幸福のおすそ分け

文字数 4,653文字

【エッセイ賞】
― 孤独の中にいた、ある女性の体験を元にした小さな愛のお話しをお届けします。 ―


数年前ご主人を亡くされたAさんは年金生活のアパート一人暮らし。

亡き夫との間に子供も無く、もう家族も身寄りもありません。

友達でもいればいいのだろうけれど、元々人付き合いも得意でなく、このアパートに越してきてからは近くに知り合いもなく、日々部屋にこもりがちでした。

一人は自由で気ままだけど、おはようを言う人も笑いあえる人も無く、ひとりでテレビを相手に黙って食べる食事。

そんなひとりぼっちの生活にももう慣れたとはいえ、淋しくないといえば嘘になります。

休日の家族連れで賑わうショッピングセンターに買い物に出ると、楽しそうな家族の姿に心の中に静かな淋しさが広がります。

どうして私だけひとりぼっちなんだろうと歩きながら涙が浮かぶこともあります。

でもやっぱり、味気ない毎日の繰り返しに人々の笑顔が恋しくなって、休日になると幸せそうな家族連れの集まる場所に自然に足を向けてしまうのでした。

楽しそうな人々が通り過ぎていくのを、羨ましく思う反面、ただその笑顔を眺めているだけでみんなの幸せをおすそ分けしてもらっている気持ちにもなれました。

人恋しさに淋しくて仕方ないときは、そうして行き交う人々をしばらく眺めて時間を過ごしました。


夜は物音ひとつしない静かな空間が時に息苦しく思うこともあり、部屋の窓から遠くの通りを行き交う車の明かりをよく眺めたりもしました。

あの車達はどこに行くのだろう。家族の元に帰るのかな。家族でどこかに食事や買い物に行っているのかな。恋人同士が楽しい時間を過ごしているのかな…
流れゆくテールランプはみんなの楽しい時を乗せて行き交っているように思えました。

そして今はもう過ぎ去った遠き日に、かつて家族で車で出掛けた楽しかった思い出を重ねてみるのです。


そうこうして淋しさと折り合いをつけながら、Aさんは毎日を静かに淡々と生きていました。


そんなAさんの日々に突如変化が訪れます。

長い間空き部屋だったお隣に入居者が決まったようなのです。

部屋の下見から始まり、入居前の清掃、引っ越し、と、静かな日常に突然侵入者が入り込んできたように、隣が急に慌ただしくなりました。

どんな人が越してくるのだろうと気になる反面、自分だけの静かな日常が打ち消されることに嫌悪感と憂鬱も覚えました。

引っ越してきたのはまだ若い男女のようでした。
アパートの薄い壁を通して漏れ聞こえる声や音から隣の様子が伺えます。
若い男性の大きな足音や声が伝わってきて、最初はうるさいばかりで、これはとんだ災難だと思いました。

でも荷物の搬入が落ち着き、入居の挨拶に来た2人は想像に反して笑顔初々しく、顔を突き合わせ会話すると、勝手に思い描いていた嫌悪から来るイメージが少し緩和されるように感じました。

2人は小学生の頃からの同級生で、ずっと想いを寄せ続けてきた彼の願いが成就して先程入籍したばかりの新婚ほやほやの夫婦のようです。
彼の仕事の転勤に伴い、この街に初めてやって来たそうです。


その日からAさんの静かな暮らしは一変しました。

重ねがさねアパートというのは隣の音がよく伝わるものです。

聞く気が無くても隣の暮らしが壁ごしに、いつもAさんの生活に入り込んでくるようになったのです。

何時になったら目覚ましが鳴り、何時に彼が出掛けていき、そして何時に帰って来るか、そんな若い2人の生活が手に取るようにわかります。

日が暮れると、まだぎこちない包丁とまな板の音。
彼の帰宅時間の数時間前から食事の下ごしらえが始まり、やがていつもの時間になると階段を上る足音を響かせ彼が帰って来ます。
玄関が閉まる音と同時に、ただいまの明るい大きな声も響きます。

今日あったことを帰る早々に話し始める彼と、食卓の支度をしながら彼の言葉に驚いたり笑ったりしながら応える彼女の様子が、会話までは聞こえないものの壁越しに伺えるのでした。

「いただきます」と食事を食べ出した彼の「うまい!」と料理に感嘆する大きな声が聞こえることもありました。

何度も「まじ美味い!これ何?」と彼女に尋ねます。彼女の返事に「へーおいしいわ」と幸せそうな彼の声が聞こえます。

その後テレビを見ながら笑う彼の声もよく聞こえました。
無邪気によく笑う人でした。

男性の低い声はよく響く上、彼はひときわ声が大きいので、Aさんの耳にも時々こうしてはっきり聞こえてくるのです。

最初のうちでこそ、それらが何かとうるさく思えていたAさんでしたが、顔を合わし挨拶したり言葉を交わしたりして少しずつ相手を知り、彼らの暮らしを常に間近に感じているうちに、Aさんの隣人への感情は他人という意識から親しみに変化していき、それに伴い彼らの声も次第にうるさいとは感じなくなっていったのです。

むしろそんな生活に少しずつ慣れ、彼らが隣にいる日々こそがAさんの日常に取って変わっていったのです。


彼らはいつも笑っていました。彼が怒鳴ったり怒ったりすることは一度も無く、喧嘩さえありませんでした。2人の毎日は好きな人と家族となり共に暮らす喜びにいつもいつも満ち溢れていました。

それが少しずつ淋しかったAさんの心に温もりを与えてくれるようになっていたのです。

静まり返っていた夜も、壁向こうからの楽しげな笑い声に彩られるようになりました。

ベランダごしにこぼれる彼らの部屋の明かりが心強くもさせました。

ふと気がつくと、Aさんはいつの頃からか休日のショッピングセンターには淋しさを紛らわすために出掛けるのではなく、自分の楽しみのために出掛けるようになってもいました。

夜の窓辺で行き交う車の明かりを眺めることももう無くなっていました。

Aさんは気付きました。私は彼らに救われていると。

いつの間にか、彼らの存在はAさんに一人暮らしの心細さや淋しさを忘れさせてくれていたのです。

やがて彼らへの密かな感謝の思いすらAさんには芽生えていくのでした。

Aさんはまるで若い夫婦を見守る親戚のような気持ちでした。
いえ、むしろ壁越しの家族のようでもありました。
Aさんの心の内だけの密かな家族です。

勿論彼らはAさんのそんな思いは知りはしません。

知りもしないけれど、Aさんにとったら、失ってしまった家族の温もりや大切な人との暮らしや喜び幸せ。もう自分には与えられることもないと諦めていた、でもどこかで乞い求めていたものを、彼らにおすそ分けしてもらっているようなものだったのです。

幸せのおすそ分けです。


彼らが隣に来てから、Aさんは少しずつ元気になりました。
積極的に友達を見つけようと思えるようにもなりました。
家にこもりごちだったのが、外に出掛けるようにもなりました。
散歩も始めました。

そうして自分の時間を、毎日を、楽しもうという気持ちになっていったのです。


そして夜は彼らの笑い声を聞きながら、楽しく食事をし、寝床につきました。

まるでいつも家族が側にいるようで安心して眠ることができました。

Aさんは日常のあらゆる場面で彼らを意識して心の内で彼らに寄り添い生きていたのです。

そんな暮らしが当たり前の日常になって一年半が過ぎました。

ある日家の前で帰ってきた彼と一緒になり、世間話になりました。
そこで彼に転勤の話が出ていることを聞くのです。
栄転のようでした。

「それはおめでたいことね。良かったじゃない」と言いながら、Aさんの胸に淋しさがよぎりました。
思わず、「でも淋しくなるわ」と言葉がついて出ました。

そんな気持ちを表に出したら彼らには鬱陶しいかなと遠慮の思いもあって、すぐに笑顔を作ってその場を後にしましたが、それは心からの言葉でした。

それから半月、どうやら転勤は本決まりになったようで、彼らは来月早々にも引っ越して行ってしまうことになりました。

「若い2人だから、これから生活も環境も色々変わっていくものだもの。仕方ないわね。」そう思いながらも、「我が子が独立して親元を離れていくときには親はこんな気持ちになるのかもしれないわね」と一抹の淋しさを噛み締めるのです。

もうすぐ居なくなってしまうとなると、どれだけ自分が彼らの存在に救われていたかが改めてわかります。せめて彼らとの残りの日々を感謝して楽しく過ごそうとAさんは思いました。

その日からの一日一日はAさんにとって、まるでかけがえない大切な宝石を胸にそっと抱くような時間でした。


そしてついに彼らの引っ越しの日がやってきました。朝から慌ただしく荷物が運び出されていくのを見つめながら、切ない思いにいっぱいになりました。

荷物を載せたトラックが去った後も彼らはしばらく後片付けをしていたようですが、ふと気付くと静かになっていたので様子を見に外に出てみると、もう2人は行ってしまったようでした。

ああ何も言わず行ってしまったのか、と一気に淋しく思いましたが、仕方ないと自分に言い聞かせ部屋に戻りました。

でも、やけに静まり返る部屋に、Aさんは段々たまらなくなり涙がこみ上げてくるのでした。

「ありがとう…今までありがとう。幸せになってね」と何度も何度も心で呟きました。

ただ、ありがとうを伝えられなかったことが心残りでした。

その夜は眠れないまま朝を迎え、カーテンを開けた時でした。いつも朝が遅めの彼らにうるさくないように静かにカーテンを引く習慣が身についていたことに気付き、そんなさりげない行動ひとつにも無意識に彼らがいつも生活の中に浸透していたことを改めて噛み締めるのでした。

しかし、しばらくすると聞き慣れた足音と声がするではありませんか。
彼らは最後の部屋の明け渡しに不動産屋と共に戻って来たのです。

「ああ、まだ行ってしまってなかったんだ」とAさんは嬉しくなって部屋を飛び出しました。

彼らはAさんの姿を見て、後でご挨拶に伺いますと言いました。
これでありがとうを伝えられるとAさんは思いました。そしてまるで恋する人にでも会うかのように身なりを整え、彼らを待ちました。

しばらくして彼らが来ました。ついに本当の別れの時です。

Aさんは今まで伝えられずにいた感謝の思いを彼らに告げました。

あなた達のおかげで救われた、ありがとうと。

そして、「私はあなた達に出会って、自分達の幸せは周りをも幸せにすることに気付かされたのよ。あなた達に私は幸せのおすそ分けをしてもらっていたようなものよ。これからも周りのみんなを幸せにする2人でいてね」と。

Aさんは最後に2人の手を取り、「身体に気をつけて末永くお幸せに」と心から伝えました。
こらえていた涙がこみ上げてこぼれました。

2人は「いい出会いが出来て僕らも幸せでした。」と言ってくれました。

短い間だったけれど、紛れもなく彼らは幸せを運んでくれた天使でした。
そして紛れもなく、かけがえない家族でした。

最後に彼らの笑顔をしっかり胸に刻み、彼らの車が見えなくなるまでAさんは手を振り続けました。

彼らもずっと振り続けてくれました。

これが永遠の別れになるかもしれない。でもいつまでも2人の幸せを祈っているとAさんは思いました。

見えなくなった彼らの去った後をいつまでも見つめながら、Aさんはありがとうを繰り返しました。

これからは私も周りを幸せに出来る人になりたい。
そのためには私も彼らのように、まず自分が幸せでなければ。
Aさんは思いました。


Aさんは涙を拭き、もう一度ありがとうと呟きながら笑顔で空を仰ぎました。


どんな出会いも意味がある。そんな言葉を噛みしめながら。


〈完結〉

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