第1話

文字数 1,552文字

「私を月まで飛ばして」
 永見妙

「やだ、あなた、ここにコーヒを置かないでっていつも言ってるでしょ。この机に置くと、あの子が遊んで倒しちゃうんだから」
「ああ、すまない。」
「よくないのよねえ。最近どうもあの子ったら家中を歩き回って、興味の惹かれるものなんでも、あの肉球で叩いちゃうんだから」
「きっと、この間の花瓶を倒して僕らが大慌てになったのに味をしめたんだろうさ」
「そうかもしれないわね。ああ、それとこれ、書斎のデスク下に落ちてたわよ。大事な資料なんじゃないの?」
「ああ、そんなところにあったのか。探していたんだ。ありがとう」
「ねえあなた、最近仕事のし過ぎなんじゃない? わざわざダイニングに持ってきてまでするなんてよっぽどだわ」
「仕方ないだろ、仕事が立て込んでるんだ。初めて大手の取引先と契約が取れて、みんな仕事に追われてる」
「仕事するのはいいことだけど、しっかりと休憩もしてほしいって話よ。あなたこの頃、疲れてるようだもの」
「ああ、もう二、三週間もすれば落ち着くから、それまでの辛抱だ。すまないが、そこの窓を開けてくれないか? そう、デッキのところの」
「今日は少し風が吹いてて気持ち良いものね。…休憩がてら、少しデッキで話さない?」
「ああ、良いよ。書類も一段落着いたしね。それにしても、今日は夜風が気持ち良いな」
「そう。…ねえ、あなた一昨日が何の日だったか覚えてる?」
「一昨日? そうだな、同僚との会議で帰りが遅くなった日か?」
「いいえ、その日は私と三番街に新しくできたカフェに行くって約束だったじゃない」
「ああ、そうか、そうだった。すっかり忘れてしまっていたよ。すまない」
「あなた、本当に覚えていたの? いくら仕事が忙しかったからって、デートすっぽかすのはあんまりなんじゃないかしら。私、結構楽しみにしてたのよ」
「わかってるさ。三番街のカフェへはまた今度、必ず埋め合わせをするよ。僕も悪かった。だからそれで機嫌を直してくれよ」
「あなたっていつもそればっかりね。そうやって、いついつに埋め合わせするだとか、どこどこに代わりに行くだとか、代わりになるものを提示すればいいと思ってるんだわ。… はぁ、嫌になるわ。ほんとなんでこんな人と生涯を誓ったりなんかしちゃったのかしら」
「僕だって…僕だって本当はそうしたかったさ、心の底からね。でも周りが、環境が、そうはさせてくれないんだ。」
「」
「できることなら、一昨日の朝に戻りたいよ」
「あらそう? 戻ってどうするの?」
「もちろん、朝イチの着信を無視する。それのせいで僕は朝大忙しで会社に行く羽目になったんだ。あれを無視して、君とデートに行くさ」
「ふーん、それで、私とデートに行って?」
「あのカフェで君の食べたがってたパンケーキを一緒に食べるんだ。食べた後は近くのブーランジェリーへ行って、シナモンロールを買う」
「それから?」
「一時間ほど海までドライブをして、海辺で君と写真を撮る」
「それから?」
「オーシャンビューで有名な近くのホテルの最上階でディナー。パエリアや君の好きなクリームブリュレだ」
「その後は?」
「ホ、ホテルの展望デッキで夜景を眺める」
「それで?」
「それで…僕は…君と手を繋ぐ」
「繋いで?」
「繋いで…繋いでそれからハグだ」
「ハグをして?」
「ハグをしてから…キ、キスを君にする」
「あら、それから?」
「そ、それから、僕は…」
「あなたは? どうするの?」
「僕は、その、なんていうか…悪かったよ」
「あら、あなたは悪いのね? それで?」
「その、要するにというか、言い換えると、君を愛してるんだ」
「ふふ、よろしい。ねえ、あなた」
「なんだい?」
「最高級ホテルで見れる月も素敵だろうけど、私はこの小さなデッキから見える月だって好きよ」
「ああ、その通りだね。僕もそう思うよ」
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