地の文だけで2000字(心中エンド)

文字数 2,000文字

 僕は幸せだった。とても裕福とは言えない生活だったけど、君がいつも傍にいてくれたから。

 僕はとある企業に勤める平社員。朝早くに家を出て始発に乗り、前残業から始まるのがいつものスタイル。夜も当然残業で就業は終電を逃すこともあったくらいだ。どうしてそこまでするのかと、友人に問われたこともある。しかし、こうでもしないと僕らの生活はままならなかったのだから仕方ない。
 転職を考えたこともある。けれど、それは一時的にとは言え職を無くすと言うこと。僕らの今の生活を守るためには、それは憚られた。
 僕が独り身だったら、あるいは違ったのだろうか。いや、その仮定に意味は無い。僕には最愛の女性(ひと)がいるのだ。
 僕がもっと高収入の仕事に就いていればよかったのだろうか。いや、その仮定にも意味は無い。最初の職場をくびになってから、数々の就活に失敗して、ようやく入れたのが今の会社なのだ。

 今日は終電にぎりぎりで間に合い、深夜遅くに帰宅した。家には明かりがついている。やはり今日も起きていたようだ。先に寝ていてもいいと何度も言っているのに。
 僕が帰ってきたのを見て君は笑顔を浮かべた。何も言わなくても、食事を暖め直してくれる。その後姿に何度励まされてきただろう。僕はネクタイを緩めながらテーブルについた。寝過ごさないように電車内では立ちっぱなしだったので、ようやく一心地ついたと言ったところだ。
 暖かな食事が目の前に用意される。僕はそれを貪るように食べた。僕の会社に昼休憩なんてものはない。正確には制度としては存在しているが、仕事量の多さでそれどころではないというのが現状である。
 そんな僕の様子を君は少し困ったような笑顔で見つめていた。このままでは体を壊してしまうと何度言われたことだろう。幸いなことにこれまでに大きな病気はしたことが無い。身体は丈夫な方なのだと自分では思っているが、後何年持つだろう。僕ももうそんなに若くはない。無茶が効く年齢はとうに過ぎているのだ。
 用意された食事を平らげると、君はすぐに片付けに入った。それくらい自分でやるよと伝えても、これは私の仕事だからと受け入れてくれない。家計のことで迷惑や心配ばかりかけているのに申し訳ないのだが、こういう時の君は頑固だから、決して折れてはくれないのだ。

 僕が彼女と結婚してからもうすぐ二十年になる。出会いは僕の一目惚れだった。たまたま同じ電車の同じ時間の同じ車両に毎日乗り合わせているのを僕が気付いたのだ。僕は運命を感じた。それからは毎日彼女を目で追うようになり、ある時、ついに声をかけたのだ。また同じ電車ですね、と。最初彼女は驚いていたが、彼女の方も毎回鉢合わせる僕のことを覚えてくれていた。それからは会う度に挨拶を交わすようになり、ちょっとした世間話をするようになり――。彼女を初めて食事に誘ったのは、僕が始めて声をかけてから半月ほどしてからだっただろうか。彼女はちょっと考えてから、笑顔で誘いに応じてくれた。この時の笑顔に改めて惚れ直したという話は彼女にはまだ話していない。いつか話す時が来るだろうか。その時彼女はどんな顔をするだろう。
 食事をきっかけに僕らの仲は急激に進展して行き、数回のデートの後、交際することとなった。告白はもちろん僕から。告白を受け入れてくれた時は跳び上がるほど嬉しかった。実際に跳び上がっていたかも知れない。そして数年の交際期間を経て、僕らは結婚した。その頃は仕事も順調だったし、このまま明るい未来が待っているのだと思っていた。しかし僕が最初の職場をくびになった頃から、生活は厳しくなっていくことになる。収入が一気に減り、購入したマンションのローン支払いに追われる日々となった。何件も面接に失敗して、ようやくは入れた会社は絵に描いたようなブラック企業。こんなはずではと思いながらも、最愛の妻との生活を守るために必死になって働く他なかった。

 そんなある日のことだった。うちの会社が脱税していることが発覚したのだ。これを境に業績は一気に悪くなり、結果倒産。またしても僕は職を失ってしまったのだ。

 僕の心は一気に折れてしまった。どれだけ努力を重ねても、結局は裏切られる。社会というものは弱者にはとことん厳しいものなのだということを思い知らされたのだ。
 僕は再度の就活を諦め、酒に浸るようになった。そんな僕を見て、君はどう思ったのだろう。結局、君のパートの収入だけでは残ったローンをまかなうことはできず、わずかな貯金を切り崩しながらの生活が続いた。

 もう限界だ。僕は君に伝えた。心中しようと。君は少し考えてから首を縦に振ってくれた。

 僕は幸せだった。とても裕福とは言えない生活だったけど、君がいつも傍にいてくれたから。

 部屋に充満する一酸化炭素の中で、僕はそれだけを思った。

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