第一話

文字数 1,988文字

 春分は過ぎたが肌寒い晴れた日だった。赤い帽子に赤い服を着た小柄な老人が「暖を取らせてくれ」とやってきた。依頼に来たわけではなさそうだが、困っている人を助ける主義の俺は老人を招き入れ、オイルヒーターの横に座らせた。老人はマグカップに注がれた熱いココアを飲み干すと、「Leprechaun, Fir Dhearga」と書かれた名刺を置いて帰っていった。なんて読むんだ?外国人なのか?でも日本語喋ってたよな、と追いかけたが、老人は既に後ろ姿さえなかった。
 赤服の老人と入れ替わりに、予約の白杖の夫人が盲導犬に引かれてやってきた。夫人は応接の椅子に座ると、電話で話した概要どおり夫と娘の捜索を正式に依頼してきた。
「警察は誘拐ではなく夫による児童虐待事件として捜査しています。確かに夫は肝芽腫を患った娘を快く思っていませんでしたが、二人は妖精に拐われたんです。サンザシの生垣の横で日光浴させていた娘を部屋に戻そうと夫が外に出たのですが、妖精は娘を疎んじる夫の気持につけこんだのでしょう、二人の気配は突然消えました。吠えないはずのこの盲導犬が狂ったように吠えたので、きっと妖精です。警察は妖精の話をまともに聞いてくれないので、私はどこか探偵事務所にお願いしようと、『ユリシーズ探偵事務所』なら名前からしてお任せできると思いまして…」
 俺は名前が由利静雄だから事務所名を「ユリシーズ」としているだけだが由来には触れず、懐事情から二つ返事で依頼を引受け、二人の気配が消えたという庭を訪れた。
 サンザシの生垣に沿って広がる庭の草地には若木が数本輪を描くように生え、輪の真ん中だけ草が痩せてミステリーサークルのようになっていた。俺は目を閉じて深呼吸すると、宙に浮く感じを覚えた。目を開けると草香る池の辺りで水面を見つめる女が、手に何か赤いものを手に佇んでいた。俺は白杖夫人から預かった家族写真を女に見せ、
「この父娘を探していますが、見かけませんでしたか」と訊くと、
「その写真は父と私です」と答えたので、
「え?これがあなた?あなた三歳じゃないんですか?」と訊くと女は、
「その写真の私は三歳ですが、今の私は二十歳の大人です」と答えた。俺が、
「お父様はどこに?」と訊くと、女は、
「突進してきた水牛から私を守ろうとしたら水牛の背中に乗せられて、池に引き摺り込まれて食べられたみたいで、水牛は池辺にこれらを吐き出してまた潜っていきました」と言った。女が「これら」と手にしていた赤いものは二つの目玉の乗った肝臓だった。
 池辺の接ぎ木林檎の枝には名刺をくれた赤服の老人が座り、「目玉と肝臓をこの林檎の木の下に埋めなさい」と叫んだ。女が目玉と肝臓を埋めると林檎が一斉に実り、ポトポト音をたてて地面に落ち、りんごに叩かれた地面は大きな穴を開けた。赤服の老人は「ここから戻れ、娘と夫人に林檎を食べさせろ」と俺に林檎を握らせ女もろとも穴に押し込んだ。
 目を覚ますと、俺は事務所の椅子で机に突伏していた。変な夢を見たものだと思ったが、机の上には赤いリンゴが一つ転がっていた。強張った体を起こすと電話が鳴った。電話の白杖夫人は、「警察が夫の遺体を発見し、娘を保護した。検査を終えた娘は病院で眠ったまま目を覚まさない」と言った。俺は病院に夫人を訪ね林檎を渡すと、夫人は娘と林檎を分け合った。すると娘は目を覚まし、俺は「さっき大人になった君に会ったけど覚えているかい?」と語りかけた。三歳児は大人びた笑みを浮かべた。
 夫人によると俺は三日前にサンザシの生垣の前で現場検証に忙しかったのだが、夫人がお茶を淹れて庭に戻ると俺はもういなかったそうだ。夫人は記憶の飛んでいる俺にこれを見ろと、警察の捜査結果を報じる新聞をくれた。「夫君は人身売買組織に娘を売ろうとしたが、裏切った組織に臓器と目玉を取られ、後日アジトに踏み込んだ警察には、見るも無残な姿で発見された。犯人を追った警察は出港前の貨物船から娘を保護した。警察は今も組織の行方を追っている」とあった。
 夫人は後日、盲導犬どころか白杖も持たず事務所にやってきた。角膜移植が必要だった夫人も、肝移植が必要だった娘も、手術せずに健康体になったそうだ。俺は夫も娘も見つけられなかったが、夫人は林檎代だといって報酬を置いて帰った。
 世間は「白杖の夫人が人身売買組織と結託して夫を殺めて臓器と眼を娘と自身に移植したのが真相ではないか」と専ら噂した。だが俺の鼻には池辺の草の匂いが、手には林檎の感触が鮮やかに残り、妖精に連れられた世界の記憶はあまりに鮮明だった。俺は妖精に悩まされ困っている人は実は世の中にたくさんいるのではないかと思い、困っている人を助ける俺の主義に従って、事務所の看板を「ユリシーズ妖精探偵事務所」と書き換えた。
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