大阪の江戸煩い

文字数 1,999文字

 時は明治。文明開化の音が鳴り響く中、邦人達は異国の文化を凄まじい速さで自分たちの生活に取り入れていった。
 そんな時代、医学も東洋のものから、西洋のものへと時が経つにつれ移行していた。

「せんせぇ。俺……問題ないですよね?」
「問題がないかどうかを今調べているんだ。黙っていなさい」

 大阪にある、軍に所属する医務室で、一人の青年校が下半身を下着姿にして椅子に座っている。
 青年校から先生と呼ばれた男、堀内は木の棒で、青年校の膝の下あたりをしきりに叩いていた。

「ダメだなぁ。青木君。残念ながら、君は江戸煩いだ」
「そんな! せんせぇ!! なんとかならんのですか!?」
「なんとかなっていたら今頃あんなに墓地ができてやいないよ。可哀そうだがなぁ。邦人なら誰でもかかる病気だ。温泉にでもゆっくり浸かってくるといい」

 堀内からそう言われた青年校、青木は、口を一文字にして立ち上がると、軍服のズボンを履き、堀内に一礼してから部屋を出ていった。
 それを見送りながら、堀内は机の上にカルテを書き込んでいく。

「しかしなぁ。病原菌ってものが悪さをするというが、いっこうに見つからん。まいったなぁ」

 カルテを書き終えると、堀内はシャボンを使って手を入念に洗い、それからうがいをした。
 江戸煩いを含め、病気というのは病原菌というものが人から人へ移ることによって発症するというのが西洋医学の考えだった。
 きちんと手を洗い、うがいをすればその菌も悪さをする前に除去できるというのも、西洋医学が見つけた画期的な予防方法だ。

「兵士の中で蔓延(まんえん)しているのだから、手洗いうがいをもっと厳しく指導せにゃならん。転地療法だって、効果のほどははなはだ疑問だしなぁ」

 当時江戸煩いにかかった兵士たちは、温泉や山地へ向かい療養するのが一般的だった。
 その効果は限定的で、治ることなく、戦地へ赴くことも出来ずにその命を散らしていった兵士は数千を超えた。
 軍医である堀内は、どうにかしてこの病を治す方法がないかと年中頭を悩ませていた。
 そんなある日、助手である大飯が、堀内に向かって話を振った。

「堀内先生。聞きましたか? 神戸監獄の話」
「なんだね。大飯君。藪から棒に。神戸監獄といやぁ、あそこも江戸煩いで囚人たちがどんどん死んでいっているって話くらいしか知らないね」
「それが先生。囚人たちの江戸煩いがすっかり良くなったそうですよ!」
「なんだって、君。詳しく聞かせなさい」

 大飯の言うことには、神戸監獄の囚人たちに白米ではなく麦飯を食べさせるようにしたところ、これまで多くの囚人たちがかかっていた江戸煩いが、鳴りを潜めたのだとか。
 それを聞いた堀内は、右手を顎に当て、唸るように考え込んでしまった。
 というのも、麦飯を食べさせることが江戸煩いの治療法になるというのは、民間で噂された話だ。
 多くの西洋医たちがその話をよもやま話と決めつけ、堀内もその一人だった。

「こりゃあ、ちょっと調べてみないといかんなぁ。大飯君。青木君という兵士を呼んできてくれたまえ」
「青木ですね。分かりました」

 しばらくして、先日江戸煩いと診断された青木が堀内の元に顔を出す。
 その顔は青白く、とても経過が良いとは思えない状態だった。

「せんせぇ。俺に用とはなんでしょう」
「うん。君に、神戸監獄に行ってもらいたい」
「なんですって!? せんせぇ! 俺は何も悪いことなんて! これっぽっちもやってないですよ!!」
「ああ。すまん。何も君を囚人にしようというんじゃないんだ。実はね――」

 堀内に言われ、青木は神戸監獄へ向かった。
 そして一週間が経ち、再び青木が堀内の元を訪ねてきた。
 その顔は血色が良く、動きづらそうにしていた四肢も、年相応の機敏さを見せていた。
 青木は勢いよく堀内に向かって一礼すると、大きくはきはきした声で報告する。

「せんせぇ!! この通り、すっかり健康な身体になって戻りました!!」

 青木の姿を見た堀内は、その顔に笑みを浮かべ青木を椅子に座らせた。
 そして以前そうしたように、青木の膝の下を棒で一度軽く叩いた。
 すると、棒が当たった瞬間、青木の脚が勢いよく跳ね上がる。
 堀内は更に笑みを深めて、青木の顔を見た。

「おめでとう! 青木君。治ったようだよ」
「はい! ありがとうございます! せんせぇのおかげです!!」
「こりゃあ、すぐにでも軍の食事をみなおさにゃいかんね!」

 堀内はそう言うと、立ち上がり、軍の司令室へ急いだ。
 始め軍の供給する白米を麦飯に変えるべしという堀内の言い分は、軍の上層部や他の軍医に馬鹿にされ、すぐに変えられることはなかった。
 そこで堀内は自分の進退をかけ、麦飯に変えることを迫った。
 堀内の気概に気圧された上層部は、これまで軍兵の特権とも言える白米の供給を止め、麦飯に変えることを認めた。
 こうして江戸煩いに苦しむ兵士たちは大阪軍の中ではいなくなった。
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