」
支配人「それは部屋に残していらっしゃいました。アア、そうそうお云い置きがあるのです。エエと、間もなく波越さんとおっしゃる方がお出でなさるから、荷物はその方にお渡し申してくれって」
波越警部「エ、エ、何だって?」

ボーイの合鍵でドアは開かれた。部屋に入って見ると、大きなトランクが三つ、これを見よと云わぬばかりに、入口のすぐ側に並べてあった。御叮嚀にも鍵穴にちゃんと鍵がさし込んである。

波越警部「畜生め、又一杯食わせやがった」
 
 トランクの中には、赤ん坊程もある大きなキューピー人形が手を拡げて、両方の目玉を真中に寄せて、人を小馬鹿にして笑っていた。トランク三つとも、同じ人形だ。

★闇の中の巨人
 波越氏は翌日登庁すると早速明智に電話をかけた。昨日の恨みを云うつもりであった。ところが明智は昨夜(ゆうべ)から帰らないとの返事だ。それから夕方までに、五六度も電話をかけて見たが、いつも留守だ。
 何とも云えぬ焦燥の内に、又一日がたって、その翌日の夕方、やっと明智のありかが分った。しかも今度は彼の方から、警視庁へ長距離電話をかけて来たのだ。電話は横浜の少し向うの神奈川県O町からであった。
波越警部「君はひどいよ。仮病を使って逃げ出すなんて。あれから僕は散々な目にあってしまった」
明智「やっぱりそうだったかい。あいつは偽物なんだね。」
波越警部「まあそれはいいさ。だが君はどうしてO町なんかにいるの? 無論例の一件についてだろうね」
明智「ウン、吉報だよ。正真正銘の白き巨人をつきとめたんだ。」
波越警部「その巨人というのは、O町にいるのかい」
明智「ウン、そうだよ。すぐ来てくれ給え。君が着く時分には、停車場へ行って待っているから。やっぱり変装して来た方がいいよ」
 
 停車場に着くと、例の運転手姿の明智が待受けていた。

波越警部「電話で詳しい様子が分らなかったが、白き巨人て一体どんな奴だね。どんな家に隠れているのだね。そして、そこにまだ贓品が置いてあるのかい」
明智「ウン、贓品は勿論、恐らくルパンも、大鳥不二子さんも、同じ隠れ家に潜伏しているのだ」
波越警部「エ、ルパンだって? そいつは大手柄だ。こんなに早く見つかろうとは思わなかった。それで一体どんな家にいるんだね。君はどうしてそれを探り出したんだね」
明智「マア、僕について来たまえ。今にすっかり分るよ」
 

波越警部「オイ、明智君、一体どこまで行くんだね。こんな方角には町も村もない筈だが、その巨人というのはどこに住んでいるんだい」
明智「もう僕等はそいつを見ているんだよ。暗いから分らぬ丈けさ」
 
波越警部「エ、見ているって。じゃこの辺にいるのかい」
明智「ウン、僕等は一歩一歩そいつに近づきつつあるのさ。もう少しだ」

波越警部「どうも分らないね。そいつは一体どこにいるんだね。僕の目には少しも見えぬが」
「見えないって? 見えぬことがあるものか。ホラ、君の目の前に立っているじゃないか」
 それを聞くと警部はギョッとして、一歩あとにさがった。

波越警部「君はこの大仏のことを云っていたのかい」
 波越氏はびっくりして尋ねた。丘の中央に奈良の大仏よりも大きいので有名な、O町名物のコンクリートの大仏様が安置してある。これなら明智に教えられずともよく知っている。


波越警部「変だな、君はこの大仏がルパンの仲間だって云うのかね」
明智「そうだよ。これがルパンの所謂白い巨人さ。見給え、如何にも白い巨人じゃないか」
 
波越警部「ああ君は恐ろしい男だ、するとこの大仏様が……」

明智「ウン、これが『空ろの針』なんだ。君は聞いたことがあるだろう。奴が奴の本国で、『空ろの針』と呼ばれた奇岩の内部に、巧妙な隠れ家を作っていたことを」
 
波越警部「空ろの針! エトルタの有名な空ろ岩のことだね、ルパンの美術館と云われた」
明智「そうだ空ろの針!……白き巨人……一方は空洞の巨岩、一方は空洞のコンクリート仏、この奇怪な符合を見給え。何という驚くべき空想だろう。
 二里四方から見えるという、この空に聳えた大仏様が、兇賊の最も安全な隠れ家、世にも不思議な美術館なのだ」
 
波越警部「だが、どうして君は……」
 
明智「もう大分以前からこの林の中に黄金仮面が出没するという噂があったのだ。近頃は関東地方一帯、そこにもここにも黄金仮面の怪談が転がっている。子供達がおもちゃの黄金仮面を被って飛び廻っている。誰も殊更らこの丘の怪談を注意するものはなかった。だが僕はその怪談を聞きのがさなかったのだ。なぜと云って、この丘にはコンクリートの大仏が聳えていることを知っていたからだ。僕は我ながら、余りに奇怪な着想に震え上った。だが、ルパンは世界一の魔術師だ。その着想が信じ難ければ、信じ難い程、却ってそれが事の真相に触れているのだ。僕はそこで、殆んど一昼夜、この丘の林の中をさまよった。そして、とうとう奴の尻尾を掴んだ」
波越警部「ルパンを見たのか」
明智「ルパンではなかった。だが明かにルパンの部下と覚しき男が、這入るのを見た。賊等はみんなが黄金仮面の扮装しているのだ。その金ピカの奴が、向うの大銀杏(おおいちょう)の根元の空ろの中へ這入って行くのを見た。賊はそこから大仏の真下まで十間程トンネルを掘りさえすればよかったのだ。すると、その上にがらんどうのコンクリートの倉庫が、サアお使い下さいと待っていたのだ」

明智「僕はルパンのズバ抜けた智慮が恐ろしくなった。あいつはひょっとしたら、この日本の大仏丈でなく、世界至る所に贓品美術館を持っているのではあるまいかと思うと、ゾッとしないではいられなかった。例えばね。有名な緬甸(ビルマ)大涅槃像(だいねはんぞう)だとか、ニューヨーク湾の自由の女神像だとか、そういう巨像の空洞は、ルパンの様な世界的巨盗の倉庫として、何とふさわしくはないだろうか」
波越警部「信じられん。まるでお伽噺だ」
 
明智「大犯罪者はいつもお伽噺を実行するのだよ。まさか『自由の女神』などがルパンの倉庫になっているとは思わぬけれど、ふとそんなことを考えさせる程、奴の魔術は奇怪千万なのだ」

波越警部「で、その銀杏の空ろというのは、一体どこにあるのだね」
明智「ホラ、あれだ、あすこの森の中の大入道みたいな黒いのがその銀杏だ」
 こ

明智「サア、この茂みに隠れるのだ。」
 二人はそこにしゃがんで、闇の老樹を見つめた。
 
明智「オヤ、変だぞ」
 明智は何故ともなく、警戒の気持になった。
 うつろの中から這い出したのは、果して黄金仮面であった。しかも一人ではない。次から次へ同じ衣裳の怪物が、あの世からの使いででもある様に、モクモクと湧き出して来た。

 見ていると、四人の怪物は、無言のまま、足音もなくこちらへ近づいて来る。なぜだろう。
そして、アッと思う間に、一飛びで、明智と波越警部のまわりを取り囲んでしまった。四つの白く光るものが、夫々黄金マントの合せ目から、ヒョイと覗いた。ピストルだ。
ルパンの部下「ハハハ……、とうとう罠にかかったな、明智小五郎」
 
ルパンの部下「連れは誰れだね。恐らくは波越捜査係長だと思うが。アア、やっぱりそうだ。こりゃ迚も大猟だぞ」
 
明智「こちらは武器はないのだ。騒がなくてもいい。僕達をどうしようというのだね」

ルパンの部下「暫く僕達の隠れ家の客になってほしいのだ。君達が自由に歩き廻っていることは、少々邪魔っけなのでね」

明智「それでは、案内して呉れ給え。君達の隠れ家を拝見しよう。僕等はルパン君にも逢い度いのだから」
 
 二三歩あるくと、明智の身体が独楽(こま)の様にすばやく廻れ右をして、一番先頭にいた賊の手元に飛び込んだ、何をする暇もなかった。アッと思う間に、一挺のピストルが明智の手に移っていた。
明智「サア、君達の(たま)が早いか。僕のピストルがこの男を倒すのが早いか」
 明智の左手は一人の黄金仮面の片腕をねじ上げていた。ピストルを取られた男だ。
 残る三人は同類の命を思って、立ちすくんでしまった。
 ジリジリと汗のにじむ睨み合いが続いた。明智のピストルは一人の賊の脇腹に、三人の賊のピストルは、隙もあらばと明智の胸板に狙いを定めて、闇の中に五人の影が化石していた。

明智「ハハ……、イヤ御苦労御苦労もういいんだよ、波越君さえ着弾距離の外へ逃げてしまえば、僕はおとなしくするよ」
 突然明智がピストルを下げて笑い出した。仮令武器を奪ったとて、残る三挺のピストルに敵対出来る筈はない。明智の巧みなトリックに過ぎなかったのだ。死にもの狂いの睨み合いで、賊の注意を一身に集め、その隙に波越警部を逃がす咄嗟の思いつきなのだ。
ルパンの部下「畜生め」
 明智が力を抜いたので、今まで腕をねじ上げられていた奴が、いきなり飛びかかってピストルを奪い返し、反対に明智の背中へ銃口(つつぐち)を押しつけた。
ルパンの部下「こいつは俺が引受けた。早く波越の奴を追駈けてくれ。逃がしては取返しがつかんぞ」(フランス語)


★大爆発
 大仏の胎内には天井からぶら下った、アセチリン燈がただ一つ、広い空洞をおぼろげに照らしていた。
 
 床に横わる太い鉄骨の上に、こればかりは非常に贅沢な羽根蒲団を敷いて、そこに二人の黄金仮面が腰かけていた。
 ひそひそと囁き交わす言葉の調子が、決して男同志の話振りではなかった。それに小柄な方の声が透き通る様に細いのは、女性である事を語っている。ルパン一味の女性と云えば不二子さんの外にはない。そうして不二子さんとこの様な睦言(むつごと)を囁き交わす男性は、ルパンの外にある筈がない。
 そこへ、地下道から、次々と、さい前の四人の黄金仮面が帰って来た。高手小手(たかてこて)に縛り上げられ、猿轡まではめられた運転手姿の明智小五郎を従えて。
 折角明智小五郎を(とりこ)にしたのも、何の甲斐もなかった。逃げ帰った波越警部は大仏襲撃の警官隊を組織して、時を移さず引返して来るに極っている。最早この隠れ家を捨てて立退く外はない。だが、立退くと云って、目立ち易い異国人の一隊がどこへ立退く先があるだろう。
 日頃のルパンであったら、ドジを踏んだ四人の部下を、こっぴどく叱り飛ばしていたに違いない。又仇敵明智小五郎を面前に引きずり出して、得意の毒舌をふるったことでもあろう。だが今は流石のルパンもそれどころではなかった。一刻を争う危急の場合だ、一秒を惜しんで、前後の所置を考えなければならぬ。

ルパン「自動車を二台、いつもの所へ用意して置け。それからこの荷物を運び出すのだ」(フランス語)
 
ルパンの部下「明智の奴はどうしましょう」
ルパン「その辺の鉄骨へ縛りつけて置け。俺は血を見るのは嫌いだ。併しこの黄色い悪魔丈は我慢がならん。荷物を運び出したら爆発薬の口火に点火して置くのだ」
 鉄骨に縛りつけられた明智は、奇妙な唸り声を立てて、未練らしく、もがき廻った。
 まぶかに冠った運転手帽、猿轡の上から鼻と口とを覆った広いハンカチ、暗いカンテラの光では、殆んど顔も見分けられぬ、みじめな姿だ。若しルパンの心に少しでも余裕があって、明智の帽をとり、猿轡をはずして見たならば、この物語の結末は、もう少し違ったものになっていたかも知れないのだが、逃亡に気をとられた彼は、明智の所置を考える丈がやっとだった。
ルパン「サア荷物を運び出すのだ」
 ルパンと二名の部下と不二子さんまでが手伝って、五つばかりの荷物を、窮屈な地下道へと運び始めた。
        
 波越警部が十数名のO警察署員を引連れて大仏の丘を上って来たのは、それから二十分程後、丁度ルパンの一味が自動車へ荷物を積み終って、出発しようとしている時であった。
刑事「ア、エンジンの音じゃないか。こんな所に自動車なんて変だね」
波越警部「賊が逃亡しようとしているのかも知れない。君、確めて呉れ給え」
 波越氏が命令を下した。
 と、その言葉が終るか終らぬに、人々は突如として、大地のくずれる様なはげしいショックを感じた。同時に、地上の小石まで見分けられる白昼の火光、何とも云えぬ恐ろしい音響。
「ワアッ」
 人々はその一刹那の恐ろしくも美しい光景を、長く忘れる事が出来なかった。
 奈良の大仏よりも大きいというコンクリート仏が、真二(まっぷたつ)に裂けて、火山の様に火を吹いたのだ。
 人々は思わず腹這いになった。大仏からは一町も隔っていたけれど、背中一面時ならぬ雹の御見舞を受けた。
 だが、出来事は一瞬にして終った。目もくらむ火光が消え去ると、闇が二倍の暗さでおしかぶさった。耳も(ろう)する爆音のあとには、死の静寂が帰って来た。
 
 さい前賊の自動車を確めることを命じられた一巡査は、単身林の彼方(あなた)に走り去ったが、その他の一同は、波越警部を先頭に、手に手に懐中電燈をかざしながら、爆破された大仏の台座の方へ進んで行った。
 近づくに従って、大きなコンクリートの塊りが足の踏み場もなく、ゴロゴロと転がっていた。
「オヤ、こんなものが落ちていますぜ」
 一人の巡査が長靴の片足を振って、波越氏の懐中電燈の光にかざして見せた。余り上等でない赤皮の長靴だ。
 警部は一目それを見ると、ギョッとして立ちすくんだ。確かに見覚えがある。運転手に変装した明智がはいていた長靴に相違ない。
 
 波越氏にとって、ルパンの逮捕などより、明智の死の方が、どんなに重大問題であったか知れない。彼は何とも云えぬ激情の為に、ブルブルと震えながら、物を云う力もなく、いつまでもそこに立ちつくしていた。
        
 三台の自動車が夜の京浜国道を、風の様に疾駆(しっく)していた。先の二台はヘッドライトその他のあらゆる燈火を消して、黒い魔物の様に見えた。あとの一台は明らかに警察自動車だ。
 
先頭の車はルパンがハンドルを握り、大鳥不二子さんと、今一人賊の部下が同乗していた。三人とも黄金仮面の扮装のままだ。
 次のオープンカーは茶箱の様な贓品の荷物を満載して、二名の部下が乗っていた。残る二名は日本人であったから、首領と別れて別の方向に身を隠したのであろう。
 
不二子「あなた行先の心当りがおありになって?」(フランス語)

ルパン「当てなんかありゃしない。だから一分でも一秒でも、逃げられる丈逃げるのだ。最後の一秒にどんな奇蹟が現われぬとも限らぬ。失望してはいけません。ごらんなさい。僕はこんなに元気ですよ」
 
 突然、うしろに銃声の様なものが聞えた。さては警察自動車が発砲を始めたのかと、驚いて振向くと、アア万事休す、第二の自動車がパンクしたらしく、酔っぱらいの様によろめいている。とうとう、命がけで蒐集した美術品を放棄しなければならぬ時が来たのだ。

ルパン『エエクソ、泣くなルパン。あきらめろ、あきらめろ、美術品は何度でも蒐集出来るんだ、部下の奴等はあとから貴様の腕で救い出せばいいじゃないか』
 ルパンは我心に云い聞かせながら、目をつむってあとの車を見捨てた。無論警察自動車は瞬く内に破損自動車に追いついて、贓品を取戻し、二人の黄金仮面を逮捕した。
 だがそれに手間どっている間に、彼等は忽ちルパンの車を見失い、その追跡を断念しなければならなかった。ルパンと分っていたら、第二の車を見捨てても、それを追ったであろうが、警官達には黄金仮面の真偽を見分ける力がなかった。
 それから何分かの後、ルパンの自動車はやや速力をゆるめて、東京市内の淋しい町を縫って走っていた。

不二子「ねえ、あなた、あたしもう力が尽きてしまいましたわ。こんなことをして、いつまでさまよっていたところで、ガソリンがなくなると一緒に、あたし達の運命も尽きてしまうのじゃありませんか。ねえ、もうあきらめましょうよ。二人手を引合って天国へ行きましょうよ」

ルパン「いけない。断じていけない。僕がいいというまでは、口の中の袋を()んではいけませんよ。僕の力を信じて下さい。これしきの苦境がなんです。僕は千度も出逢ったことがある。そしてその度毎にこの力で切り抜けて来たのです」
 ルパンが妙なことを云った。口の中の袋とは一体何を意味するのであろう。
 それは一瞬にして人命を断つ恐ろしい毒薬を包んだ厚いゴム製の豆粒程の袋であった。その毒嚢(どくのう)を、ルパンも不二子さんも、大仏の胎内を出る時から、口中に含んでいたのだ。ルパンは決してそんな弱気な男ではなかったけれど、恋人の(ねがい)もだし難くて、つい同意してしまったものである。

ルパン「不二子さん、僕は今非常なことを考えている。明日は十八日でしょう。それをやっと今思い出したのです。分りますか。アア、考えても胸がドキドキする。恐らく僕の生涯での大冒険だ。僕は逃亡の手段を発見したのですよ。実に危険だけれど、うまく行けば僕等は一飛びに追手のかからぬ場所へ逃げられるのです。失敗すれば可愛い不二子さんと心中だ。いずれにしてもその外に、採るべき手段は絶対にないのです」

ルパン「僕の力を信じて下さい、やっつける。必ずやっつけて見せる。僕等は丁度三人だ。これも非常に都合がいいのです」
 三人というのはルパンと不二子の外に、その車にはもう一人の部下の黄金仮面が乗っていたからだ。

★落下傘
 翌十八日は、フランス飛行家シャプラン氏の世界一周機が、郊外S飛行場を出発して、所謂飛石伝(とびいしづた)いの航路で、太平洋横断の壮途(そうと)に向う当日であった。
 離陸予定は早朝五時、夜の明ける前から、S飛行場は見送りの群衆で埋まっていた。
シャプラン氏一行三人は、最後の機体点検を終って、機上の人となった。
 まだ薄暗い早朝ではあったし、渦巻き返す騒擾の為に、不思議に注意力を失った人々は、誰一人それを疑う者はなかったけれど、シャプラン氏を始め、送別の辞を受ける時も、乾盃の折にも、天空の勇士の無造作と云えばそれまでだが、飛行帽を冠ったまま、飛行眼鏡をかけたままで押し通したのは、考えて見れば、何となく異様なことであった。
 殊に一行中一番小柄な飛行士は、よほど人嫌いと見えて、殆んど最初から機体の蔭に隠れて顔を出さず、点検もすまぬ内に操縦席へ飛込んで、出発まで一度も顔を出さなかったのは、何ともいぶかしい次第であった。
 だが、熱狂する群衆は、そんなことには少しも気附かず、うなり出したプロペラの響に、声をからして万歳万歳を叫んでいる。
 やがて一際高まる歓呼の声と共に、飛行機は、平坦な滑走路を、ユラユラと左右に揺れながら少しばかり走ったかと思うと、夢の様に、もう空中に浮んでいた。鳴りもやまぬ万歳の声、飛行機を追って「ワアッ」とばかり津波の様に押しよせる群衆。
 と、不思議なことが起った。一路北方に向うものとばかり思っていた群衆の頭上を、シャプラン氏の飛行機は、低く旋回し始めたではないか。
 名残りを惜しむ意味かしら、それとも機関に故障でも起ったのではあるまいかと、群衆は鳴りをひそめて、空を仰いだ。
 少し高い樹木には、ぶっつかりはしないかと危まれる程、低く飛んでいるので、操縦席のシャプラン氏の姿なども、手にとる様に眺められる。
 とみると、これはどうしたことだ。シャプラン氏の顔が金色に光っている。いや顔ばかりではない、全身がまばゆい金色に包まれているではないか。折から雲を離れた朝日が、それに映えて、飛行家の全身が黄金仏の様に、キラキラと輝き渡った。
「黄金仮面――、黄金仮面」
 群衆の間に奇怪なる呟きが起り、瞬く内に空中の悪魔を罵る怒号と変って行った。シャプラン氏はいつの間にか、あの恐ろしい黄金仮面と形相を変えていたのだ。群衆の頭上を嘲笑(あざわら)うが如く旋回しているのは、兇賊アルセーヌ・ルパンであったのだ。
 狼狽した警官達は、あてもなく右往左往した。群衆は怒濤(どとう)の様にもみ合った。女子供の泣き叫ぶ声が至る所に湧き起った。
 臆病な人々は、空の兇賊が今にも爆弾を投下するが如くに逃げまどった。
 機上では金色の飛行士が、片手を上げて、「おさらば」をしながら何かわめいていた。本物のシャプラン氏がこんな馬鹿馬鹿しい真似をする筈はない。いつの間にか人間のすり換えが行われていたのだ。太平洋横断の勇士は、兇賊アルセーヌ・ルパンと早変りをしたのだ。
        
 機上では、シャプラン氏に化けおおせたルパンの黄金仮面が、手を振りながら、叫んでいた。
ルパン「日本の淑女紳士諸君、長々お邪魔をしました。ではおさらばです。明智小五郎という日本の名探偵の為に、僕の計画はすっかり齟齬(そご)したけれど、僕は最後の土壇場で、あいつをこっぱ微塵に粉砕してやった。殺生嫌いな僕が、この挙に出たのは、よくよくのことと思ってくれ給え。明智君の死体は、O町の大仏の廃墟を探せば見つかるに相違ない。それからシャプラン君一行三人には、とんだ迷惑をかけて、恐縮している。諸君がこの飛行機の納められていた格納庫の隅っこを検べたら、猿轡をはめられたシャプラン君その他を発見することが出来るでしょう。
 僕は失敗した。だが、少しも後悔などしていない。復讐はとげたのだ。それから……諸君、これを聞いて呉れ給え。僕はね、千の美術品よりも尊い宝を手に入れたよ。外でもない、大鳥不二子さんだ。僕は今この可愛い恋人と一緒に、死なば諸共の空の旅に出発せんとしているのだ。愉快、愉快、……では諸君、おさらば」
 
 演説が終ると、今度はうしろの席の不二子さんに、通話管で話しかけた。
ルパン「不二子さん。もう大丈夫だ。口の中のものを吐き出してしまいなさい。僕はとっくにあのゴム玉を靴の底で踏みつぶしてしまったよ。空ではあんなもの必要がないのだ。命が()らなかったら、この飛行機が殺してくれるんだからね。ハハハハハハ」
 飛行士F氏に化けた不二子さんは、それを聞くと、思い出した様に口の中の小さなものを吐き出した。
 飛行機は旋回を終って、徐々に高度を高めながら、北方をさして速力を加えていた。
 突然、最後方のシートから、爆発する様な笑い声が起った。それが余り高い声だったので、プロペラの音に消されながらも、前方のルパンを振向かせた。見ると、機関士に化けた部下のKが、飛行眼鏡の下を口ばかりにして、ゲラゲラと笑っているではないか。
 一体全体何事が起ったのだ。Kの奴気でも違ったのか。
 ルパンは気がかりなままに、通話管を取って耳に当てた。訳を話せという合図だ。
 Kはまだ笑い続けながら、同じ通話管を取って口に当てた。すると、ルパンの耳に突如として雷の様な笑い声が響いて来た。
明智「ワハハハ……、あなた方はとうとう毒薬のゴム袋を吐き出しましたね。僕はどんなにそれを待ち兼ねていたでしょう。僕は今こそ云い度いことが云えるのだ。ところでルパン君、僕は君のうしろから、ピストルの狙いを定めているのだぜ。この意味が分るかね」

ルパン「貴様Kじゃなかったのか。一体誰だ」
 
明智「誰でもない、たった今君が弔辞(ちょうじ)を述べてくれた明智小五郎だよ」
 飛行機がグラッと傾いた。ルパンが如何に驚愕したかがよく分る。
明智「君は僕を爆発薬で殺した積りだろうが、それは飛んでもない間違いだぜ。あれはね。僕の着物を着せられた、君自身の部下だったのだよ。つまりK君だったのさ。気の毒なことをしてしまったね。僕はまさか君があんな人殺(ひところし)をしようとは思わなかったのでね」

 あの時三人の賊が波越警部を追駈けている間、明智は賊のKと二人切りになった。彼はその機会をとらえて、驚くべき芝居を仕組んだのだ。ピストルは敵の手にあったけれど、一人と一人なら武器はなくとも、腕に覚えの柔術で、相手を叩き伏せ、黄金衣裳をはぎ取って、自分の運転手服と着換えさせ、猿轡をはめて、賊を明智小五郎に仕立て上げる位のことは、何の造作もなかった。
 そうして、明智自身は賊から奪った黄金仮面、黄金マントでルパンの部下になりすまし、逃亡の自動車に同乗して、隙もあらば引捕えんと、虎視耽々(こしたんたん)機会を狙っていたのである。
 だが残念なことには、ルパンも不二子さんも例の毒嚢を口に含んでいる。迂闊に手出しをしようものなら、忽ちゴム袋を噛み破って、自殺されてしまう。ルパンは兎も角として、不二子さんを殺してしまっては取返しがつかぬのだ。
 そこで、あくまでルパンの部下のKになりすまし、首領の命を奉じてシャプラン氏その他を手ごめにし、飛行服を掠奪(りゃくだつ)するお手伝いまでやってのけた。

 飛行機は、迷い鳥の様に、止めどもなくフラフラと揺れ傾いた。不二子さんが思わず悲鳴を上げた程である。

ルパン「負けた。明智君、俺の負けだ。世界の大賊アルセーヌ・ルパン、謹んで日本の名探偵に敬意を表するぜ。だが、そこで君は、一体俺をどうしようというのだね」
明智「飛行機を元の飛行場へ着陸させるのだ。そして、不二子さんを大鳥家に返し、君はエベール君の(ばく)につくのだ」

ルパン「アハハハ……、オイオイ、明智君、そんなごたくは陸上で並べるがよかろう。ここは君、一つ間違えば敵も味方も命はない、何百メートルの雲の上だぜ。ピストルなんてけちな武器は何の力もありゃしない。若し君がそれを発砲すれば、飛行機は操縦者を失って、忽ち墜落するばかりさ。ハハハ……、雲の上では、どうも俺の方に()がある様だね」

明智「では、君の方では、一体僕をどうする積りなのだ」
ルパン「知れたこと、北の海の無人島へでも連れて行って、俺の腹がいえる様にするのだ」
 氷山の上かなんかへ、置去りにする積りかも知れない。

ルパン「ハハハハハハ、オイ明智君、君はひどく困っている様だね。何とか云わないかね。君の智恵はもうそれ切りなのかい」
 
明智「ではルパン君、君の逮捕はあきらめよう。その代り、君の計画は最後の一つまで、すっかり放棄しなければならぬ。君は我々の国から、一物をも奪い去ることは出来ないのだ」

ルパン「エ、何だって?」

明智「僕はね、君の唯一の収獲であった不二子さんを、君の魔の手から取戻そうというのさ」
 その言葉が終るか終らぬに、飛行機がグラグラと揺れて、甲高い悲鳴が下界へと下って行った。二つの黒い塊りが、大空にもんどり打って、砲弾の様に落下した。嫌がる不二子さんを小脇に抱えた明智小五郎が、身を躍らせて飛行機を飛び降りたのだ。
 だが、決して自殺を計った訳ではない。明智の背中にも、不二子さんの背中にも、パラシウトの綱がしっかりと結びついていた。
 噂の伝播(でんぱ)は飛行機の速度よりも早く、下界の人々は、今頭上を飛んでいるのが怪賊黄金仮面の飛行機であることを知っていた。その怪飛行機から、二つのパラシウトが湧き出したのを見ると、騒ぎは一入(ひとしお)烈しくなった。
 家々の屋根には、町中の人が鈴なりになって、大きな口を揃えて空を見上げていた。白い国道には、十何台の自動車が、飛行機のあとを追って疾駆していた。その大部分は、新聞記者とカメラとを積んでいるのだ。
 二つの落下傘が、あとになり先になり、巨大な水母(くらげ)の様に、フワリフワリと落ちて来る光景は、世にもすばらしい見ものであった。しかも、その下にぶら下っていたパラシウタアが、死んだとばかり思われていた名探偵明智小五郎と、怪盗ルパンの恋人として誰知らぬものもない大鳥不二子嬢であったのだから、翌日の新聞が如何に賑ったかは容易に想像出来るであろう。

ルパン「ルパンは逸したけれど、同類は悉く就縛したし、国宝を初め美術品も取戻したし、最後に不二子さんさえルパンの魔手を逃がれたのだから、先ず先ず、今度の戦いは僕の勝利といってもいいだろうね。だがルパンは慣れぬ異郷の戦いなのだから、そこにいくらかハンディキャップをつけてやらなければ可哀相だね」
        
 ルパンの飛行機は、そのまま数日の間消息を断っていたが、ある日太平洋航行中の汽船が、海面に漂うシャプラン氏の飛行機を発見したという新聞電報が人々を驚かせた。
 ルパンは太平洋の藻屑(もくず)と消えたのであろうか。イヤイヤ、一筋縄で行かぬ曲者のことだ。これまでもあった様に、死んだと見せかけて、その実世界のどこかの隅で、又々大仕掛けな悪企みを計画していまいものでもないのである。

エンディングソング『青空』by song river


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