第1話

文字数 1,998文字

坂戸(さかど)くん、外にペンギンでも歩いていましたか?」
授業中、右隣の席の斉木璃子(さいきりこ)が話しかけてきた。
「なんでペンギン?」
「愛らしいものでも見ているような眼差しでした」
僕は体内の血液が巡る速度を上げるのを感じた。
窓の外のグラウンドでは、他クラスの女子が体育の授業で短距離走を行っていた。
僕の視線は、中学1年の頃から憧れの功刀紗耶香(くぬぎさやか)に釘付けだったはずだから、斉木にバレるのは非常にまずい。
「別に!」
僕はできる限り平静を装って世界史の教科書を広げた。
「…ページ違いますよ?」
斉木は自分の教科書を僕の方に広げてページ番号を指さした。
「今開こうと思ってたとこ」
慌てて教科書に落とした視界の端で、斉木がほほ笑んでいる。

斉木の存在は、中学3年のこのクラスになって初めて認識した。
それくらいに地味な女子で、眼鏡と一つ結びの髪型がトレードマークなところ以外にこれといった特徴はない。
同級生に対して敬語で話すところは特徴と言えば特徴だけど、成績だって大して良くないし、運動も得意ではなさそう。友達も少ない。
でも、笑うとちょっとかわいい。


ある晩、バレー部の練習を終えた僕が駅に向かっていたところ、学習塾から出てきた斉木と出くわした。
「こんな時間まで練習やってるんですね」
驚いた表情を見せた斉木は、心なしか喜んでいるようにも見えた。
「斉木こそ、塾通ってたんだ」
その後に続ける言葉が見つからなくて、「じゃあ」と斉木の横を通り過ぎようとしたところ、
「あの…!」
と呼び止められた。
「今日、お母さんが残業で帰りが遅いので、ご飯食べて来なさいって。…一緒に食べません?」
「…別にいいけど」
考える余裕もなくて了承したものの、女子と二人でご飯にいく状況を思うと急に緊張してきて、周りを伺いながら近くのファミレスに入った。

「私、ずっと坂戸くんとちゃんとお話してみたくて」
「俺なんかと?何で?」
少し背伸びして頼んだアイスコーヒーを吹き出しそうになった。
「なんかではないです」
真剣な目で言われたので、思わず「ごめん」と謝ってしまった。
ふっと微笑んでから斉木は言った。
「坂戸くんの強さに憧れてるんです」

聞けば斉木と僕は中学1年の頃に同じクラスだったらしい。
「らしい」というのは大変失礼なのだけど、そんな認識になるほどに、僕には斉木と会話した記憶が無かった。
だから、なぜ斉木が僕に関心を寄せているのか心底不思議だった。

「坂戸くん、母子家庭ですよね?」
なるほど、そういうことか。
唐突に繰り出された斉木の一言で、僕は体の熱が急速に冷めていくのを感じた。
これはどうやら恋愛的な興味関心とは別の種類の、括るとしたら「憐れみ」に定義されるものだ。
僕が小6だった時に父さんが脳梗塞で死んでから、うんざりするほど浴びてきた。
「母子家庭なのに頑張っててえらいねってこと?そうだとしたらちょっとがっかり…」
「私もなんです」
斉木は僕の声をかき消すような力強い声で言った。
「私もお父さんいないんです。うちの場合はお父さんが不倫して別の女の人のところに行っちゃっただけなんですけど」
「そう、なんだ」

斉木は中学1年の時の話を始めた。
当時、斉木家の事情を知る幼馴染がクラスにいて、その子が別の友達に秘密をこっそり教えて、その友達がまた、という具合に噂が広まり、斉木父の不倫がクラス中で話題になってしまったことがあったらしい。
朝比奈(あさひな)さんが『最近元気ないんだって?』って、にやにやしながら話しかけてきたんです。それをきっかけに女の子たちが私の席を取り囲んで『元気だして』『大丈夫だよ片親居なくても』って集まってきて」
朝比奈ね。性格に難ありの女子だ。あいつならやりかねない。
「嫌な雰囲気になりかけたところ、坂戸くんがふらっと来て、『うちも父さん死んじゃっていないけど俺元気だよ』って朝比奈さんたちに言ったんです。それで朝比奈さんたちはバツが悪くなって席から離れていきました」
そんなことあったかな。記憶を探っても出てこないけど、おそらく苛ついて反射的に出たんだろう。いま話を聞いていてもムカつくもの。
「それから私は坂戸くんのファンなんです」
斉木があまりにまっすぐ見つめてくるので、僕はアイスコーヒーを勢い良く啜ってむせてしまった。

その日の帰り道、僕は夜空の星を見上げて歩いた。
父さん聞いたか。俺のファンだって、笑っちゃうね。生きてると良いことあるね。


窓の向こうでは、功刀紗耶香がスタート地点についていた。
ゴール地点に立つ生徒が上げた手を振り下ろすのと同時に全力で走り出す姿を眺めていると、右側から視線を感じた。
振り向くと斉木が両の手のひらをこちらに向けている。
「何してるの?」
問いかけると、
「念力をかけていました」
と言って斉木が笑った。
「念力?」
「そうです。坂戸くんがペンギンからこちらに目を向けてくれるように、って」
言いながら恥ずかしそうに笑う斉木は、なんだか、うん、とても良かった。
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