第1話

文字数 2,475文字

 久しぶりに石川を訪れた。ここにくるのは実に十年ぶりだ。金沢駅からでると、外の澄んだ空気を思いきり吸い込んだ。懐かしい故郷の匂い。俺が金沢にいたのは約十八年間。関西の大学に進学し、就職もそのまま関西だ。石川は好きだけど、新しい土地にも行ってみたくなったというのが理由だった。
 俺はスマートフォンを取り出し、一枚写真を撮る。撮ったのは金沢駅の兼六園口にある、鼓門だ。この独特な形状の門は能楽で使われる鼓をモチーフにしているらしい。だから鼓門か。確か…俺が中学生ぐらいのときにできたはずだ。石川に住んでいたときは、見慣れていたから何とも思わなかったが…十年ぶりに見ると荘厳な雰囲気を漂わせた美しい建物に見えた。

 バスに乗り込み、十分ほどすると橋場町に停車した。そこから少し歩くと、ひがし茶屋街に辿り着く。まだ時間に余裕があるから、しばらくぶらぶらしていよう。ひがし茶屋街では着物姿の若い女性や外国人の観光客たちが目立っていた。俺はその人たちの間を通り抜けつつ、目的もなくただ歩いていた。そのうち、俺はある出来事を思い出してきた。
 あれはー俺がまだ小学生の頃。小学五年生のときに、子供だけでひがし茶屋街に行こうと約束したのだ。小学生のときは、こういうところに行くにはまだ親の同伴が必要だったーだから、子供だけで行きたいと思っていた。
 約束した子はごぼう。ごぼうはあだ名だ。ごぼうはその当時、男子よりも背が高く痩せていて、日に焼けた肌をしていた。顔立ちは可愛らしく、目力の強い女の子だった。今から考えると、ごぼうというあだ名はあまり嬉しくなかっただろう。子供だったから、あまり深く考えずにそう呼んでいたが…誰がそんなあだ名を考えたんだっけ?俺はしばしの間熟考し、それから愕然とした。俺じゃないか。俺がそう言い始めたんだ。小学生の頃は、ごぼうは俺の身長を優に超していていた。女子に身長を超されたことが悔しく、やっかみ半分に俺が〈ごぼう〉というあだ名を付けてしまった。ごぼうの本名は…何だっけ、思い出せ。
 そんなことを考えながら足を動かしていると、いつの間にか主計町茶屋街まで来ていた。石でできた薄暗い階段ー通称暗がり坂を何となく下りていると、途中ですれ違った親子から会話が聞こえてきた。
 「これは暗がり坂だけど、近くにはあかり坂もあるんだよ。」
 母親らしき人の声だ。
 「あかり坂?」
 こっちは、まだ幼そうな女の子の声。
 「そう。ある作家さんが名付けたんだって。」
 あかり坂ーそうだ。思いだした。ごぼうの本名は、麻野朱莉(あさのあかり)だ。昔はちゃんと朱莉と呼んでいたのに、いつからかごぼうと呼ぶようになってしまった。ごぼうと変なあだ名を付けられても、小学生のときは俺と仲良くしてくれた。中学生になってからは、クラスも部活も同じになることはなかったから自然と疎遠になっていたけど…。もしかすると、向こうが俺と距離を置いていたのかもしれない。
 親と一緒に行動するのはガキっぽくて嫌だ、子供だけでひがし茶屋街に行こうー思春期にでも入ったのか、そんなことを言い出した俺に朱莉は付き合ってくれた。朱莉の両親は共働きで忙しく、あまりひがし茶屋街に連れて行ってもらえたことがなかったと本人から聞いた。そのときは誰でもいいから、誰かとひがし茶屋街に行ってみたかったのだろう。
 約束した日、俺は見事にバスを間違えてひがし茶屋街ではなく兼六園の方に来てしまった。スマートフォンなんて便利な物を持っていなかった俺たちは、調べる術もなくただひたすら兼六園と金沢公園の中をぐるぐる歩き回っていた。
 「ねえ、いつまで歩くの?もう疲れた。」 
 ごぼうーいや、朱莉の不安と不満の入り混じった声が頭の中で響いた。
 「ここ、兼六園だろ?ひがし茶屋街と兼六園は近いから。もうすぐだから。」
 俺の…小学五年生だったときの自分の声も響く。
 「でも、同じところを歩いていない?ここさっきも通った気がする。」
 「そんなことない!まっすぐ行ったら着くから!」
 やけにムキになって言い返した。冬は日が落ちる時間が早い。辺りはもう暗くなってきていた。本当はまっすぐ行っても辿りつかないことは分かっていたけど、自分のせいで行き方を間違えたことを認めたくなかった。夜が近付くにつれて気温が下がる。寒さで手がかじかんできた。俺は寒さと、それから不安と焦りで苛つき始めていた。
 「えーそうかな。なんか怖くなってきた。帰らない?」
 朱莉は少し俯いていた。朱莉も寒いらしく、両手を上着のポケットの中に突っ込んでいた。
 「ごぼう、ひがし茶屋街に行きたいんじゃなかったの?」
 「行きたかったよ。でも、もう空は暗くなってるし…。今日は無理じゃない?」
 「諦めていいのか?よく言うじゃん。諦めずに頑張ったら道が開けるとか何とかって…。」
 口ではこんなことを言っていたけど、正直俺も早く帰りたかった。ただ、朱莉にひがし茶屋街に連れて行ってあげる、と言ったのに連れて行けてない申し訳なさが俺を意固地にさせていた。
 「…あ、ねえ見てあれ。」
 唐突に朱莉が指をさした。朱莉が指をさした方向を見ると、ライトアップされた兼六園がそこにあった。温かい光を放つ雪吊りが池に反射して、幻想的な光景になっていた。その綺麗さに、俺と朱莉はしばらく黙って見ていた。俺の中にあった不安や苛立ちがだんだん溶けていったのは、その光のおかげかもしれない。
 ー結局、あの後は近くにいた観光客の人の携帯を借りて親に電話をかけた。兼六園にきたけど帰り道が分からなくなった、と伝えて迎えに来てもらったのだ。我ながらあまり格好良くないオチだった。俺はため息をつく。
 今日の夜は小学校の同窓会がある。俺はそのために故郷に戻ってきた。朱莉も来ているだろうか?来ていたなら謝りたい。朱莉ももう大人だし、ひがし茶屋街ぐらいは自力で行けるだろう。だけど、もし誰かと行きたいと思っていたならー今度はちゃんと約束を果たしたい。
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