第1話
文字数 1,519文字
蒸し暑い夏の夜のことであった。幹線道路を往来する車の音が、常に増して喧 しく感じられた。月はちょうど満月で、やわらかな白みを帯びて、空を漂っていた。目を瞑るが、眠りには程遠い。
試しに1度、大きな深呼吸をしてみた。胸のあたりの膨らむのが強烈に感じられる。酸素が自分の肺の中へはいり、血液へと送り出されていくのを体感した。胸に手を当てると、心臓が鼓動するのが判然とわかった。私は常より、心臓の動きに意識を向ける癖がある。そうすると、なんだか自分の生命が何らの根拠もなしに、広大な無辺世界の内に存在"させられている"ような気がして、不安と孤独感に苛まれてしまうのだ。
この日はその感覚が特段強く感じられた。すると、ベッドの隣に20代前半くらいと思しき、髪の長い裸体の女が立っているのが見えた。このようなことは、未だ経験したことはないが、それが幻覚であることは、すぐに分かった。肌の色は白く、透き通るようであったが、頬のあたりは薄く桃色がかっていて、思春期の少女のようであった。胸部には、張りのあるふくよかな2つの乳房が備わっていた。唇はみずみずしく、その肉感は、私がしばらく抑圧していた官能を呼び起こした。
「あなたはまるで私の理想そのものだ。私は望んでいたのだ、この時を、その姿を!」
「あなたは孤独でしょう、きっと…」
女はいかにもその言葉のうちに真理を包み込んでいるような、不気味な、そしてどこか蠱惑的 な声でもってそう応 えた。
「私は何もわからない、自分のこととなると尚更に…。不安なんだ、なにか恐ろしいものが自分のうちで蠢 いているようで…」
「あなたには見えている、その輪郭が。ただ、気付いていないだけで…」
少年はその言葉の要領を得なかった。
「眼の前は闇だ。闇、あなたを除いては。」
「そんなことは無いわ。あなたには全てがある。光と闇も、希望も絶望も。」
少年はしばらく黙り込んで、女の言葉を一つひとつ吟味した。そして、そのまま眠りに就こうとして瞼を閉じた。だが、そこに拡がっていたのは恐怖のイメージであった。赤と黒とが混沌と混ざり合うその色彩は、ムンクの絵画を髣髴 とさせた。
私はその恐怖に耐えかねて、再び瞼を開いた。そこには先程と変わらず女が立っていた。口元は、微かに笑みを浮かべているようにも見えた。
「あなたには私が必要でしょう。」
女が訊いた。
少年は直ぐには応えなかった。壁の方へ体を転換させて、しばらく考え込んだ。 外では蝉が、最期の力をふりり絞って啼いていた。その聲は、私にある種の感動を与えた。
「生命だ!情熱だ!愛だ!」私の瞳から涙が滴り落ちた。それは悲しみとは程遠い感情から湧き起こる、心地の良い涙であった。
「これだ!これだったんだ!」少年の顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。長らく忘れていた表情である。そのまま再び女の方へと体を向けた。
「私にはあった、すべてが。無限の世界が。夜の底に、眠りの深淵に。」
「外を御覧なさい。」女が言った。
私はその指示に従い、カーテンを捲り外を眺めた。遠くの地平には太陽が顔を出し、群青色の空には太陽に照らされた金星が輝いていた。その光景は、私に忘れがたい印象を与えた。
私は振り返り、女に接吻しようとした。顔と顔とが今にも密着しそうになった時、女は私の頬を両手で包み込み、耳元で囁 いた。
「あなたは立派よ。」
二人を朝陽 の幻想が包んだ。私は目をつむった。女の唇が、私の唇に触れるのを感じた感じた。恍惚とした。
目を開けると、そこに女はいなかった。ただ、向かいの壁に私の影が映るだけだった。
試しに1度、大きな深呼吸をしてみた。胸のあたりの膨らむのが強烈に感じられる。酸素が自分の肺の中へはいり、血液へと送り出されていくのを体感した。胸に手を当てると、心臓が鼓動するのが判然とわかった。私は常より、心臓の動きに意識を向ける癖がある。そうすると、なんだか自分の生命が何らの根拠もなしに、広大な無辺世界の内に存在"させられている"ような気がして、不安と孤独感に苛まれてしまうのだ。
この日はその感覚が特段強く感じられた。すると、ベッドの隣に20代前半くらいと思しき、髪の長い裸体の女が立っているのが見えた。このようなことは、未だ経験したことはないが、それが幻覚であることは、すぐに分かった。肌の色は白く、透き通るようであったが、頬のあたりは薄く桃色がかっていて、思春期の少女のようであった。胸部には、張りのあるふくよかな2つの乳房が備わっていた。唇はみずみずしく、その肉感は、私がしばらく抑圧していた官能を呼び起こした。
「あなたはまるで私の理想そのものだ。私は望んでいたのだ、この時を、その姿を!」
「あなたは孤独でしょう、きっと…」
女はいかにもその言葉のうちに真理を包み込んでいるような、不気味な、そしてどこか
「私は何もわからない、自分のこととなると尚更に…。不安なんだ、なにか恐ろしいものが自分のうちで
「あなたには見えている、その輪郭が。ただ、気付いていないだけで…」
少年はその言葉の要領を得なかった。
「眼の前は闇だ。闇、あなたを除いては。」
「そんなことは無いわ。あなたには全てがある。光と闇も、希望も絶望も。」
少年はしばらく黙り込んで、女の言葉を一つひとつ吟味した。そして、そのまま眠りに就こうとして瞼を閉じた。だが、そこに拡がっていたのは恐怖のイメージであった。赤と黒とが混沌と混ざり合うその色彩は、ムンクの絵画を
私はその恐怖に耐えかねて、再び瞼を開いた。そこには先程と変わらず女が立っていた。口元は、微かに笑みを浮かべているようにも見えた。
「あなたには私が必要でしょう。」
女が訊いた。
少年は直ぐには応えなかった。壁の方へ体を転換させて、しばらく考え込んだ。 外では蝉が、最期の力をふりり絞って啼いていた。その聲は、私にある種の感動を与えた。
「生命だ!情熱だ!愛だ!」私の瞳から涙が滴り落ちた。それは悲しみとは程遠い感情から湧き起こる、心地の良い涙であった。
「これだ!これだったんだ!」少年の顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。長らく忘れていた表情である。そのまま再び女の方へと体を向けた。
「私にはあった、すべてが。無限の世界が。夜の底に、眠りの深淵に。」
「外を御覧なさい。」女が言った。
私はその指示に従い、カーテンを捲り外を眺めた。遠くの地平には太陽が顔を出し、群青色の空には太陽に照らされた金星が輝いていた。その光景は、私に忘れがたい印象を与えた。
私は振り返り、女に接吻しようとした。顔と顔とが今にも密着しそうになった時、女は私の頬を両手で包み込み、耳元で
「あなたは立派よ。」
二人を
目を開けると、そこに女はいなかった。ただ、向かいの壁に私の影が映るだけだった。