解説

文字数 3,336文字

この物語は多感な時期の少年の成長と視点及び考え方の変化を書き表した物語である。まず初めにこれを言及すると多くの人に驚かれるかもしれないが筆者は物語の初めの方では主人公の少年はまだ夢を抱いていない人間として物語を進めている。無論主人公は何らかの名誉を掴もうとし、短距離走にそれを賭けているのは確かなのだが物語の序盤で彼が目を閉じた時、彼はその瞳の奥に明るい光を見ただけで具体的な自身の将来像を見ることができなかった。このようにして筆者は未成長で空っぽな、完成していない未熟な少年を描写しているのだ。少年が短距離の道に進んだのも同様の理由である。彼は自身の瞳に映った自分を見てその道に進んだのではなく、恩師の瞳に映った自分の将来像を見て短距離走という道に進んだのだ。これはいわば他人に影響をされて、そして他人の自分に対する期待に応えようとすることから自分の将来を選ぶ幼い人間の在る姿を示している。子供の頃は誰しもが明確な夢を持っているわけではなく親や周囲の期待と煽てによって歩むべき道を歩かされているのではなかろうか、そのような筆者の考えがこの作品では反映されている。この暗示を肯定するものとして少年の帽子を被った時の『歪な自信』の部分が挙げられる。ここでの少年の抱える歪な自信とは彼が歩まされていることに気付いているのか気付いていないのか、彼自身でも確証の持てない不安を押し隠すための自信のことなのである。更に母親の少年に対する語りかけに『幸せの種』とあるがこれはまだ発芽していない、つまり自分の夢を見つけきれていないことを示唆している。そして母親の達観した考えを通して、曰く誰しもが幸せの種を咲かせることはできない、つまるところこの世の中で自分の本当の夢を追いかけている人間は少ないという筆者自身の考えを含ませている。

この作品での少年の未熟さの描写は徹底している。人間が熟するのはすなわち己の夢を見つけ幸せの種が発芽する時であり、多くの人はそこの段階に辿りつくことができていないという筆者の考えに沿うならば少年が未熟であるのは当然のことであり、従って彼が未熟である描写も物語の大半を占めるという結果に至るのだ。ここの解説では少年の母親に対する観点を通してどのように彼の未熟さが表現されているかに触れていく。

だがその前の大前提として少年の街に対する執着に触れなければならない。この執着は少年の街の細部まで観察し、その一つ一つを深く分析する様子と、それとは対照的に何もないダウンタウンの描写、およびダウンタウンへの興味の欠如がダウンタウンに幾度か来ているのにも関わらず今だに地図を見ないと目的地へ行けないという部分から伺える。このことからダウンタウンには抱いていない何らかの特別な感情、執着は少年は街に対して抱いていることを伝えたい。

そしてこの少年の街に対する執着は彼の母親がこの街から出ようとしない様子から影響されたものだと筆者は考えている。少年が短距離走の道を恩師に魅せられたのと似たように、母親がこの街から出たがらない姿を見て知らず知らずの内に少年の心はこの街に囚われてしまったのだ。そしてこの街を変えるという偽りの夢を追いかける少年の姿が描写される。

次に考えなければならないのは母親の精神状態である。彼女は果たして本当に少年の言う通り悟りの域に達していたのだろうか?中身は未熟なまま彼女の触れてきた数々の本に魅せられ達観した姿を演じていただけではなかろうか?

というわけでここで二つの分岐点が生まれる。母親が本当に達観していた場合としていなかった場合である。していた場合、母親が街を出ないのはこの仕事を変えないためであり、その理由として子供が寝静まった後に仕事ができるという利点があるということが挙げられる。作品中でも書かれているようにできる限り多くの時間を少年と過ごし彼に無償の愛を注ぐのだ。それが出来るのなら己の身などどうでも良しにこの街に住み続け少年の幸せの種を芽生えさせるために彼女も努力し続ける。この場合では少年は未だに母親のそんな意図に気付くことができず、母親の行動に疑問を持ち続ける一人の『子供』としての未熟さが表現されている。

反対に今度は母親がしていなかった場合を考える。この場合では少年は他の娼婦がダウンタウンに行けない理由を知っていながらも母親だけは他の人とは違うだろうと身勝手に、半ば一方通行的に過剰な人物像を母親に抱いているという未熟さが浮き彫りになる。他の娼婦はダウンタウンに行くと彼女たちの知らない世界が彼女たちの世界を押しつぶすと分かっているのに母親だけを特別視し、彼女はそうではないだろうと考える少年の我儘ぶりは子供そのものである。人間は自身が親になるまでは自分の親は特別で強いと思いながら育ち、そして自身が親になって初めて彼らが特別強いわけでもなく他人同様に弱みもあれば醜いところもあると気付くのだ。

いずれにせよこの2つの分岐点は少年が母親の過去話を語る際に『らしい』というような非断定的な言葉を多用することにより少年が母親を完全に理解していない様子を描写し、『子供』と『親』の間で明確な線引きを作り上げることによって成長しきれていない少年の精神を主張している。

最後に少年の視点並びに考え方の変化に触れる。物語の冒頭では少年は若人らしく少しばかり過激でトゲのある考え方をしていることと同時に、そのような考え方に対し嫌悪感を抱いていることが分かる。この嫌悪感というのは冒頭の本当のおしゃれ』という母親の発言に対し、その言い方が引っかかった自分を心の中で殴りつけていることから分かる。少年は娼婦や劣悪な環境で育ったことを恥ずかしく思っているのだが、それと同時にそのように思う自分をこの上なく嫌っているのである。母親に対する羨望や憧れから母親のような考え方をしたくも中々出来ずにいる少年の姿が冒頭では描かれている。これと似たように電車で母親の雰囲気を装う3人の娼婦に対してだけ少年は嫌悪感を抱かなかったのだがこれに含まれた意味は読者の想像にお任せする。それに加え、母親と少年の行動から母親が自身の考えを頻繁に少年に伝えていることが分かるのだが、これを母親としての教育か、あるいは娼婦による洗脳なのか、どちらを捉えるのかも読者の判断に委ねる。

では少年の冒頭から抱く若人特有の少しばかり過激でトゲのある考え方とは一体どのようなものなのだろうか?それは『変化を起こすためには変化を起こすべき場所の民と同じ目線でいてはならない』という土台から来る考え方の数々のことであった。少年の街の民に対する厳しめの口調、冷めた目線、冷淡な態度や乱暴な言葉遣いは全てここから来るものであり、筆者もそれを強調するかのように少年の一人称を使いながら街と人々の描写を書き進めていく。それでも本当に自分のその考え方は正しいのかと思いながら背負い込む歪な自信、尊敬する母親のような考え方をしたいと思っている心の原理が刺々しい少年の考え方の土台を常に揺らがせていた。

そしてついに国立競技場へ向かう電車の中で少年の思想の土台をひっくり返す決定的なことが起きる。同じ目線で語っていない若者の集いを街の外れで目の当たりにし、彼らの瞳に街の人間が写っていないことを確認する。それと同時に街の人間たちが全く持って彼らに興味を示さず影響を受けていないことを確認した。所詮街の人間たちと同じ目線に立たずに行動を起こすことは自己満足に過ぎず、自分一人を見つめることしか出来ないと少年は察する。このようにして少年はとうとう揺らいでいた信念が間違っていたということを理解し、ぐらついていた土台が完全に消え去り、考え方を完全に変えることができたのだ。この考え方の変化がこの物語における少年の成長として描かれている。

彼の幸せの花が咲く。それすなわち本当の夢を見つけたのだ。目を瞑ると今度は何も写っていなかった瞼の裏に夢が映る。青年になった彼の走りで街が変わり、人が変わり、そしてなお彼は走り続ける。青年の瞳には何が写っていたのだろうか?少年は知っている。彼の夢なのだから。その夢へと少年は翔け出した。
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