南講義室

文字数 1,188文字

 もう来るはずもないだろうと思っていたのに、僕はそこに誘われる。
「お久しぶりです」
────君は確か……。
「高無です。って言っても覚えてないですよね」
────いや、覚えてるよ。何にも無いけど寄っていくといい。
 無に話しかけても無駄なのは分かっている……が、心なしか誰かが返事をしてくれたような気がした。
「よいしょっ……あれ? こんなに硬かったっけ?」
 ドアが開けづらくなっている。塗装もいくらか剥げていた。
「こりゃ、不気味だな」
 部屋の中は掲示などが全くない、壁に囲まれている。机の並びも乱雑だった。中には椅子の背もたれがないものや、壊れたまま放置されているものもあった。
「わっ」
 その一つを人差し指でなぞってみるとざらざらした。
 埃が付く。気安く触るんじゃなかった。よく見ると机のスチールの部分があちこち錆びていた。
「しかし、数年でこんなになるもんかな。もっと綺麗だったと思うんだけど」
 久々に見たその姿は、私が過ごした時間の何倍も多く年を取ったように見えた。白かった壁も黒ずみ、床には仄かに歩いた後が残っている。もう、あの日々の面影すらも感じられない。確かにあのときは輝いていたんだけどな。
 何かを探したくて、黒板に並べられる白い文字を必死に書き写していた。何かになりたくて、疑わずに前だけ見て走っていた。
「あのときが一番楽しかったんだよな」
 置いてあるチョークを一本手に取る。それも幾らか埃を被っていた。黒板に乗せ軽く力を加える……が折れてしまった。
 何度か繰り返したが、結局のところ掠れてうまく書けなかった。
────すまない。もう、君の帰ってこられる場所はここにはないんだ。
「たぶん塗り直されていないんだろうな。まあ、しかたないね」
 書けないことがもうここは変わり果ててしまったことを証明しているようだった。
「もう帰ろう」 
 これ以上ここにいたら全て失ってしまう気がする。だから帰ろう。
「さよなら」
 私は急いで南講義室を後にする。
────行ってしまった。君はここから離れられないんだね……。

***

「さよならー」
「いままでお世話になりました!」
「律儀にどーも。君たちも頑張るように」
 ようやく最後の一人が教室を出る。別れの哀愁がこの部屋に漂う。
「これで終わりか」
 健やかな成長を見守るのが私の使命だったが、この役目も紀寿を前に終わる。使われない空間が校舎を蝕んでいるのだ。生徒数が減り、以前のように必要とされなくなっている。
「もうここに春は訪れない」
 何十回の青春を君たちのそばで見守っただろうか。もう思い出せない。だけど、
「彼らの姿はとても輝かしかった。人一倍逞しくなっていった」
 同胞(はらから)よ、怯えず進め。そして、どこまでも行け。どうか、この日々が柵となり縛られることがありませんように。どうかこの日々が君たちの糧となりますように。光が君たちを照らしますように。
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