第1話

文字数 1,992文字

「猫には9つの命がある―という話を、ご存知ですか?」
俺の前に珈琲の入ったカップを置きながら、男―館の執事―は言った。
「ああ。西洋の諺だな。エラリイ・クイーンにも『九尾の猫』という名高い小説がある」
俺がそう答えると、執事は頷き、更に言葉を重ねる。
「あとは、そう、ウィリアム・ボールドウィンの『猫にご用心』作中に、“魔女は9度、猫の体を獲得できる”という言葉が出てきます。猫とは、女の象徴なのでしょうか」
「……」
突然に始まった、この話の着地点が分からない。この執事は自らの博識を、依頼主である富豪が来る前に、探偵である俺に示したいのだろうか。探偵という言葉には一定のイメージがあるようで、そのような示威行為に出る者も少なくない。俺の見立てでは、この執事は、そのようなタイプではない筈だが。
珈琲を啜りつつ、俺は考える。主の好みなのか、珈琲は僅かに熱すぎる気がした。
「実のところ、貴方様に依頼したいのは、その点についてなのです。殺しても殺しても女が生き返るというのは、あり得べき事なのか、知りたいと主は仰られております」
「いや、常識的に考えて死人は生き返らないだろう。何で、そんな事を知りたいんだ?」
執事が、すっと目を細めて私を見る。
「それはですね―主が実際に体験なさっているからですよ」
この時点で、俺は席を蹴って帰宅すべきだったのだ。それをさせなかったのは、探偵としての俺の本能であり、そして、それこそが正に猫を殺す好奇心だった。
そうして執事が語り始めたのは、ある男の悪夢のような体験談だった―。

館の主―太田氏―は、近郷に名の知れた富豪だ。太田氏は有り余る程の金を持っているが、元々は貧農の出で、自らの才覚のみを頼りに現在の地位に上りつめたのだった。
太田氏が初代夫人と結婚したのは、彼が50歳の時だった。太田氏は独身主義で有名だったので、周囲は、ひどく驚いた。けれど、夫人の美しさを見て納得しない者は居なかった。夫人は、月明かりに照らされた大輪の薔薇のような美女だった。
結婚後も太田氏の熱は冷めず、贅沢好みな夫人の為、太田氏は、ますますもって精力的に働き、各地を飛び回った。太田氏は夫人を「私の天女」と呼び、下にも置かぬ扱いだった。
だが一方で、夫人の方は、どうであったか?
夫人にとって太田氏は、彼女の実家が没落したのを良い事に結婚を申し込んできた、30も年上の、身の程知らずな男だった。夫人は太田氏を憎んでさえいたかもしれない。
ある時、太田氏は旅先で特別なチョコレートを買い、それを夫人の誕生日に贈ろうとした。
太田氏は、いつもより1時間早く目覚まし時計をセットし、早起きして夫人の寝室へと向かった。枕元に置いて、驚かそうとしたのである。
しかし、夫人の寝室に居たのは、夫人だけではなかった。夫人の隣には、館の使用人である男が眠っていた。太田氏の姿を見た夫人は、まるで悪びれる事なく、微笑んだのだという。
それから、どのようなやり取りがあったのか、太田氏は激昂して、気が付いた時には夫人と男が死んでいた。
太田氏は自首しなかった。館の者達が太田氏を説得し、夫人達の遺体を処分して、世間的には夫人達の失踪という形で太田氏の殺人を隠蔽したのだ。館の者達は皆、太田氏の味方だった。
太田氏がおかしくなったのは、その1年後からだった。夫人達を殺した時期になると錯乱し、誰かれ構わず殴りかかってくる……。殺さなければ気が済まないようで、取り押さえてもおさまらず、あまつさえ自らの舌を噛み切ろうとする。さりとて、太田氏が何を口走るか分からないから、医者は呼べない。
太田氏の身を案じた館の者達は、太田氏が夫人達を殺したのと同じシチュエーションを用意し、太田氏にもう1度、夫人達を殺させる事にした。
あの時と同じ目覚まし時計、あの時と同じチョコレート、夫人達に似た背格好の男女……。
彼らを殺すと、太田氏は落ち着き、正気に戻るようだった。
それから、この館では毎年、太田氏の殺人が繰り返されている。
「あぁ……。ようやく、珈琲に入れた薬が効いてきたようですね。今年は、貴方様が来て下さって良かった。背格好も申し分ないし、1匹狼の探偵ならば、ここに来たと知っている方も、おられないでしょう」

体を泥で固められているような怠さを感じながら、ようやく意識を浮上させる。
「う―。くっ、頭が痛い。そうだ、俺は……」
じゃら、という鎖の音が手元から響いて、俺は驚愕した。俺の両手が手錠で纏められ、その先は鎖で柱に繋がれている。鎖は短く、今、俺が横たわっているベッドの上からすら動けない。
隣には、美しい女が同じように囚われ、涙を流している。
「おい、まさか、ここは」
太田氏の妄執の宮殿。おぞましい殺人が繰り返される場所。
俺は部屋の中を見回したが、武器はおろか、手に触れる物すら無い。
絶望と共に、俺は、どこか遠くで鳴る目覚まし時計の音を聞いた―。
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