第3話

文字数 3,346文字

 月のない夜だった。けれど、帳が降りた空には雲ひとつなく、無数の星々が明るくまたたいている。こんな夜のことを星月夜と呼ぶのだったか。大きな鳥居のてっぺんに腰かけながら、センセイは月萩町の外をながめていた。
 うねるように、町の外へ続く道の向こうには、明かりひとつ灯らない。山々にさえぎられて光が届かないのか、それとも、この空間には月萩町しか存在しないのか。正直なところ、それは、センセイにもわかっていない。センセイが「こう」と決めたのなら、そのとおりになることは間違いないのだけれど、今はそういったことを考える気分でもなかった。頭の中にあるのは、たったひとり。センセイは、脇目も振らず、ただただ道の向こうを見つめた。
 やがて、遠い暗がりに、星明かりを照り返すような白い人影が、ぽつりと浮かぶ。センセイは、ゆっくりと目を閉じた。そうして、口の中で、ひと、ふた、みつ、よつと、時を数える。ここのつを数えたところで目を開けると、センセイのとなりには、ひとりの少女が座っていた。
 それは、真っ白な着物に身を包んだ少女だった。見た限りでは、年のころは十五かそこら。けれど、腰を締めているのは、まるで兵児帯のような、やわらかなものだった。背中で大きく蝶々結びにされた帯は、着物の白に映える鮮やかな緋色をしており、袖括りに使われている紐もまた、同じ色だ。
 センセイは、目に焼きつけるような気分で、じっと少女を見つめる。モチーフはたしか、小学校で飼っていた金魚。たしか、タンチョウという種類だったと、センセイは記憶している。
「カグラちゃん」
 名前を呼べば、少女は「うん」と、小さく答えた。ほかでもない、センセイの友人がつくった分身であり、かつてギンが愛した「彼女」だった。
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「うん、いいよ」
 静かに自分の膝を見つめながら、カグラがうなずく。
「あの子は」と、センセイは言った。「カグラちゃんの『お母さん』は元気でいる?」
 カグラは、しばらくの間、黙っていた。伏せた長いまつげが、目もとに濃い影を落としている。やがて、黙ったまま、彼女はかろうじて首を縦に振った。「そっか」センセイはうなずいて、それきり、黙りこんだ。
「ねえ、センセイ」
 ぽつりと、カグラが言った。
「もうカグラは、ここにいたらいけないの? ギンに会ったら、いけないの? センセイは、カグラとはもう、一緒にあそんでくれないの?」
 今にも泣きだしそうなカグラの声を聞きながら、センセイは沈黙する。少女の顔が、センセイへと向いた。星の明かりに、その金色の瞳が光る。そこで、ようやくセンセイも、口を開いた。
「カグラちゃんの気持ちは、よくわかる。さびしいのも、かなしいのも、ちゃんとわかる。私もそうだった」
「じゃあ、なんで!」
 たまらずといったようすで、カグラが声を大きくした。
「なんで、カグラのこと消しちゃうの!」
「変わりたいからだよ」と、センセイは言った。「今のカグラちゃんみたいに、つらい思いを抱えるのは、もう嫌だから」
 とたん、カグラの手がセンセイに伸びた。白い手が、センセイの両肩をきつくつかむ。「なんで」と「ずるい」と、そう叫びながら、カグラはセンセイの肩を揺さぶった。
「センセイだけ逃げるの、ずるい! ずるい、ずるい!」
 まるで、癇癪を起こした子どもだった。ひょっとしたら、彼女は今もまだ、つくられた当時のまま、成長していないのかもしれない。感情のままに痛みを叫べる彼女が、センセイは少しだけ、うらやましかった。小さいころのセンセイは、痛みを叫ぶことすらできないほど、臆病で物わかりの良い子どもだったから。
「センセイなんて、いらない! もういらない! いなくなっちゃえばいいんだ!」
 泣き叫ぶカグラの手が、センセイの肩を突き飛ばす。思いのほか、それは強い力だった。センセイが、とっさにつこうとした手は、けれど、空をすべった。
 傾いていくセンセイの視界に、満月のように丸くなった金色の瞳が映る。それまでの激しい感情が、一瞬にして抜け落ちたような、そんな顔だった。
 センセイは、鳥居から真っ逆さまに落ちていた。目の前にあった顔が、一瞬で遠ざかる。耳もとで、風を切る音がする。伸ばした手につかめるものは、何もない――

 けれど、センセイは、それでよかった。この不慮の事故によって「センセイ」という人物は命を落とし、この話から、物語から退場する。それこそが、何よりもセンセイが望む、終わりだ。
 物語として残った過去との縁を断ち切り、現実という日常に帰る。センセイはすべてを忘れ去って、センセイが分身としてつくった彼らはセンセイの手を放れ、それぞれが別々の道を歩む。もう二度と、お互いの道が交差することはない。もう交わらないがゆえに、センセイにはわからないけれど、道の先には、ひょっとしたら彼が再び「彼女」を愛する未来も、あるかもしれない。すべては、センセイの望みどおりだ。



 センセイは机にペンを置いて、開いたままだった古いノートを閉じる。そうして、書斎と繋がっているベランダへ出た。月のない夜だった。雲ひとつない。「星月夜だ」と、センセイは呟いた。
 それからしばらく、センセイはベランダで空をながめていた。夜風が冷たくなってくると、室内へと戻り、ベランダの窓を閉めた。書斎を後に、寝室のベッドへ潜りこむ。すぐに、睡魔がやってきた。
 思えば、あの差出人不明の封筒が届いた日から、センセイは、ずっと遅くまで書斎にこもっていた。センセイが思っていた以上に、心身は疲れていたのだろう。まるで、急速に落下していくかのように、センセイの意識は現実から遠ざかる。
 夢の中では、センセイが書いた物語の、その続きのような光景が広がっていた。月萩町の出入り口となる大きな鳥居。その下に横たわる人影を、ツキハギが抱き起こして、背を丸めている。気づけば、それを取り囲むように、カグラが、ギンが、そして、ユイまでもが、夜の中に立っていた。けれど、誰の目にも、センセイの姿が映っているようすはない。
「ひどく、空虚なんだ。乾いているんだ」
 感情を押し殺したような声で、ツキハギが言った。不思議なことに、普段その顔を覆っている布が、なくなっている。満たされないのだと、彼は呟いた。いつからか、どこにいても、何をしていても、物足りなく感じるのだと。もっと、もっとと、何かを求めてしまうのだと。
「センセイ、教えておくれよ。ボクの、この衝動の正体を」
 もはや、口を利くことのないものに向かって、ツキハギは語りかける。
「キミは、なんだって知っている。そうだろう? ボクが、真に何者であるのかだって、キミは知っているんだ」
 そのとき、ふと、センセイは視線を感じた。顔をあげると、いつからか、ユイがセンセイのことをじっと見つめていた。ユイの、少女の唇が、音もなく言葉をかたちづくる。
 あなたは間違っていた――
 たしかに、ユイはセンセイに向かって、そう告げた。なんのことなのか、センセイにはわからない。けれど、彼女の言葉は、さらにこう続く――逃げて、と。
「逃がさない」
 唐突に、ツキハギが言った。常よりもずっと低い声に、センセイは思わず彼へと視線を移す。それと同時に、ツキハギが顔をあげる。碧い目が、まっすぐにセンセイを射貫いた。
「この地に生きとし生けるものは、すべて、ボクのものだ」
 だからと、苛烈な光を瞳に宿して、彼は言った。キミも、ボクのものだ――



 鼻歌のような、かすかな歌う声がする。わらべ唄のような、独特な曲調だった。聞き覚えのある唄だと、ふと思う。なんとはなしに振り返れば、そこには、顔を布で覆った和装の青年が立っている。
「ボクは、この唄を知っている」
 と、青年は言った。
「そして、キミもまた、知っている」
 確信をもって、告げられる言葉。参道の脇に植えられた桜並木が、無数の薄紅を風に散らした。いつの間にか、手もとには茶色いキャリーバッグがある。
「そうだね、カミキユイ――いや、センセイ」
 じわりと、手のひらに汗がにじんだ。
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