秋の画材店

文字数 2,000文字

 薄く埃を被った木の棚に、整頓され赤い絵の具が一列に並んでいる。私は赤いチューブを一つ取りため息をついて、元に戻す。
「高いなあ、油絵具って。普通の赤なのに」
「赤じゃない。ヴァーミリオン」 
 店の奥に座る黒服の青年が嫌味っぽい声をだす。
「君、卒業したらアメリカの大学に行きたいんだっけ?」
 ほっといて、と雑誌をめくる彼に言うと、すかさず反撃が来る。
「買う気がないなら、たむろしないでね。商売の邪魔」
「店番のくせに」
 キャンバスの入ったナイロンのバッグが、制服の襟をシワにしているのを直しながら、学生の間でも、口さえ開かなければ、と評判の悪い画材店の店員を睨む。その時、秋も終わりかけた静かな光が差し込むガラス扉の向こうから、聞き覚えのあるよく通る声が近づいてきた。はっとして油絵具の棚から離れ、扉から見えないよう店の奥へと進む。青年がちらりとこちらを見るが、気にしてはいられない。同級生たちの大きく響く笑い声は、静かな店の中にも跳ね返り、遠ざかっていった。
「見ようか」
 また嫌な思いをするのでは、と張り詰めていた息を吐く暇もなく、青年が言う。
「なにを」
「君の絵。今、運んでるんでしょ」
 バッグを指さしさも当然、と言った態度だ。
「えっ」
「絵は人に見せれば見せるほど上手くなるって言うから」
「でも……」
「僕も海外の大学出てるから」 
「本当ですか」
「うん、カリフォルニア州立大学」
 目を見開いて、雑誌を片手に待っている青年の横で黙ってしまう。カリフォルニア州立大学、それって、夢見る大学です、とは言えない。代わりに絵の具で汚れたバッグを床に置き、乾きかけの油絵をカウンターに置く。青年は広げたままの雑誌を放って椅子から立ち、数歩身を引いて私の絵を評した。
「悪くないよ」
「本当に!」
 親以外で初めて絵を褒められた私は、思わず身を乗り出し、止まらなくなる。
「この絵は深い哲学を感じさせるものにしたくて、黄色はゴーギャンの色使いを意識して、ここの花瓶はピカソからインスピレーションを受けてるんです。ピカソなんて王道過ぎるかもしれないけど、いいかなって。こんな感じで、アメリカの大学では日本で問われるデッサン力なんかより、才能重視みたいなところがあって、そっちのほうが私に合ってるんですよね」
「そうなんだ」
 青年は元の事務用椅子に座り直し、のけるように絵の前で手を振る。
「あ、はい」
「それで、ビジョンは?」
「えーっと、ビジョンですか」
 床で絵をバッグに戻しながら、圧力のような、冷たい視線を感じて私はいそいで立ち上がり、あーと言いつつ指を交差させる。褒められた手前、適当なことは言えないが、明確な答えが出てこない。
「まあ、とりあえず留学して、それから考えようかなって」
「へえ。それは、逃げだね」
 青年は私を見上げているが、態度はこちらをはっきり見下している。
「日本社会でやっていけないから逃げるんだ。表面だけ。さっきの絵と同じだよ。花瓶はデッサン狂ってるし、あの絵で使う黄色の色価も分かってないよね。部活で与えられた道具でなんとなく描きました? 今までに賞を獲ったことは? 日本ですらやっていけない、そんなのでアメリカに行ってどうするの?」
 そんなこと言われる筋合いない、言い返そうと思うが声は出ない。青年の言葉は核心をついていた。怒りとそれ以上に恥ずかしさから、出て行くためにバッグを持ち上げようと下を向くと、雑誌の開かれたページが目に入る。青年が読んでいたもので、一面に印刷された写真があり、それは大きなキャンバスの前でパレットを持った画家が、カメラに向かって笑っている写真で、かぶせて赤い大きな文字で「失墜の若手画家、今どこに」と書かれている。それと同時に、私は目の前の青年が写真の画家本人であることに、驚き、信じられず自分の目を疑う。それでも呼吸がゆっくりと戻ってきて、次第に徐々に納得し始める。この人も海の向こうに夢を見て、失敗して、今ここにいる。だから自分と同じ幻想を抱いている私に、あんなにはっきり言うんだ。
 彼のようになったらだめだ、と何かがひらめく。自分を認めてくれる場所がどこかにあって、それを追いかけるんじゃない。辛くても逃げないで戦って、認めてもらうしかないんだ。
 私は身を翻し、絵の具の棚を通り過ぎて、積み上げられた鉛筆の箱から一つを手に取り引き返す。
「これください」
「デッサンか」
 鉛筆の箱に一瞥をくれる。
「ビジョンは?」
「日本の大学も……ちょっと、考えてみます」
 唇を噛み答える私に、大きくため息をついて、全然だめだね、と彼はそっぽをむく。私の中で、決めたばかりの心が揺らぐ。
「せめて、世界の美術史に残るくらいじゃないと」
 聞き返そうとしたところを、古めかしいレジの音が邪魔する。
「五百五十円になりまーす」
 やる気のない声でお釣りを渡す時に触れた指先は秋の終わりにしては、少し熱かった。
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