PUSH!

文字数 2,690文字

東京五輪はよかった。
仕事もあるし競技によってはアーカイブされてなかったりで全部は見れなかったけど、新しい競技もいっぱいあってまだ十代の若い人が活躍してたり、知らないうちに新しい設備や施設ができてたり、知っている街でロード競技が展開されたりワクワク感があった。
でも、もし仮に高校で他の競技に気を引かれなければ、そして変な気を起こしてOBに接触しなければ。
或いは、何事もなく父親が元気なままで、おれもあのまま機動隊に所属してたら、バスケを続けてたら。
おそらく何かしらの形で参加できてたかもしれない。
そんなタラレバ今更すぎる。わかってるのに未だおれは色んなことを諦めきれず後悔している。
バスケと水球は自分もプレイしてた一際好きな競技なのに、好きである故にひとりで観るのが辛かった。
でも、今季は開催地が縁も所縁もないフランスの所為か、少し気持ちの距離がとれて切り離して楽しめるよう状態に戻れた。
楽しすぎて、おれは家にいる時間じゅう目一杯インターネット中継にアーカイブ、スポーツ専門チャンネルに加えテレビの中継や録画放送と、とにかく休む間もなく観ていて、その結果酷い寝不足に陥っていた。
しかも勝ったり負けたりするたびにひとりで騒いでるのが、先生にはその勝ち負けという概念や価値がピンとこないらしくちょっと引かれている感がある。
書斎があるしイヤホンつけてるから別に気にしないとは言いつつも、喧しいと思ってはいるだろうなと思う。
昨晩というか朝方には今季のおれの五輪への執着と燥ぎっぷりには何度か「録画できるものは録画して、いい加減に寝なさい」と口を出してきた。
その先生はというと、協調性運動障害という診断がつくレベルの物凄い運動音痴で、しかも大学生になってから申し訳程度体育に参加したことしか無いから、ありとあらゆる競技についてとにかく驚くほどに何も知らない。
しかも協調性運動が本当に駄目。走れば半分もいかないうち「どう手足出していいかわかんなくなった」と立ち止まってしまい、投げればノーコン、バットやラケットは空振り、ドリブルもリフティングは続かず、腕立て伏せも精々2回しかできない。
そんな先生でも、おれと居るようになって少しずつ興味を示してくれ、CSのスポーツ専門チャンネル契約してくれたり、おれが競技観戦している傍で「今の何が起きたの?」と質問してきたり、休日一緒に出かけたり体を動かして遊ぶことが増えた。
そして今日おれは日程に合わせて予め休み取って先生は全職完全オフな休みの日だ。
「せっかくだし先生も一緒に観ませんか、ガイドしますよ」
「ほんと?じゃあ付き合うよ」
その結果、先生は今、ガイドそっちのけで点がキマったりファインプレーが出るたび声を上げて喜び興奮したおれに抱きつかれ、キスの雨を降られるどころか、為すが儘に顔面を舐められている。
第2ピリオドが終わって、腕の中で藻掻いていた先生を開放すると「肋折れるかと思った、てかお前はなんでそう人の顔を舐めるんだ…」先生はテーブルにあるノンアルコールの除菌ウェットティッシュを数枚取ってで顔を拭き拭きぼやいた。
「なんでですかね…」
「うれションじゃないだけまだいいけどさ…」
いいんだ。てか、うれションは駄目なのか。何処までならセーフなんだろう。
「てかさ、自分ごとじゃないのに其処まで熱くなれるのすごいよね。おれ主力選手がキツめにマークされてるとはいえ、なんでゴール左右に詰められる隙残したままずっとパス回してんだろと思って観てた」
「…先生、割とちゃんと観てるんですね…」
感心していると、タブレットに表示されているルールの説明が載ったページを指し示した。
「これ以外にも、百科事典サイトとかにも解説載ってたから目は通しておいたんだ。てかさあ、なんかさっき退水とられたときの判定変じゃなかった?あれ向こうが悪くない?」
「やっぱり、そう思います?」
観戦初心者の先生ですら疑問に思うんだから、相当あからさまだったという事だ。
「なんか他の競技でも意味分かんない判定負けになったりしてたじゃん。彼奴等すぐ自分らが勝てないと判定基準ズラすしルールもコロコロ変えるよね。昔観てたときそんなじゃなかった気がする特に武道系」
「子供の頃ですか?先生オリンピック観てたのなんて憶えてるんですか?」
「いや、藤川の家で生活するようになった辺りからだから最近っちゃ最近だよ。それでも狡い思うくらいだもん。もう公正な競技運営できないならこんなもんやめちまえと思う」
「結構マジおこじゃないですか、てか三十年前は最近じゃなくないですか?」
「まあね。うん、だから、なんていうか、おれはワーッと騒いで盛り上がるとかはないけど、ちゃんと観てるし、いいプレイ見れると楽しいし、理不尽な審判や度を越したプレイには憤ったりもしてるよ、ちゃんとね。だから、もっと一緒に観ようって誘ってくれてもいいんだよ。ゲーム的なものは元々好きだし、一緒に楽しめるものがあるのはいいことだろ」
先生が観戦に付き合うだけでも真剣になってくれてるとわかって、嬉しかった。
リアクションが少ないからって関心が無いわけでもないし、熱くなってないわけでもない。スタンスが違うだけだ。
「よかった、おれ、先生のそういうとこ好きです」
おれが言うと先生は照れ隠しなのか、急に話題を変えた。
「あ、ずっと気になってたんだけどさぁ、西口ヨドバシの手前のビルの地下に石井スポーツ入ってるじゃん。彼処のエレベーターホールのガラス戸さ…PUSH(押す)じゃなくて、PUSH(推す)ってなってんの知ってる?」
先生の注意力、働きが良すぎる。
ツボに嵌ってしまいおれは声が出ないほどというか、息ができないくらい笑ってしまった。
「なんでそんなこと気づけるんですか」
「いや、笑い過ぎだろ、誰だってさすがにあんな誤字気づくって。でもコロナ前からずっとあのまんまなんだよ」
そうこうしているうち、後半戦が始まる。
「今季も1回でもいいから勝てたらいいね、せっかくリオから3連続でずっと出れてるんだもの。今日だってたった1点差だよ?」
画面を見つめる先生の顔は真剣だった。あの頃、この人にこんなふうに応援されたかった。
「先生、おれが警察辞めて競技復帰したいって言ったら応援してくれます?」
「えー?おれに言ったからには検視官なれるまで頑張ってよ。検死できる人間が少ないままの運用が公正な裁判の足を引っ張ってるんだからさ。長谷が出世して旗振り役になってよ」
「はは、ですよね。頑張ります」
そっか。今まさに応援されてるというか、見守られてるんだ。
心のなかに灯が点るのを感じた。
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