第5話

文字数 1,999文字

 一瞬の瞬きの後に僕の視界から喜多原は消えていた。どうやらすぐ後ろにあった石の階段から転げ落ちたらしい。
 僕は頬に流れる血を拭いながら、その場に座り込んだ。カッとなって思わず手を出してしまった。きっと喜多原は怒り狂ってここに戻ってくるに違いない。仕返しができてスッキリといた気持ちと、これから帰ってくる雨のような暴力に憂鬱な気持ちが渦巻いた。

 しかしいつになっても喜多原の怒り狂った声が聞こえてくることはなかった。なんの音も聞こえない不自然な静寂が訪れる。
 僕は立ち上がって、喜多原が落ちていった階段を覗き込んだ。
 間違いなく喜多原はそこにいた。いつものように眉間に皺を寄せて、僕を殴るための握り拳を用意している。

 でもたった一つだけ違うのは、喜多原は仰向けになってだらしなく舌を出しながらピクリとも動かないことだ。
 でもそれは当たり前のことだった。だって喜多原の首は明らかに人間の可動域を超えてしまっている方向に曲がっているのだから。

 頭が真っ白になった。死んだ? あの喜多原が? 殺したのは……?

「……コウ?」

 僕を現実に引き戻しのは懐かしい鈴の音のような声だった。
 振り向くと、そこにはツボミが心配そうな顔をして立っていた。
 ツボミは明らかに重傷である喜多原を無視して、僕の方へと駆け寄ってきた。

「平気? そのケガ」

 ツボミはポケットからハンカチを取り出し、僕の頬に当てる。
 汚れちゃうよ、と僕は言おうとしたが、それが言葉になることはなかった。

「………喜多原が、殴ってきたらから、僕は殴り返しただけで……」

「大丈夫。コウは何も悪くないよ」

 ツボミは僕の手をとりぎゅっと力を込めた。懐かしい思い出の香りが僕の目の前を通り過ぎただけで僕は思わず泣いてしまうそうになった。こんなときなのに、僕はツボミに訊かなければならないことがたくさんあることを思い出した。
 どうしてツボミはここにいるのか。あの時何故突然いなくなってしまったのか。あの広場でツボミは僕になんて言ったのか。

 しかしそれを聞くのは今じゃなかった。今は片付けなければならない重大な問題がある。でもこの分ではこれを聞くのはもっと何十年もあとになるかもしれない。

「落ち着いてきた?」

「……うん。ありがとう」

 僕はまともにツボミの顔を見ないまま繋いでいた手を離し、もう一度階段の下を覗いた。あの心臓をぎゅっと締め付ける喜多原の怒号を僕はいつの間にかに期待していた。しかし喜多原は冷たい地面の上で死に続けていた。

「……やっぱり死んじゃってるんだよね」

 ツボミは死体となった喜多原を横目で見ながら言う。

「……とにかく警察に行くよ。あのままにするわけにはいかないから」

 頭に父さんと母さんの顔が浮かんだ。僕は怒られるのだろうか。どうして友達を殺したんだと。
 違うんだよ、父さん、母さん。僕はずっといじめられていたんだ。本当に辛かったんだ。それでも僕がいけないの?
 僕は声を大にしてそう言いたかった。でも全てはもう終わってしまったことだった。いじめの主犯格は死んでしまったし、殺したのは間違いなく僕だった。
 
「……そんなのダメだよ。行かせない」

 僕はそこで実に四年ぶりにツボミの顔をしっかりと見た。
 ツボミは泣きそうな目をして僕のことを見ていた。下唇をぐっと噛みしめて、何かを堪えるように小刻みに震えていた。

「だってコウはなんにも悪くないじゃん。喜多原君がコウのことをいじめてたのが悪いんだよ」

 ズキリと僕の胸が痛んだ。やっぱりツボミは僕はいじめられているのを知っていたのだ。情けなさと、恥ずかしさで死んでしまいたくなる。

「ツボミは家に帰っていいよ。ここはきっと騒がしくなるだろうから」

 本当に惨めだった。今すぐにツボミの視界から消えられるのなら警察にでもすぐにいってやりたかった。しかしツボミはその場から動かなかった。

「喜多原君を隠そう」

 ツボミが言っていることを理解するのに数秒かかった。

「……かくす? どういうこと?」

「そのままの意味だよ。喜多原君の死体をどこかに隠すの。死体が見つからなければ、コウはなんの責任も負わないで済む。……それにさ。納得出来ないよ。このままコウが捕まっちゃうのは」

 僕はツボミが言ったことを頭ごなしに全て否定しなければいけなかった。そんなことしていいわけがない。
 でも、わずかに見えた希望を捨てきれなかった。なにより、ツボミが差し伸べてくれた手を僕はもう一度振り払うことが出来なかった。

「そんなのすぐ見つかっちゃうよ。隠しきれっこない。それに第一、そんな都合のいい場所があるわけない」

 僕がそう言うと、ツボミは悲しそうな表情を浮かべながら小さく笑った。

「私たちしか知らない場所があるでしょ」

 それをきっかけに僕らの関係は終わって、新たなスタートを切った。
 皮肉なことに、それが前よりも強固なのは間違いないことだった。
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