第1話

文字数 3,140文字

 「引っぱり」という仕事があった。
 終戦まもない頃から少なくとも三十年間、だから昭和五十年頃まで、大阪でそう呼ばれていた仕事があった。なにも大阪でなければ生まれ得ない仕事ではなかったから、他の街でもあったかもしれない。あるにはあって、別の呼び方をしていたのかもしれないし、特に決まった呼び方もなかったのかもしれない。現に、お客さんからは「お店を引いて来はる八百屋さん」くらいに言われていたから、大阪でもたぶん仲間内だけでそう呼び合っていたのかもしれない。
 私の父がやっていた仕事だった。

 上から見ると畳一畳分よりひと回り大きい方形の屋根があって、それが横から見て高さ二メートル程の箱型の店舗になっている。それが店舗である証拠に、箱の上部には庇があって屋号の書かれた立派な看板が掛かっていた。店舗の周囲の壁は軽量化のために取り払われ骨格だけになっていたが、陳列棚もあるし、ガラスケースの中に氷が敷き詰められた冷蔵室もあった。
 箱には前後があって、後方下のやや中央寄りに車軸が通され太いタイヤの車輪が左右に一つずつ付いていた。前方には真ん中の腰のあたりから、木製の店舗全体の構造を支える支柱にもなっている木の棒が一本突き出ていて、仮に名付けるなら(そんなものに正式名称などないから)引っぱり棒とでも言うべきものだ。その引っぱり棒と併用するために箱には先が大きな輪っか状になった丈夫な綱も括り付けられていて、これも仮に曳き綱とでも呼ぶとして、曳き綱の輪っかを肩に掛け、引っぱり棒を両手で掴み、低く腰を入れて全身の力を振り絞って車輪のついた店を引っぱって移動する。それが「引っぱり」だ。小さいとはいえ、正真正銘一つの店舗を人力で引っぱって食材や食品を移動販売するという小売商だった。
 戦地から帰ってきてまもなくその仕事を始めた父は、五十五歳で自動車免許をとって小型トラックに乗り換えるまでのちょうど三十年間、引っぱりの仕事で一家を養った。

 引っぱりがどれだけ大変な仕事だったかは想像に難くないが、およそ人がなし得る想像をはるかに超える。並の想像力は追いつかない。
 引っぱりの移動式店舗は、大阪の台所といわれた木津卸売市場の敷地内に、いわばそれ専用の車庫があって、何台もの店舗が留め置かれていた。まだ暗い早朝四時すぎから卸売市場で仕入れを始め、野菜、肉、魚、鶏卵、果物、その他乾物から菓子や調味料に至るまでおよそ一般家庭で必要とされるあらゆる食品や食材を満載して朝七時頃に市場を出発する。総重量は誰も測ったことはないが、後年それをそのまま1.5トントラックに乗り換えたのだから、木製の店舗自体の重量を合わせて少なくとも、1.5トンから2トン近くになったはずだ。それを引っぱり棒と曳き綱を使って人力で引っぱって歩く、という時点で想像力はまず壁に突き当たる。そんなことが可能なのかと。それも一回キリでない、毎日の仕事として。
 しかも、木津卸売市場は大阪平野の低地、すぐ大阪湾に流れ込む木津川の河口近くにあって、そこから父が固定客を持っていた四天王寺界隈へは国道165号線の急な上町台地の登り坂が延々と続いていた。木津卸売市場を出てほどない今宮戎の坂の下から国道を見上げて引っぱりのことを考えたとき、想像力というような取り澄ました言葉は吹き飛んで、想像するのが躊躇われさえする。嫌悪感まで覚えるかもしれない。そんな途方もない想像を人に強いて一体、何の意味があるのかと呆れる人がいてもおかしくない。

 そんな坂道を父は毎日、店を引っぱって登ったのだ。そんな力がどこから出てきたのかは分からない。どれだけ苦しく大変だったか思いもつかない。毎日がギリギリで一杯一杯でくたくたに疲れて体は悲鳴を上げていたはずなのに、たとえ一日でもしんどいとか、風邪を引いたといって休むということもなかった。
 日曜は市場が閉まったので休んだが、月曜から土曜までの毎日、決まった時間に決まった場所へ店を引っぱって行かなければならなかった。一つの場所が終わると次の場所に移動する。決められた場所に着くと、父はお得意さんの軒先を回って「ヤオヤでございますぅ」と語尾を伸ばした独特の調子で売り声を掛けた。お得意さんは昼めしの或いは夕飯の食材を家のすぐ軒先で部屋着のまま気軽に買えることを喜んだ。風邪で急に休むということは、お得意のお客さんが、いつまで待ってもやって来ない(ヤオヤ)にしびれを切らして慌てて離れた商店街まで(服を着替えて、多少なり化粧もして)買い物に行かなければならなくなってしまうということであり、それは忽ち大事なお得意さんを失うということに他ならなかった。
「今日は何があるの?」
「脂ののってる鯖がありまっさかい、煮つけでも塩で焼いても」
 鮮魚は折畳み式になっている作り付けの調理台で三枚に手早くおろした。刺身も切ったし、烏賊は綿を抜いて皮も剥いた。アラや臓物は箱にぶら下げたバケツに放り込まれた。
「おっちゃん、うちの人が明日、うなぎのかば焼き食べたいねんて」
「ほな、ええのを仕入れてきますよって」
「ヤオヤさん、重いの悪いけど、蜜柑一箱持ってきてくれはる?」
「かましまへんで、おおきに」
 そういう個別の注文も多かった。場外で売っている旨いかば焼きを仕入れて届けたり、バラ売りとは別に段ボール箱の蜜柑や木箱入りの林檎を別積みに注文を受けながら、その日に入り用の野菜やら肉やらを売ったのだ。
 そんな大変な仕事にしかありつけなかった。あれこれ選択している余地はなかった。焼け野原の何もない日本に戦地から帰ってきた終戦直後の男たちは誰もがそうやって生きなければならなかった。
 食っていくため、家族を養っていくため、毎日、必死に店を引っぱること。それは文字通り、必ず死ぬことを思い乍ら汗にまみれることだった。そこには辛いとか、しんどいという弱さの入る余地はない。もっと明白に生死にかかわる意識があった。あったと思う。
 世の中はあっという間に焼け野原から目覚ましい復興を遂げて豊かになったのに、父はずっと三十年も「引っぱり」を続けた。それはまるで、時代から取り残されていつまでも終戦直後の廃墟を引き摺っているようだった。何故、父は三十年も「引っぱり」を続けたのか? 続けることが出来たのか? 生前、そのわけを聞き損ねた。
 「そんなもん、しゃあないやろ。そうするしかなかったんや」と父は言ったかもしれない。重たい大根一本売って何円の利益もないような「引っぱり」で、家族を養い、子供を学校に行かせる以上に車輪のついてない、引っぱって動かす必要のない店を構えるような余裕は出来るはずもなかった。それが一つあった。
 それともう一つ。辛い人生を生きる意味を、つまり、人は何のために生きるのかという面倒な問いへの答えを、或いは答えに代わるものを、父はきっと「引っぱり」を通して死と向き合うことで知ることができて、それを(その答えを)毎日、確認し続けずにはおれなかったのではないかと思うのだ。必死であることで見える世界があったのだ、と。

 もう「引っぱり」はなくなった。当たり前の話だ。あんな過酷な仕事はなくなってよかった。過重労働も長時間労働もなくなるべきだ。そう言える時代になったことはいいことだと思う。しかしそれとは別に、相変わらず人生は辛く、人は何のために生きるのかという問いに私は(私たちは?)答えられない、面倒な話。

 私は、あの過酷な「引っぱり」を、生死の淵に立たなければできなかったであろうような「引っぱり」の仕事をしていた父のことを忘れられない。もういない父の思い出として、だけでなく。
 わずか五十年ばかり前にあった仕事の話だ。
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