ドリルの折れたドリル男

文字数 4,007文字

 ええ、神父さま、聞いてくださいよ、なに、ただの懺悔っちゃ懺悔なんですけど、いや、もしかしたら愚痴や自慢に聞こえたらすみません、いえ、なにもそんな、ね、神父さま、分かるでしょ? 人間、生きてたらなんとも言えない感情を強制的に外側に吐き出したいときがあるじゃないですか。ところで話は変わるんですけど、神父さんって資格とかあるんですか?
(土曜日の午前中の礼拝堂はとても静かで気持ちがいいものだ。俺は最近、また煙草を吸いだした。だからここに入る前にアーメンの気持ちで一服してから、その辺の溝に捨ててきたんだ。あんなもの、中に持って入ったらダメだろう?)
 さて、神父さま、聞いてください。俺はある日突然、右手の小指がドリルになったんです。まあ、それはいいんですけど、その影響で仕事を失っちまったもんで、それからどうしようかと、とりあえず至るところに穴を開けていたんです。いや、だって、小指がドリルですよ? そりゃ、開けますよ。
 ところが、ずっと穴を開けていて気がついたんです。穴は開いているのではなくて、開けられている空間のことをいうんじゃないかって。
 それで、俺は小さな脳みそでうんうんと唸りながら考えたんです。なにをかって、この世の心理とか、宇宙の真実とか、そんなあれのやつですよ。
(俺は確かに頭が悪いが、他人に頭が悪いと思われるのだけは許せないんだ)
 穴。それは空間であって、宇宙のはじまりなんです。例えば、この教会だってそうだ。この教会の中にある空間はもともとあったものではなく、穴が広がってできた人工的な空間なんですよ。そしてその中にあるこの懺悔室なんていかにも人間的だ。どうですか? スピリチュアルでしょ?
 ああ、それなのに、これを見てください。この小指の、このドリルの跡を……。
 悲劇は一瞬で、それからしばらく喜劇が続いたと思ったら、実はそれも悲劇の中の一部だった。そんな気分なんです。ここ最近ずっと。
 どうしてドリルが折れたのか。はい、私が悪いんです。私がすべて悪いんです。原因は塩でした。塩。あいつ、どうやら鉄を錆びつかせるみたいで、そうとは知らずにバカな俺は塩を削るミルの代わりに岩塩を自前のドリルで削っていたんです。ええ、そうです。目玉焼きにかけようかと思って……。ちょうどその頃、俺は無職だったから本当にやることなんて一つもなくて、かといって穴を開けたいものももうこの世にはないと思っていたから、ただ毎日ダラダラと惰性的に過ごしていたんです。はあ、それがこのざまですよ。
 岩塩を削って、塩を舐めつつ酒を飲んで、テレビを垂れ流しているとき、ふと思ったんです。あ、これヤバいループだ、って。だから俺、まずは体を清めようと思って、塩風呂に入ろうと思ったんです。ええ、塩風呂です。風呂に塩を大量にぶち込んだお風呂のことですよ。なにかの雑誌に書いてあったんですが、それが浄化にいいそうで。
(今思えば、いったい俺はなにを浄化したかったのだろうか。ただでさえ世界は美しいというのに)
 そんなこんなで俺の小指のドリルは錆びてしまったんです。そいつをきれいにしようと思ってやすりで削っていたらだんだん気持ちよくなってきちゃって、ついうっかり力を入れた瞬間、根元からポキッとね。ほら、これ、見てくださいよ。まるで元ヤクザですよ。こんなに健全な人間がヤクザに間違われるなんて、……ねえ?
 ――ええ、ショックでした。やはりドリルとはいえ、私の体の一部ですからね。折れたドリルですか? もちろん、記念にとってありますよ、なんてったって私が穴を開けて創造した宇宙の証は、もはやこのドリルの残骸しかないのですから……。
 どうですか? なにか慰めの言葉は見つかりましたか?
(こういうとき、人間はとても脆く、とても弱い。だからヤクザは決して根絶しないんだと俺は思うんだ。必要悪? 違う。不必要という必要性が世の中にはきっといるんだ)
 ああ、そうですか。特になにもない、と……。ではさようなら。いい感じのアーメンがこの穴に降り注ぎますように。

 外に出て草花を眺めながら煙草に火をつける。煙が空に上がっていく。その向こう側に広がる重々しい曇天。雨が降りそうだった。俺は無性にイライラしてきた。だから走った。とにかく走ろうと思った。煙草を捨てて、ライターも捨てて、ああ、このまま海まで――。海。海が見たい。そうだ。明日は失業保険の受給日じゃないか。ああ、神さまありがとう。よかった、祈っておいて。よし、行こう。いざ沖縄へ。

 俺は今や普通の人間だ。普通の人間にドリルなど生えていない。そう、これが日常なんだ。飛行機だって乗れちゃうし、金属検査に引っかかることもない。なにより凶器というものを持っていない日常というものがこんなにも素晴らしいとは!
(平穏。もしかしたらそれこそが俺の求めていた答えなのかもしれない。問題は問題点がなにかが分からないということだ。困った。先に答えが見つかってしまった。まあいい。きっとどうでもいい問題だったんだ、きっと。生きる意味とか、人生の目的とか、そんな類の)
 俺はさんぴん茶を飲む。俺はサンダルで町を歩く。俺はブルーシールのアイスクリームを食べる。そして座る。疲れたから。もうすぐ海だ。そんな気がする。飛行機の中で爆睡していたせいで俺は海をまだ見ていなかった。だから早く見たかった。海。常夏の楽園。その象徴。自由の。
 そのときだった。ぶらぶらとラブホ街を歩いていると、遠くからパトカーの音が聞こえてきた。徐々に近づいてくる。なにか事件でもあったのかと思っていると、向こう側からものすごい勢いで飛ばしてくる一台の車が見えた。白のワゴン。きっと警察はこれを追いかけているんだなと直感的に分かった。俺は車道に身を引っ込めて、その車を眺めていた。車はあっという間に俺の横に。その瞬間、運転手と目が合った。悪役のプロレスラーのような男だった。それは本当に一瞬だった。それなのに、俺には見えたんだ。その男の過去が。いや、あれは人生と言っても過言ではないだろう。とにかく、その男の半生の絵がはっきりと頭の中に流れ込んできたんだ。
 俺はぼんやりと空を眺めながら、涙を我慢した。
 しばらくして、音が止んだ。その日の午後、ヤフーニュースに彼のことが載っていた。那覇市内を暴走していた車が警察に追われてガードレールに衝突、ケガ人はなく、男はその場で逮捕された。
 ステーキを頬張りながら、俺は胸くそ悪い気分になっていた。人はなぜ犯罪を犯すのか。人はなぜ欲に負けるのか。ああ、イライラする。誰でもいいからぶん殴りたいぜ、まったく。煙草。そして歩く、歩く、あてもなく。
 ふと顔を上げると、海が見えた。海、海。青い海。コバルトブルー。マリンブルー。スカイブルー。エメラルドグリーン。こんなもんか? 青!
 俺は飛び込んだ。水着なんか持っていないけれど、海パンだろうと下着だろうと構うもんか。人目なんて気にしてる暇はないんだ。そうだろう? だって青いんだぜ? 海が俺を呼んでいる!
 飛び込んでから俺は思ったんだ。海はなんでしょっぱいのだろうかって。そして、この塩はいったいどこから溢れているんだ。あと、あれだ。これこそ究極の浄化だって思ったよ。だってすべてが塩水なんだぜ。もう俺は浄化しすぎて溶けてしまうかもしれない。さっきの暴走していた男も入ればよかったのに。
 俺は潜った。小指がなんとなくむずむずした。ドリルの跡だ。急に俺は激しく後悔した。どうしてドリルが折れてしまったんだろうか。あんなにも大切に磨いていたのに。ちくしょう、俺は水の中で叫んだ。口から気泡がごぼごぼと溢れて上に登っていく。ああ、そうか、これだ、この感覚だ!
 穴を開けるのに、果たしてドリルは必要なのだろうか。穴は概念だ。だとすると、開けるという過程も概念だ。……ああ、なんだ、そういうことか。俺はまた口から泡を吐いた。その泡を見つめながら、もう俺は明日のことなんてどうでもよくなっていた。
 水の中に穴を開ける。それはドリルではなく、生きる過程の結果なのだ。
 もうこのまま沈んでしまいたかった。ドリルのいらない世界。穴の開いていた世界。もともと、宇宙は一つだったんだと、ようやく感覚的に理解できた瞬間だった。
 陽光。その残光。そして影。水の中。風を感じながら。夢。その続き。果てしない空間。宇宙、深淵の。希望と祈り。
 のどが渇いた。俺は海をあとにした。さようなら。青。

「俺だって本当はただ正直に生きたかっただけなんだ。嘘をつかないで、人を騙さないで、まるで子供の頃に見たアニメのヒーロー、弱い人を助けたかったんだ。ただ、それだけなんだ。田舎にいる母ちゃんに合わせる顔がない……」
 きっと彼は警察署でこう語っていることだろう。そんなことを思いながら、俺はゲストハウスのかび臭い布団の上でまどろんでいた。明日は明日の風が吹く。だからと言って仕事を探さない言い訳にはならない。俺は飢えていた。金と飯と女と、……あとはなんだろう、いったい人はなぜ生きているのだろうか、ふとそんなことを考えながら、ぼんやりとあの神父の顔を思い浮かべようと思ったけど、果たしていったいどんな顔だったのか分からなくて、俺はいつだってそうだ、大切なことはなにひとつ分からなくて、どうでもいいことばっかり覚えていやがるんだ。
 とりあえず、神父にお土産でも買って帰るとするか。ちんすこうに、海の青かった話と、あとはあの暴走車の運転手のかわりに懺悔でもしておこう。うん、それがいい。さて、寝るか。波の音を聞きながら、青い海を想像して、その上に開いている大きな穴のことを思い描きながら。夢? もういいさ。夢よりも、この空気が吸えるという環境にただ感謝を込めたいんだ。どうもありがとう、バイバイアーメン、また明日。
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