そんなバナナ・ワールド

文字数 4,261文字

 ここに一房のバナナがある。それはそれは美味しそうだ。それはそうだ、僕が買って来たものだからだ。これから大好きなバナナを食すという至福の時間を迎えようとする僕に、不意に割り込む無情な声がする。
「また、そんな黄色いバナナを買って来てー」
 と妻はいつも言う。そして、いつも決まってこう続ける。
「わたしは青いバナナが好きなの!」
 それは何十回も、いや、何百回も聞いた。僕は決まってこう切り返す。
「僕は黄色くて、こう、黒い点々があるやつが好きなんだよ!」
「そんなの腐る手前って感じで気持ち悪いじゃない!」
 そんな妻の主張にかき消される。
「なに言ってんだ。甘くて美味しいじゃないか! それに栄養だってあるんだぞ!」
「わたしはシャキッとした歯ごたえのがいいの!」
 土曜の朝から、バナナの色で妻と口論した。結婚してから、いったい何十回、いや、何百回バナナで口論しただろうか。なぜかバナナの味だけはまったく趣味が合わない。妥結点見えないまま平行線をもう5年近く続けている。
「じゃあ、こうしよう。バナナを買うときは、青いバナナと黄色いバナナの両方を買うというのはどうだ?」
「そんなの無駄じゃない。青いバナナを買って、黄色くなったらあなたが食べればいいじゃない」
「って言うけど、いつも青いうちに君が食べちゃうじゃないか」
「早く食べないと美味しくないでしょ」
「だから、僕は黄色いバナナが食べたいの」
「わかったわよ。黄色いバナナを買えばいいんでしょ!」
 なんでいつもこうなるんだ。バナナの好みに関してはまるで逆だ。その他は結構、気が合うのに、ことバナナのこととなるとまったく意見が合わない。いや、バナナが好きというのは一致している。ただ、色、つまり食べるタイミングが違いすぎる。

 そんなある時、僕は数量限定のスペシャルバナナを買った。妻は、またそんな黄色いバナナを買ってといった眼差しで見ている。少々高いが、糖度が抜群に高い。実際に食べてみると、想像以上の美味しさだ。ところが、バナナを食べた直後、おもむろに妻が言う。
「珍しいわね。あなたが黄色いバナナを食べるなんて」
 と言うなり、1本取ると美味しそうに黄色いバナナを食べるじゃないか!
「あれ? 君は黄色いバナナは食べないんじゃなかったっけ?
「何言ってんのよ。それはあなたでしょ」
 一体、何を言っている? なんかの冗談か? それとも黄色いバナナの美味しさに目覚めたのか? 
「君、この間のけ……、いや、なんでもない」
 まさか、この間の口喧嘩の仕返しか? いやいや、あの時は確かイーブンで終わったはずだ。
 翌日の妻の言葉に僕は再び耳を疑う。
「また、こんな黄色いバナナを買ってきて」
「昨日は、美味しそうに食べてたじゃないか」
 どの口が言っているんだ? 一体どの口が。
「変な冗談やめてよ。わたしが食べるわけないでしょ。そんな黄色いバナナ」
「!?」
 一瞬、頭がおかしくなったような錯覚でめまいがする。僕は気を取り直してそのバナナを食べる。
(ああ、美味い……)
 やはり、バナナは黄色いのに限る。
「このバナナ美味しそうね」
 と言うなり、バナナを剥くと、妻は美味しそうに頬張るじゃないか!
「ちょっと待った。さっきと言ってることが違ってないか?」
「なにがよ。ああ、おいし〜」
 待てよ。これは偶然か? 僕がこのバナナを食べた時に限って、妻が黄色いバナナをおいしそうに食べている。この二つの事象には何か関係があるに違いない。ただ単に妻にからかわれているだけかもしれないし、このバナナには何らかの幻覚作用があって、それはそれでまずいが、黄色いバナナを食べたくなるような心理作用をもたらすのかもしれない。しかし、常識的に考えるなら、単にからかわれているだけだろう。確かめるにしてもバナナはあと1本しかない。さすがに1本だけでは検証は難しい。それにしてもあんなに嫌いな黄色いバナナを、演技だとしでもそこまで美味しそうに食べられるものだろうか?
「このバナナ気に入ったので、また買ってくるよ」
「ついでにポン酢も買ってきてね」
「ああ、わかった」

 駅前のスーパーに向かうと、例のバナナが残り2房だけ置いてある。僕は早速、レジに持って行く。おっと、忘れずにポン酢の瓶もカゴに入れる。
「あれ、お客さん、昨日もこのバナナ買われましたよね?」
「え? ええ、そうです。とても美味しかったので」
「本当にそれだけですか?」
「……どういう意味ですか?」
「いえ、このバナナを買ったお客さんが、何度も買いに来るので、ちょっと聞いてみたんですよ」
 と言うと、店員は少し笑ったように見えた。
「ええ、それで?」
「みなさん、奥さんが人が変わったようになると口を揃えて言うんですよ」
「はあ」
「ひょっとして、お客さんのところもそうじゃないかと思いましてね」
「うちは……特に変わってませんよ」
「そうですか。それならいいんです。合計で836円です」
 僕は、その店員にお金を渡すと、そそくさと店を後にした。その店員が言ったことが気になって仕方がない。家に帰ると、最後の1本のバナナがそのままある。
(落ち着け。バナナの本数は限られている。どう効率的に確かめるかよく考えろ)
「ポン酢を買って来たよ」
「ああ、ありがとう。じゃ、そこに置いといて」
「うん」と言うと、さりげなくバナナを置く。
「あなた、またバナナを買って来たの? 本当に好きね」
「まあね」
 今は黄色いバナナについては何も言ってこない。今の君はどっちの君だ?
「でも、君もバナナ好きじゃないか」
「まあ、そうね」
「あの、あれだ、どういうバナナが好きなんだ?」
「何よ今さら。聞くまでもないでしょ」
 かわされた。なかなか核心には触れようとしない。何とも言えない沈黙が流れる。夕飯が近いので、食べるに食べられない。
「もうすぐ、夕飯だよな」
「そうよ。だからバナナは食べないでね」
「ああ、わかってるよ」
 仕方なく、テレビを付ける。今食べると、また黄色いのが好きと言うはずだ。どうすればいい? いや待てよ。青いバナナを買って来てきたとしたらどうだろう。その反応次第でははっきりするかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなった僕は、すぐに行動に移した。
「まだ夕飯には時間があるよね?」
「――そうね。あと30分くらいかな」
「買い忘れたんで、ちょっと行ってくる」
「え、何を? 冷めちゃうから早く帰ってきてよ」
「ああ、全力で行ってくる」

 僕は、青いバナナを買うためにスーパーへと走った。ところが、3軒回っても青いバナナが見付からない。
(なぜ、どこにもないんだ!)
 すでに妻との約束の30分は過ぎている。もうタイムアップだ。家へ向かって帰ろうとすると、そこに見慣れない露天商が青いバナを売っているじゃないか!
(渡りに船とはこのことだな)
「あの、このバナナを一房頂けますか?」
「はい、毎度あり! 470円です」
「結構いい値するね」
「そりゃあーもう、うちのは一級品ですからね」
「はい、じゃこれ」
 と言って、500円硬貨を手渡す。
「はい、30円のおつりです」
「どうも」と言って、急いで立ち去ろうとすると、露天商の男が言う。
「あ、お客さん! うちのは青いままでも美味しいですから、すぐに食べられますよ」
「え、そうなんですか? じゃ、帰ったら食べてみます」
 軽く会釈しながら、その場を後にする。
(青いバナナが美味しいだって?)
 にわかには信じられないが、値段が値段なので、ひょっとしたら美味しいかもしれない。
(青いバナナか……、そう言えばここ何年も食べてないな。帰ったら食べてみよう)
 少し期待しながら私は家路を急いだ。

「ちょっと遅いじゃない。料理が冷めちゃうわよ」
 家に着くなり、不機嫌な妻が予想通りの言葉を口にする。
「悪い悪い。ちょっと美味しいバナナを見つけて来てね」
「えー、でもさっきもバナナ買ってたじゃない。どんだけ買うのよ」
「今度は日持ちする青いバナナだよ」
「青いバナナ? あなた嫌いじゃなかったっけ?」
「だから、君のために買って来たんだよ」
「え、そうなの? ありがと。じゃ夕飯の後に頂こうかな」
 今、はっきりと分かった。今、目の前にいる妻は僕の知っている妻だ。そう、黄色いバナナが嫌いで、青いバナナが好きな僕の妻に間違いない。
(これは見ものだぞ。彼女が青いバナナを食べている時に、僕が黄色いバナナを食べたら一体どうなるか……)
 そう考えると、居ても立っても居られない。僕は一刻も早くバナナを食べたいという欲求が抑えられなくなっていた。
「どうしたの? そんなに急いで食べて」
「いやー、お腹が空いていたし、君のごはんが美味しいからだよ」
「ふ〜ん」
 夕飯の時間がもどかしい。そして、ついにその時が訪れる。
「じゃ、食後のデザートにバナナを食べようか。はい、じゃ君はこっちの青いバナナね」
「ありがと」
「そのバナナ、高かったんだぞ。そのままでも美味しいって言ってたから、後で僕も食べてみるよ」
「ふ〜ん、私は青ければなんでもいいけどね」
 妻はバナナを1本手に取ると、皮を剥き始める。
(お、遅い!)時間が流れが、残酷なまでに遅く感じる。
 そして、妻は今まさにバナナを食べようとしている、その瞬間を見逃すまいと僕は目を凝らした。
「な、なに? ちょっと食べ辛いんですけど」
 あまりに僕がガン見していたせいか、妻はせっかく口まで持って行ったバナナを戻してしまう。
「いや、ちょっと気になったもんだから」
(いかん、いかん、あくまでもさりげなくその瞬間を待つんだ!)
 今度はあえて顔をそらして視界の隅で見る。そして、ついにその瞬間が来た。彼女が咀嚼するのを確認すると、僕は、黄色いバナナを口いっぱいに頬張る。次の瞬間、僕たちは同時に叫ぶ。
「なんで、君が青いバナナを食べているんだ?」
「なんで、あなたが黄色いバナナを食べているのよ?」

「僕は青いバナナが好きなんだ!」
「私は黄色いバナナが好きなの!」

(あれ? そうだったっけ??)
 気のせいか、なんだか逆だったような気もするし、元々、こうだった気もする。まあ、どっちでもいいか。そもそも僕たちはバナナの好みに関しては、ずっと逆だったんだから。
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