同じ月を見ていても

文字数 1,156文字

「いまね、好きな人がいるんだ」
ふたりで並んで座席に座りながら開演を待つあいだ、あなたが口にした言葉。
わたしの手には2年前の日付の入ったチケットが握られていた。
直前まで雨予報だったが空は吹き抜けるように晴れ、日差しと観客の熱気でスタジアムは非日常の空気に包まれていた。パンデミックにより"いまや昔"と思い出になりかけていた光景はかつてとほとんど変わらないかたちで戻ってきた。ただ、何かが変わってしまったような違和感もあった。

太陽が西へと傾きはじめるころ、スタジアムが照明に照らされる。
アーティストがステージに現れると会場には歓声の代わりに割れんばかりの拍手が響き、観客たちはエネルギーのすべてを投じて体を躍動させる。この気持ち・この感覚に全身が震える。
ふと「綺麗…!」と無邪気に漏れる声が聞こえて、横を見ればステージに向けてわぁっとなる表情があった。
あぁ、かつてと同じだ。わたしが欲しかった瞬間のすべてがあるような気がした。
「いまね、好きな人がいるんだ」
なのに、その言葉がわたしの興奮で膨らんだ心に穴をあける。
楽しいじゃないか、変わらないじゃないか。ふたりで一緒によくライブに行っていたころとおなじだ。必死で言い聞かせるような時間のなかで、コンサートは進んでいく。

やがて日は落ちて、空には月が出ていた。
バラードの曲が続いて会場の熱狂が落ち着いたころ、わたしはステージを見ずに月を眺めるようになっていた。月はずっと変わらないで遠い空に光っている。眩しくない、優しい明り。
この景色も、かつてあなたと一緒に観たものだ。いまアーティストが歌っている曲も、あなたと一緒に聞いた曲だ。たしかに2年間で色んなことが変わった。一緒に行くはずだったコンサートは軒並み中止となり、わたしたちは共通言語を失うかわりに払戻金を得た。
でもこのコンサートだけは払戻しをしないでおこうと2人で決めたのだった。このチケットを持ち続けることでわたしたちは変わらないでいられると、おまじないにすがるようだった。
結局わたしたちは離れたが、それは払戻し期限がとっくに過ぎてからのことだった。

おまじないの持ち続けたチケット。2年前の日付。変わらない熱狂。同じように光る月。
ふと横を見ると、あなたも月を眺めていた。アーティストは「同じ月を見ている」と、愛し合う恋人たちの歌を歌う。あなたの表情は、わたしに向けたことのないものだった。
わたしは決定的に変わってしまったものをついに見つけてしまった。
すっきりした気持ちとあきらめの気持ちが同時に襲ってきて、気持ちいいようで気持ち悪い。

同じ月を見ていて、わたしはどんな顔をしていただろう。できればその顔は、あなたにみられたくはない。
コンサートは終盤に向けて盛り上がっていき、強い照明が月を隠した。

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