Masquerade・Suicide

文字数 26,316文字

毎日毎日、寝て起きて食べて寝て起きて食べての繰り返し。たまに働きに出る。単発のバイト。楽なヤツに的を絞って楽に金を稼ぐ。
ギャレット・ノースモア、24歳、独身。定職には就いていない。
カルガタード共和国の外れの村で一人暮らしをしている俺は、生まれてこの方ずっと田舎に住んでいる。城のある方面になんて行ったことは無い。定職に就いて、お金を稼いで、城下町に住めるような経済力が身についたらそこに住んでみたい気持ちもあるが、今の俺にはそんなこと出来ない。

ベットからゆっくりと起き上がり、だるいと思いながらもカーテンを開ける。日光が目に直接届いて眩しい。目をぎゅっと閉じた。
朝はあまり好きではない。綺麗な朝日で浄化されそうな気分になるから。俺なんかには薄暗い場所がお似合いだ。
そんなことを考えながら、頭をぼりぼりと掻いて洗面所へと向かう。
ボサボサで手入れのなっていない伸びきった肩までの髪。それに適当に手ぐしを通して横でまとめる。
何も無い日でも、こうやっていつも通りのルーティーンを行うことでなんとなくちゃんと生きてるって感じがする。

レコードプレイヤーの蓋を開ける。適当に選んだレコードを入れて蓋を閉めて、机に突っ伏して音楽を聴く。こうしていると暇を潰せるから良い。

――コンコン

玄関からノック音がする。
思い当たるのは一人しかいない。

「入っていいかー?」
「いいよ。」

目の前に現れたのは銀髪をオールバックにした少し厳つい男、ニック・エルズバーグ。俺の唯一の友達だ。
なんで友達になったのかは思い出せないが、この村に来てから執拗に話しかけられたから、なんとなく付き合ってやっているみたいなもんだ。
でもこいつは本当に良い奴で、俺の家に急に来て食事を作り置きしてくれたり、あまり外に出たりしない俺を外に連れ出してくれる。

「お前、またそのボロレコードプレイヤーで音楽聴いてるのかよ……さすがにそろそろ買い換えろって。」
「ボロだからいいんだろ……普通のレコードプレイヤーで聴くより音が古臭くて好きなんだよ。」

いつもの会話だ。俺はこの音が好きで、このプレイヤーで聴いてるのにいつも文句を言ってくる。確かに……見た目は凄くボロボロだが。それも趣があっていいだろう。

「お前、ちょっと変わってるところあるよな。」
「そりゃどーも。俺にとっては褒め言葉だ。」
「褒めてるつもりで言ってるんじゃないけどな……っと、今日はこんなことを言いに来たんじゃない。」

今日は何の用だろう。一昨日は村の西にあるレストランに食べに行こうと誘われて行った。その前は服を選んで欲しいと、古着屋に連れていかれた。

「なあ、俺と一緒に、城下町で暮らさないか?」

「……え?」

耳を疑った。城下町で暮らす?
そんなお金どこにあるんだ。ニックはそれなりに収入があるからいいかもしれないが、俺はどうしようもないだろ。というかニックも城下町の方で仕事を探さなくちゃいけなくなる訳だし、いい事ないだろ。

「お前、絶対金の心配してるだろ。」
「バレた?」
「俺が言い出したんだ。俺が払うよ。一緒の家になるけどな。」
「……いいのか!?」

まさかの展開だ。俺は払わなくていいのか……??
というか、こいつのどこにそんなお金があるんだ。たしかに人並みに収入はあるが、城下町は家賃がえげつないほど高い。そんな所に住めるほどって、こいつ何やってるんだ?副業か?

「その代わり、城下町では仕事探せよ。バイトじゃなくて。」
「わーってるって…………本当に払ってくれるのか?」

俺はまだ信じられていない。そんなに都合のいいことがあっていいのか?

「だから、払うって。で?城下町で暮らす、に対しての返答は?」

どう考えてもメリットしかない。俺も仕事を新しく探すきっかけになるし、いや、働きたくはないんだけど。
とにかく、金も払わず今よりいい暮らしができるなんて、この誘い、乗るしかないだろ。

「もちろん。俺も暮らすよ。」
「……ありがとな。それじゃあ早速、荷造りでも始めてろ。まあお前は……そんなに運ぶものもないだろうけど。」

なんかバカにされた気がしたが、まあ気にしなくていい。荷造りするとは言っても、俺はそんなにものを買う金もないから、さっきのボロレコードプレイヤーと、10枚くらいしかないレコードと、ちょっとした服くらいしか持ってないんだよな。すぐ終わるだろうから、まだ先でもいいだろ。

「それじゃあ、この村を出るのは1週間後だから……」
「いや早くね!?」

2度目の耳を疑った。こういうのって、もっと時間がかかるものじゃないのか……?引越しは1回しかやった事がないから分からない。しかもその1回は引越しと言えるのかどうかも怪しい。

「早ければ早いほど良いだろ。じゃあな。俺も荷造りしてくる。」
「お、おう……気をつけて帰れよ。」

本当に台風みたいな男だ。でも心優しくて良い奴だから一緒に住むとしても嫌なことはないだろう。ただ問題なのは、俺の生活能力が皆無なこと。レコードを聴きながら寝落ちして、気づいたら次の日だったことなんて何度もある。3日間風呂に入らないことなんて当たり前だ。酷い時は1週間くらい入らない。さすがに酷すぎるので直したいとは思っているが、染み付いた生活習慣はなかなか直らない。

とりあえず今日はゆっくりしよう。引っ越したらゆっくり出来ないだろうからな。あと一週間はゆっくりするんだ。





「ちょっと待ってくれ!まだ荷造りできてない!」
「はあ?お前、ちゃんとやれって言ったよな!?」

新生活、ダメかもしれない。
あのあとゆっくり楽しく過ごしていた俺は、荷造りすることなど頭の隅に追いやってしまい、そのまま当日の朝を迎えた。
ニックは既に4日前程には荷造りが完了していたようで、業者に新居まで運んでもらったようだった。
それに比べて俺は……

「俺も手伝うよ。仕方ない。」
「ニック……いつもごめんな。ありがとう。」
「いいから口じゃなくて手動かせ!」

俺はニックに申し訳ない気持ちを抱きながらも一緒に荷造りをした。ニックは俺のこういう所にはもう慣れてしまったようで、1回驚きの声をあげたあとはもう普段通りのニックに戻っていた。
荷物は少ないため、俺の荷造りは10分程で終わってしまった。
あとは城下町に行くだけ。俺にとって初めての城下町だ。
正直楽しみだ。しかし24にもなってそれだけでテンションが上がるのは変かと思い、自分を落ち着かせる。

「ぼーっとしてないで、行くぞ。」
「おう。」


電車を乗り継ぎ、バスを乗り継ぎ、トンネルを抜ける。
出発したのは朝の8時だったが、着いた頃には空の色は暗くなっていた。
どこまでも黒い空に、いくつか星が輝いている。
そして、目の前に視線を移すと――

「いやー、何度見ても城はすげえや。」

遠くに城が見えた。それを見てニックが感嘆の声をもらす。
俺は声すらも出なかった。
城の手前に広がる町。ここが今日から俺達が住む場所なのだ。

手続きを済ませて、早く家に行こう。
そう思っていた。


「ええっ、書類、間違ってます!?
ニックが珍しくヘマをした。
ニックは頭の回転が早く賢い。普段ならこんなことはしないはずだ。
そして俺はニックとは対照的に頭が悪いし気の利いたことも言えない。ここは黙っているが吉だろう。

「あ、これに新しく書けば大丈夫なんですね。」

どうやらすぐに解決しそうだ。

「おいギャレット、お前の名前も書く場所があるから、こっちこい。」

そう呼びかけられたので、ニックの方へと向かい自分の名前を書く。
ギャレット・ノースモア、っと。
汚い字でサインを書く。対照的に、ニック・エルズバーグと書かれたサインは文字の大きさが一定で整っている。さっきから俺とニックの対照的なところしか表れていない気がする。
まあ、実際俺とニックは対照的な人間だと思う。俺は生活能力が皆無だけど、ニックは世話焼きで他の人の分の家事までしてしまう。
そうこう考えているうちに、書類の確認は終わったようで、ようやく俺たちは新居に向かうことが出来た。

ガチャ、とニックが扉を開ける。
そこに広がっていたのは村で住んでいた家より数倍広いリビングであった。

「広く見えるのは家具がないからだよ。」

俺の心を見透かしたようにニックが言う。
いや、それにしても、家具がないにしても広すぎやしないか。本当にこいつのどこにこんな金があるんだ……
友達とは言っても、こいつの全部を分かっているわけではない。なんの仕事をしているのかもよく知らない。まあ、それは俺が興味無いだけか。

「明日は家具を買いに行ってくるよ。お前、家具にこだわりとかないだろ。」
「ないな。お前が好きなのを買ってくればいい。」
「はいはい。ソファと、テーブルと、あとちょっとしたクッションとか居るかな。あと折角だしバスタオルとかも買っておこう。お前が風呂に入るきっかけになるかもしれん。」

そうだ。新居だし風呂も気になる。今日はしっかり風呂に入ろう。

「ん……電車の椅子硬くて腰いてえんだよな……」
「あー、俺もだわ。」
「お前もかよ。まあ、とりあえず俺は風呂に入ってくるから。」

先を越されてしまったが、まあいいだろう。
広い新居、ここで俺の新しい生活が始まる。







「――仮面舞踏会?」

新居に引っ越して5日後のこと。どうやら明日、城で仮面舞踏会なるものが開催されるらしい。

「そうそう。仮面舞踏会。お前、参加しないか?」

仮面舞踏会って……俺は人と関わりたくないんだ。放っておいてくれ。

「行かない。お前は勝手に行ってくれてもいいけど、俺は行かないからな。」
「まあそんなこと言わずに……この町の人と親睦を深めるチャンスだろ?」
「断固拒否だ。人と関わりたくないんだ。俺は。」

そう。断固拒否。ニックが何を言っても、絶対に行かないからな。

「そんなこと言ってると……お前、この町の人に舐められるぞ?」
「……は?」
「あの家は、仮面舞踏会にすら参加しない引きこもりの家だ、って言われるって言ってるんだ。実際、この町の人のほとんどが参加しているらしいしな。」

何を言い出すんだこいつは。
俺が……この俺が、舐められるわけないだろ。
俺は他人に舐められるのが大嫌いなんだ。
でも……ほとんどが参加しているのか。それじゃあ本当に舐められるかもしれない。
クソっ……

「……っ、いい。参加するよ。」
「そう言うと思った。」
「どういう意味だ!!」

上手くニックの手のひらの上で転がされているようで悔しい。しかし舐められたくはない。参加も仕方ないことだろう。

「舞踏会は夜8時から。仮面はもう買っておいたから、お前もそれつけて行けよ。城までは一緒に行ってやる。」

こいつ、もう仮面を買っていたのか。用意周到だな。
城までの行き方はなんとなくしか分からない。ニックはよく知っているようなので、案内してもらおう。
そして今日は……しっかり風呂に入ろう。なんなら、明日も舞踏会の前に入ろう。






真紅のカーペット。優雅な音楽。その先にはいかにも重そうな大扉。
ここを開けばホールらしい。

「城の中は俺も入ったことなかったから初めてだ。目が眩むくらいの豪華さだな……」

ニックの言う通り、本当に目が眩む位の豪華さだ。
そして、この先のホール。どんな景色が待ってるのか。
俺は扉を開く。

「っ、凄い人だな。」
「ああ。迷わないようにしろよ。」
「迷わねーし!!」

ニックと軽口を叩き合いながらホールへと入っていく。
ものすごい人混みだ。既に吐きそう。
俺は人が苦手だし、人混みも苦手だ。
やっぱり来たのが間違いだったか……

「キャーーーーー!!!」
「かっこいいわ……さすがね。」

どうやら人混みの中心には誰かがいるらしい。
黄色い歓声が耳を劈く。

人波にもまれてもまれて、もう俺の精神はボロボロだ。早く家に帰りたい。人も多すぎるんだよ。なんだよこれ。
気づいたら人混みの中心付近まで来てしまっていた。ずっと下を向いていたから前の様子はわからない。折角だし、黄色い歓声を浴びていた人達くらい見ていくか。

「キャー!シドさん、今日もお美しいわ……」

そこには優雅に踊る2人の男女がいた。
男の方の名前は、シド、というらしい。

……けっ、あんな踊りくらい俺でもできるっつーの。あんなんで歓声浴びてんのかよ。この町も大したものじゃないな。

「ギャレット、お前の醜い逆張りな部分が出てるぞ。」
「……お前はいつも俺の心を読んでるみたいに……」
「実際お前は分かりやすいんだよ。」

確かにニックの言う通りだ。俺は逆張りしがちな部分がある。あいつ、シドも本当は凄いのだろう。俺は本当に性格が悪い。

「それはともかく、お前も誰かとペア組んで踊ってみろよ。それが楽しみってもんだぜ。」
「分かってるって……」

少し人混みがマシなところに行ってみる。
やっぱり俺は人が苦手だ。自分から話しかけることもできない。仮面を付けているからまだマシだが……
誰か話しかけてくれ、と願いながら柱に寄りかかって立っていると、1人の女性が話しかけてくれた。

「そこの茶髪のお兄さん。」
「……あ、俺ですか?」
「そうそう。貴方です。一緒に踊りません?」

真っ赤なリップに派手な仮面。
俺の苦手な人種だ。しかし断るのは印象が悪すぎる。
ちょっとだけ踊って、すぐに離れよう……



「……っ、ちょっと、貴方下手すぎません!?」

踊りが終わり、気がついたら暴言を吐かれていた。

「あっ……っと……すみません。」

本当はめっちゃくちゃに言い返したい。言い返して言い返して、こいつの精神をめちゃくちゃにしたい。なんなんだコイツは。やっぱり最初から断っていればよかった。だから苦手なんだよ、こういう女は……

「……はあ、もう帰りたい……」
「ちょっと、なんてこと言うんです!?私の踊りがダメだとでも!?」

ぼそっと言った小言はどうやら聞こえていたようで、また大声で怒鳴られる。本当に苦手だ……そして、本当に帰りたい。
しかしニックを置いていくのはダメだろと自制する。ニックは今ホールのどこにいるのかはわからないが、あいつもまともに踊りの練習なんかしてなかったし、俺と同じような状況になってるだろ。いや、なっていてくれ。俺だけこんな目にあうのは不憫すぎる。

もう声もかけられたくないと、柱の元にうずくまって座っていた。聞こえてくる人の声も、音楽さえも鬱陶しい。
もう誰も俺に構わないでくれ。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
うるさい。

「大丈夫ですか?」

頭上から男の声がする。
なんだよ。話しかけるな。俺に。

「……っ、うるさ……」
「よかった。あの人だ。」
「……は?」

見上げると、そこに居たのは先程まで歓声の中にいたシドという男だった。
たしかにうずくまってたから心配されたのは分かるが、「あの人」って、何のことだ?俺なんかしたっけ?

「体調が悪いのでなければ、一緒に踊りませんか?私、貴方のことがとっても気になるんです。」

何を言ってるんだ?こいつは。踊りの下手な俺を馬鹿にしようとしているのか?いや、でも……
仮面で顔が隠れていてわからないが、そんな雰囲気は感じない。

「……少しだけなら。」

気づいたら俺は了承していた。こいつとなら踊ってもいい、こいつなら俺の踊りを馬鹿にしないだろう。なんだかそんな気がしたのだ。

「ありがとうございます。」

そう言いシドという男は俺の手を引っ張る。

「お名前、なんていうんですか?」
「……ギャレット。」
「ギャレットさん、ですか。とってもいいお名前ですね。私はシドといいます。よろしくお願いしますね。」
「……おう。」

踊りながらも今日に喋ってくる。
なんだか、こいつの声は、不思議と落ち着く。
さっきまで人混みで体調も良くなく、気分が荒んでいたことを自覚していたが、少し落ち着いた気がする。

なんなんだ、こいつは。一体。

「……なんで俺を誘ったんだ?」
「……笑わないでくださいね。なんだか、貴方からは他の人とは違う魅力を感じたんです。」
「……なんだそれ。」

本当に、何を言っているんだ、こいつは。

そう思う心とは裏腹に、高鳴る鼓動はシドに自分が少しずつ惹かれていっていることを示していた。

仮面で隠れているが、綺麗な顔をしているのだろう。薄く形のいい唇がそれを物語っていた。
そして、フワッと笑った時のその口元。
つい綺麗だと口に出してしまいそうなほど、儚くて素敵だった。

そして、最もはその踊り。
長い手足をしなやかに動かすその姿は何者にも形容できないような美しいものであった。
さっき遠くで見ただけでは分からなかった。指1本1本が意志を持ったかのように動いている。
それに惹かれずにはいられなかった。
ああ。こうやってファンが増えていくのか。そう思うとさっきの歓声も納得だった。

「踊って下さり、ありがとうございました。ではまた、どこかで。」
「……こちらこそ、ありがとうございました……」

一瞬、言葉を失っていた。
まるで夢を見ていたようだった。そう思うほど、彼の魅力は底知れなかった。
――また、どこかで。
その言葉を信じよう。
またどこかで、いや、また必ず会いたい。そして、また踊りを交わしたい。



フワフワとした気持ちのまま、気づいたら家に帰ってきていた。どうやって帰ったのか、どこでニックと合流したのか、記憶が曖昧だった。

俺の頭の中には、シド、その男しかいなかった。
次はいつ会えるだろうか。また、仮面舞踏会には参加するのだろうか。次の舞踏会はいつなのか。阿呆みたいな疑問が沢山浮かんでくる。ああ自分は浮かれているんだ、そう自覚せざるを得なかった。

「なあ、ニック。」
「なんだ?疲れてるから早く寝させてくれ。」
「すまん、……次の舞踏会って、いつあるんだ?」
「なんだギャレット、最初はあんなに行かないって言っていたのに気に入ったのか?」

こんな風に茶化されるだろうということは分かっていた。確かに最初は行きたくなかった。俺は人が嫌いだ。けれど、シドに会いたいという気持ちは誤魔化しのきかないものだと心のどこかで気がついていた。

「ああ……気に入った。次も行こうと思う。」
「そうか……それは良かった。次は1ヶ月後の9月12日だ。俺は仕事が忙しくなるから行けないが……お前は行ってもいいぞ。」
「……1人で行かせる気か?」

シドに会いたい、その気持ちと、1人では行きたくない、その気持ちを天秤にかける。

「しょうがないだろ。城までの道は今日覚えただろうから、行けないことはないだろ?」
「……そうだな。いい。1人で行くよ。」

結局、シドに会いたいという気持ちの方が勝ってしまった。まあ、今回もホールではほとんどニックと別行動だったし、ニックの言う通り行けないことはない。

「そういえばお前……女性に怒鳴られてなかったか?」

バレてた。笑えない。あんな場面誰にも見られたくなかった。まさかこいつにバレていたとは。

「しょうがないだろ……踊りが下手すぎるって文句を言われたんだ。そこまで言う必要ないだろうに……」
「ははは。まあしょうがないさ。練習していなかったんだからな。」

そう言うこいつはどうなんだ。こいつは、踊りが下手だと怒鳴られたりはしなかったのか。まさか俺だけなのか?

「お前はどうなんだよ。下手とか言われなかったのか?」
「言われてないさ……まあ、さすがに少し表情には出されていた気がしたけど。仮面で顔が見えなくとも、なんとなく雰囲気は分かるものだよな。」

言われてないのかよ。クソっ。俺だけ酷い目にあってるじゃないか。まあでも……こいつは俺より上手く踊ったんだろう。こいつは器用だし、なんでも出来るから踊りもそれなりに踊れたに違いない。俺と違って。そして……仮面で顔が見えなくとも雰囲気は分かるって言うのには俺も同意だ。……シドの輝かしい雰囲気は、仮面をしていても感じ取れるものがあった。あの人は周りとはまるで違う。

「まあ、舞踏会が気に入ったって言うんなら、踊りの練習でもしたらどうだ?……と、その前にお前は仕事探せよ!」
「それは……ぼちぼちな。踊りの練習はするさ。また怒鳴られたくないからな。」

唐突に仕事という痛いところを突かれて俺はたじろぎそうになった。それはともかく、踊りの練習はしなければならない。折角参加するのだから、また怒鳴られたくはない。シドとまた踊れるかは分からないが、踊る機会があったら今日のように下手な舞では引かれてしまうかもしれない。練習をしておいて損は無いだろう。

じゃあ俺は寝るからな、とニックは寝室に向かってしまった。俺も寝よう。
自分の寝室の扉を開けると、久しぶりにニック以外の人と関わった疲れがどっと来てしまったようで、酷い眠気に襲われる。早くベットに入って寝てしまおう。
……それにしても、今日は舞踏会に行って本当に良かった。家に引きこもっていてはシドに会えなかった。
シド、その名を心の中で唱えるだけで顔が熱くなりそうになる。今日で会ったばかりなのに、もうすっかり俺はシドの虜になっていた。早くシドに会いたい。会いたい。会いたい。
その気持ちを抑えながら、目を閉じる。
しかしまぶたの裏に浮かんでくるのはシドであった。
――次の舞踏会は、1ヶ月後の9月12日。
長い。長すぎる。俺は今すぐにでもシドに会いたいのに。1ヶ月も舞踏会が無いなんて、俺はこの気持ちをどうやって消化したらいいんだ。ああ、早くあの声が聞きたい。あの素敵な口から発せられる言葉と声で俺の心を掻き乱して欲しい。そしてそのまま俺と踊って欲しい。手を握って踊りたい。俺と同じくらいの大きさの手だったが、すらっとしていて綺麗な指だった。爪も手入れされていて、光が反射してつやつやと輝いていた。早くあの手を握って踊りたい。
シドの全てが俺を狂わせている。……今日初めて会った人なのに。シドが俺に声をかけてくれたのは運命だったのかもしれない。ここまで惹かれているってことは、もしかしたら俺がこの町に引っ越してくることも必然的であったのかもしれない。そして、あの時、シドが俺に声をかけたのも。俺のどこに魅力を感じたのかは分からない。仮面をしていても隠しきれない陰のオーラに、オドオドした喋り方、ボサボサの髪。どこを取っても魅力なんてないのに、あの人は俺に他の人とは違う魅力を感じたと言った。確かに、他の人とは少し違ったかもしれない。悪い意味で。魅力とはなんだ。俺に魅力なんてあるか?……いや、あるということにしておこう。魅力のない俺と、存在自体が魅力の権化であるシド。そうなってしまえばあまりにも不釣り合いすぎる。シドが一緒に踊ってくれたということは、俺にも俺が気づかないだけで魅力があるんだ。そう思うようにしよう。
自分のことを見つめ直しているうちに、気がついたら俺は寝てしまっていた。





ザッ……ザッ……と、すり足で歩く男。
それを、音を立てないように気を張って、かつ見失わないように追いかける俺。
何をしているのか。
――言ってしまえば、ストーカーだ。
ストーカーが悪いことなんて俺だってさすがに分かっている。しかししょうがないんだ。
なぜ、こんなことになっているのか。
俺は堪え性の無い性格だということを再確認した。あと1ヶ月を待てないなんて。
シドに会いたくて会いたくてたまらない俺は、彼のピアスの数を思い出していた。
右耳に5個、左耳に3個、そして、口元に1つ。
この数のピアスを付けている男、つまりそれはシドを意味する。仮面で顔が分からなくても、他に要素は沢山ある。
俺は家の外に出るのが嫌いだ。照りつける太陽が鬱陶しいから。風が俺を邪魔だと言わんばかりに吹き荒れるから。
そんな俺が、外に出た。
つまり、何が言いたいかと言うと……ピアスの数がシドと同じである男を追いかけて、シドの素顔を知ろうとしている。
ああ、舞踏会で沢山シドのことを観察しておいてよかった。踊っている間もピアスの数を数えたり、手を執拗に見たりと踊りと関係ないところに意識が行っていたが、バレてはいなかっただろう。
今、追いかけている男のピアスの数は、右耳に5個、左耳に3個。そして正面から顔は確認できていないから分からないが、口元のピアスがあれば、シドで間違いないだろう。
さあ、早くこっちを向いてくれ。その顔を俺に見せてくれ。きっと仮面を外した素顔も素敵なんだろう。鼻はどんな形だろう。高いのか、低いのか、はたまた鷲鼻か段鼻かあぐら鼻か。どんな形でも愛せる自信がある。あの口元にマッチする鼻はどんな鼻だろう。ああそうだ、目もしっかり見たい。仮面の上からでは範囲が狭すぎてよく見えないのだ。二重か、一重か、涙袋はあるのか、蒙古襞は張っているのか、こちらもどんな形でも愛せる自信がある。さあ、早くその顔を、素敵な顔を、見せてくれ。

ザッ……ザッ……
「やあ。カヴァデイルさん。先程はお電話ありがとうございました。」
「……!?!」

今、声が聞こえた。シドの声はとらえどころのない様なゆったりした声で、低めで、柔らかい、しなやかな声。まるで彼の舞をそのまま表したような声だ。
しかし目の前の男の声はどうだろう。
声質は太く、1音1音ハッキリと発音する。そして、ら行の滑舌が少し甘い。
シドは滑舌が良かった覚えがある。
つまり、この目の前の男の声は全くシドに似ていないのだ。目の前の男はシドではなかった。
シドじゃないなら興味は無い。俺は今、シドにしか興味が無いんだ。確かに、再度確認してみれば、シドは薄紫色の短髪であるが、追いかけていた男は薄紫色の髪色ではあるがキノコみたいな髪型をしていた。
細かい部分だけ見て、全体を見られていない。本当に俺はダメだ。観察眼の無さのせいで余計な体力を使ってしまった。早く家に帰ろう。早く寝よう。もう次の舞踏会の日まで、ずっと寝ていたい。早くシドに会いたい。本物のシドに会いたい。あの声を、落ち着くあの声を聞きたい。シドのことを考えながら俺は家路についた。





9月12日。待ちわびた舞踏会の日。
1人でなんとか城に辿り着き、ホールへと向かった俺はただひたすらにシドを探し回っていた。
前回のように分かりやすく人が集まっているところにいて欲しかった。そうすればシドの姿を早く見つけることができる。ああ。早くシドの姿を見つけて安心したい。シド、早くその声で俺を魅了してくれ。その笑顔で、フワッと笑った時の柔らかな口元で、俺を貴方の虜にしてくれ。

しかし、どれだけ走り回ってもシドがいない。最悪の想定だが……今回、シドは参加していないのでは?
そう思った途端、頭が真っ白になった。
シドが参加していない?そんなことあるか?いや、完全にないとは言いきれない。シドだってプライベートではニックと同じように仕事をしているかもしれない。いや、年齢が分からないからなんとも言えないが、もしかしたら学校で出された宿題に追われていたり……いや、さすがにシドは成人済みであろう。あんなに落ち着いた声で肝の座っている学生がいてたまるか。
――今この場所はホール。舞踏会の参加者が立ち入れる場所は、この場所の他に食堂と控え室がある。俺はシドがホールにいることを前提として探していたが、もしかしたら食堂や控え室にいるのかもしれない。そちらも探しに行ってみよう。少し希望が見えた気がする。
俺は食堂へと駆け出す。

「……はぁ、」

食堂は人1人おらず閑散とした様子だった。ホールはあんなにも混んでいるのに食堂に人がいないことなんてあるのか?参加者には無料で食事が提供されるんだぞ。まあ、午後8時からの開催だから晩御飯を食べてから来る人が多いのかもしれない。残るは控え室のみ。控え室にシドは居るのか、段々鼓動が早くなってきた。シドに会えるか、居ないか、その二択。天国と地獄だ。

ガチャ、と控え室の扉を開ける。
ホールとは対照的に静かな控え室にはドアを開ける音が響き渡り、その場にいたほぼ全員がこちらを見る。
その顔ぶれの中にシドは居なかった。
――シドは、居ないのか?
1ヶ月も待ったのに。この1ヶ月、俺はシドに会うことだけを目標に生きてきたのに。
俺は落胆した足取りで控え室の椅子へと向かい、それに座る。一般的な椅子より小ぶりなその椅子はフカフカで座り心地が良く、少し気分も落ち着いた。
しかし、まさかシドが居ないとは。
そんなことがあっていいのか。ああ。もうホールで流れている音楽ですら鬱陶しい。俺を1人にさせてくれ。

「……ギャレットさん?」



「……シド?」

聞き覚えのある声がした。勢いよく顔を上げる。すると目の前にはあの時の男がいた。
前回は青色の仮面に紺色のローブを纏っていたが、今回は黒色のタキシードを着ている。

「……っ、どこに居たんだ?俺、ずっと、探して――」
「探してくださっていたんですか。嬉しいですね。」

そう言って笑みを零すシドに俺は頬が紅潮するのを感じた。胸が熱い。言葉も上手く出ない。どうしたものか。シドを前にするとこうも上手くいかなくなってしまうなんて。俺はおかしくなってしまったのか。

「シド、踊ろう。一緒に。ずっと探していた。」

本当に俺はダメだ。テンパりすぎて言葉が途切れ途切れにしか出てこない。もう自分が何を考えているのかも分からない。

「ふふ……ありがとうございます。もちろんです。ただ……少し、待っていて貰えませんか?」

ああ。いくらでも待つ。そんな気持ちの悪い言葉を飲み込んで、俺は黙って頷く。
シドはそれを言い残したあと、少し離れた男の所へと話をしに行ってしまった。

ああ――シドと話すことが出来た。再び、会うことが出来た。やっぱり俺たちは運命だったんだ――
そんな気持ちで俺は約5mほど離れた場所にいるシドをまじまじと見つめる。

黒色のタキシード……とても似合っている。前回はローブで体の線が隠れていて分からなかったが、驚くほどスタイルが良い。服の上からでもわかる、無駄な脂肪の無い腹部、綺麗に筋肉がついた太もも、細い足首。それに見合わず大きな足。全てが魅力的だ。白い肌と黒色のタキシードのコントラストがとても良い。こう、心の底から湧き上がってくる不思議な感覚に襲われる。恐らく筋肉のついているであろう厚い胸板。そして上半身。下に目をやるとなだらかな曲線を描く尻が見える。そして何よりその仕草。自分に自信がないと出来ない堂々とした態度。ああ――シド。会いたかったよ。君に。本当に会いたかった。
君のいい所なら無限に言えてしまう。俺は君に狂わされている。


「ギャレットさん、話が終わりました。さあ、ホールに出て踊りましょう。」

シドがこちらに向かい歩いてきてそう言った。シドがこちらに向かって歩いてくる、その事実だけで俺は今にもここで死んでしまいそうだった。

「ああ。……ありがとう。」
「さあ。一緒に行きましょう。」

そう言ってシドは俺の手を握る。シドに手を握られてしまった。前回も同じように手を握られたが、最近はシドに手を握られる妄想ばかりしていたため、これが現実なのかなかなか受け入れられない。シドの手はやはり最高だ。見ただけでは分からない。触ってみて初めてわかる、スベスベで、ささくれも見当たらない。恐らく丁寧に手入れをしているのであろう。

シドはその手でホールへの扉を開ける。

「きゃあ!シドさんよ!」

扉を開けるなりすぐに飛び込んできたのは歓声であった。
俺はそれに僅かな苛立ちを覚える。
今、シドと踊ろうとしているのは俺なのに。俺だけがこのシドを独り占めしたい。俺だけのシドにしたい。
他の人間の目になんてさらしたくない。
しかしそんな訳にもいかない。自分を納得させてシドとの踊りへと集中する。

「さあ、ギャレットさん。踊りましょう。」
「……ああ。」

シドが俺の手を取る。右足を出して華麗にターン。
俺はその姿に見惚れてしまい、少し出だしが遅れてしまう。それを取り繕うように次の動作に入る。

「ギャレットさん、踊り、練習しました?」
「……少しな。」

シドに気づいて貰えた。素直に嬉しい。
あの時、ニックに言われて練習しておいてよかった。心の中でニックに感謝する。

「こっちよ、こっち!」
「あら……シドさん、下手な男と踊ってるじゃないの。」

そんな会話が聞こえたような気がした。しかし俺の耳に入ってくるのは、音楽と、そしてシドの言葉だけ。

ああ。ずっとこの時間が続けばいいのに――




「ギャレットさん、ありがとうございました。」
「こちらこそ……ありがとう。」

最後に、聞きたいことがある。
それを口に出そうとした。しかし、喉が張り付いて言葉が出ない。
俺は怖がっているんだ。断られるのを。しかし……ここで躊躇してしまえば、絶対に後悔する。


「……連絡先!!!」

気がつけば俺は人目をはばからず大声で呼びかけていた。
言ってしまった。断られたらどうしよう。

「……これです。」

そう言うとシドは俺に小さな紙切れを渡してきた。
その紙を見ると、メールアドレスが書いてあった。
きっと、シドのものだろう。
良かった。断られなかった。

「本当は、誰にも渡してないんですよ。」

シドは容易くそんなことを言ってくる。そんなことを言われたら勘違いしてしまうでは無いか。頬が紅潮するのを感じる。本当にずるい男だ。

「……ありがとう。」

本当はもっと気の利いたことが言いたかったが、今の俺にはそれしか言えなかった。


今日の目的は果たした。もう帰ってしまおう。
シド以外の人間と踊るつもりはない。何度も言うが、俺は人間が嫌いだ。
それに、シド以外と踊るメリットを感じない。どうせまた踊りをバカにされるんだ。そんなのだったら、最初から踊らない方がいいだろう。
人の波を掻き分けて、ホールの出口へと向かう。
ドアを開け、廊下を渡り、城の外へと出る。
9月にしては涼しい風が、まるで俺の頭を冷やさせるかのように紅潮した頬を掠める。
――シドのメールアドレスを、手に入れた。
それは俺にとって嬉しすぎる出来事であった。
あのシドと、あの憧れのシドの、連絡先を。
最初は、なんて送ろうか。いや、そもそも送るべきなのか。いやでも、相手は俺のメールアドレスを知らないんだから、俺から送るべきであろう。
話題は……今日は踊ってくれてありがとう。
それが1番平凡でいいだろう。



『まず、メールアドレスを教えてくれてありがとう。そして今日一緒に踊ってくれたことについて感謝を伝えたい。君の踊りが俺はとても好きだ。』

こんなものでいいだろうか。
家に帰った俺は風呂に入って、ベットの中で蹲りながらシドに宛てるメッセージを考える。まるで恋する乙女のようだ。
送信ボタンを押そうとする。が、また迷い始める。
「好き」だなんて直接的な言葉を書いて引かれてしまわないだろうか。でも、俺がシドの踊り、そしてシド自身を好きなのは事実である。事実を書いて何がいけないんだ。
そんな気持ちと理性とで俺の気持ちは対立している。
そもそも、本当に送っていいだろうか。
連絡先も聞いて、メッセージもその日のうちに送って、とがっつきすぎだと思われたら嫌だ。次の舞踏会で避けられてしまい一緒に踊れなくなってしまうなんてことがあったりしたら……俺は死んでもいい。誇張とかではなく。
いや、けれどお礼のメッセージをその日のうちに送るのは礼儀であろう。早く送らないと、夜遅くに送ることになってしまう。それでは非常識だ。嫌われてしまうかもしれない。さあ、早く送るんだギャレット。そう自分に言い聞かせる。

……送信、した。
さて、返信は来るだろうか。
俺はベッドから飛び上がり、部屋の中を意味もなく歩き回る。そうしないとどうにも落ち着かないのだ。こんなことをしていてもシドから返信が来る訳では無いのに……

ピロン

通知音が鳴った。シドか?シドからなのか?
俺は期待に胸を膨らませながらベッドの上置いたスマホへと駆け寄る。
画面を見ると、そこには町の薬局の新商品発売の文字が並んでいた。
なんだよ。シドじゃないのか。紛らわしい。俺はスマホを投げた。
こんなタイミングでそんな通知寄越してくるなよ。
行き場のない怒りを薬局とスマホに当てる。

ピロン

再び通知音が鳴った。
今度こそシド、だと思いたいが、どうせまた薬局かなにかであろう。スマホを確認する。そこには……

シド、の文字が。

シドからの返信が来たのだ。俺は嬉しすぎて部屋中を駆け回った。
さあ、内容を確認しよう。


『ギャレットさん。こちらこそありがとうございます。僕の踊りを好きと言って貰えて嬉しいです。また舞踏会で会いましょう。ちなみに、10月は舞踏会が多く開催される月なんですよ。来月は沢山会えますね。』


在り来りな、特別でもなんでもないメール。
それでも俺の胸を高鳴らせるには十分であった。
シドからのメッセージ。それだけで俺の中ではもう宝物になってしまうのだ。
――さて、これには返信しようか。「また舞踏会で会いましょう」と言われてしまっている。これはもう会話が終わってしまっているだろう。ここで無理に返信してしまってはそれこそがっつきすぎだと思われてしまう。それにこれ以上の返信を考えたとていい言葉は思い浮かばない。ここは返信しないが吉だ。そうしよう。
そして、「10月は舞踏会が多く開催される月」だとシドは言っている。確かに誰かがそんなことを言っていたかもしれない。「10月は1週間に1回、舞踏会が開催されるらしい」と。誰だっけ……ニックだっただろうか。まあ俺の友達はニックくらいしかいないから、恐らくニックであろう。今日は9月12日。舞踏会は1ヶ月後……ではなく、10月1日だ。待つ時間はそれでも長いが、丸1ヶ月間待つよりはマシだろう。
――1週間に1回、シドに会える。そんなの、考えられない。毎週シドの姿を見られるなんて。シドと話せるなんて。そして……シドと、踊れるなんて。
一体俺はどうなってしまうんだろう。
幸福感に包まれながら目を閉じると、俺はいつの間にか寝てしまっていた。





「シドさんよ!はあ、相変わらずお美しいわね……」
身動きが取れない。人が多すぎる。こんな場所は苦手なのにまた来てしまっている。結局俺はシドに会いたいのだ。それだけは揺るぎのない事実なのだ。
人を掻き分けて前方へと進む。シドを目にするために。

「今日は前の下手な男じゃないわね。」
「そうね。相手の女性もお美しいわ……」

……シド、女と踊っているのか?

「あの2人、お似合いよね……」
「私も思いましたわ。あの2人、交際されているとかではなくって?」

何を言っているんだ、こいつらは。
明らかに自分が苛立っているのがわかった。
とにかくシドの姿を一目でもいいから見て安心したい、その一心で人波を掻き分けてもっと前の方へと進む。

音楽に合わせて踊る男女が2人。
1人はシド。いつもと変わらぬ様子のシド。今日は赤色の仮面に紺色のスーツを着用している。
そしてもう1人は――明らかにシドに恋愛感情を抱いているであろう、素朴な女。
見た目は派手では無いが、サラサラとした髪質から相当手入れされているであろうことが分かる。きっと金持ちだろう。
問題は、そこではなかった。この女、明らかにシドに好意を持っている。それが分かるのは、俺自身がシドに好意を抱いているからか。俺と同じ目をしているような気がした。俺と同じ気持ちでシドと踊っているような気がした。
それが俺には許せなかった。シドは気づいてないのか?この女が自分のことを好きだということに。気づいているなら、なんで踊っているんだ。恋愛感情なんて面倒くさいだろう。今すぐ踊るのを辞めてくれ。この2人が交際し始めたら俺は……俺は、女に何をするか分からない。

しかし、シドはこの女に好意を抱いているのだろうか?俺はシドに最初から踊りに誘われているし、他の人とは違う魅力を感じたと言われた。他の人にはやっていない連絡先の交換までしたし、会うのが楽しみとまで言われた。この女は俺よりいい待遇を受けているのだろうか?
……そうでないんだったら、この女はシドには相応しくない。
早くシドから離れてくれ。もうシドと踊るのは辞めてくれ。シドに金輪際関わらないでくれ。俺のシドなんだ。

「ありがとうございました。」
「こちらこそ……私、シドさんの踊りがとっても好きですの。」

……違うだろ。お前が好きなのはシドの「踊り」じゃなくて、シド自身だろ。

「ありがとうございます。また、踊りましょうね。」

シドはあんな女相手にも、また踊ろうと言うのか。
あれは社交辞令か、はたまた本心か。
――とにかく、俺はあの女が気に入らない。
シドに近づいて、シドと踊って、シドに好意を伝えている。きっと交際したら周りからも祝福され、シドもこの女も幸せになるんだ。
その幸せを壊してやりたい。俺はこの女が嫌いだ。
嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。



――「お前、金輪際シドに近づくな。さもなければ――どうなるか、分かってるよな?」

俺は女の肩に手を置いて耳元で囁く。
女の顔は仮面の上からでも分かるほどみるみるうちに青ざめていき、すぐに逃げ出していった。
……スッキリした。これでもうこの女はシドに近づくことは無いだろう。そして、シドと交際することもない。
俺があの女の幸せを壊してやったのだ。
シドを好きになったのが運の尽きだったな。
これでもう、俺とシドだけの世界だ。

続いて、俺とシドが踊る番だ。

「こんばんは。ギャレットさん。会うのを楽しみにしていましたよ。」
「……俺も!……だ。その……返信、ありがとう。」

シド。シド。ああ、紺色のスーツも似合っている。黒色のタキシードも似合っていたが、こちらも捨てがたい。紺色のスーツに黒のネクタイが輝いている。黒なのに輝いて見えるのは、もうそれはシドの魅力が内側から発光しているのであろう。
差し出された手を握る。この感じ、俺の大好きな時間。シドの手を握る瞬間が、俺の1番好きな瞬間だ。
シドの手の魅力は以前から散々語り続けているが、また語らずにはいられない。俺と同じくらいの大きさなのにシドの方が指が長い。関節は小さく、すらっとした指だ。その指は踊りの時には1本1本が意志を持ったかのようにしなやかな動きで俺を魅了してくる。爪はツヤツヤと輝き、シャンデリアの光を反射している。

そんなことを考えていると、俺はつい、シドの手をベタベタと執拗に触ってしまっていた。
……まずい。気持ち悪がられてしまうか。
するとシドはそれに気づいた。
しかしふっと笑って俺に告げる。

「貴方は本当に……僕のことが好きですね。」

ああ。もうそこから気づかれてしまっていたのか。仕方の無いことだ。以前から散々シドに好意を匂わせていたんだから。
もう気づかれているなら仕方がない。
俺はシドの踊りを、自分の踊りが崩壊しない程度にまじまじと見た。
やっぱりシドの脚は綺麗だ。この脚でならもはや蹴られたい。いやむしろ、蹴ってください。シドの声、初めて聞いた時からずっと大好きだった。ずっとこの声に惹かれていた。この口から発せられる言葉が大好きだ。声帯まで自分のものにしたい。この口から声帯を震わせて発せられる暴言ならいくらでも吐かれたい。シド。その声で俺を罵ってくれ。なだらかな曲線を描く尻ももちろん好きだ。言葉では表せないほどに好きだ。その尻で俺の上に座って欲しい。まるで人間椅子だな。本当にそれでもいい。俺の上に座ってくれ。そのまま押し潰されても構わない。もしシドが2人いるなら、その厚い胸板同士で俺を挟んで窒息死させて欲しい。シドの胸板、実際に触ったことはもちろん無いが、きっと程よい硬さで挟まれたら気持ちがいいだろう。ああ、そのまま窒息死させてくれ。シドに殺されるなら本望だ。そして何より、キラキラに輝く薄紫色の髪の毛。短い髪の毛だが、手入れされていることが分かる。俺のゴワゴワとした髪質とは違い、サラサラの触り心地が良さそうな髪の毛。なんて素敵なんだ。その髪も食べてしまいたい。食べて食べて消化管をシドの髪だらけにして消化管を詰まらせてそのまま死にたい。でも、シドの髪を食べるなんて恐れ多い。そしてもったいない。だからシドの抜けた髪の毛1本1本を束ねていずれカツラを作ろう。そうしたら擬似シドの完成だ。こっちの方が理想的かもしれない。そしてシドの細い足首。手の親指と人差し指で輪っかを作ったら通ってしまいそうだ。シドの足首は細いだけでなく、白い。チラチラと見える白い足首は扇情的だ。下に目を向けると大きな足。俺より一回りくらい大きいだろうか。それに高そうな靴を身につけている。靴を脱いで、足の匂いを嗅ぎたい。きっとシドのことだからいい匂いがするんだろう。俺の足は臭いかもしれないけど、シドの足は絶対にフルーティーないい匂いがする。はあ、嗅いでみたい。その大きな足で踏み潰して欲しい。もし俺が小人だったら、シドに踏み潰されて死んでしまっていただろう。いや、死んでいてくれ。シドに踏み潰されて死ぬなら最高じゃないか。



「ギャレットさん。今日もありがとうございました。」
「……こちらこそ。また、一緒に踊ろう。」
「ええ。もちろん。」

シドと共有する時間が終わってしまった。共に踊る時間が終わったのだ。――今日のシドも最高だった。シドはいつだって最高だ。俺の天使だ。俺の神で、仏だ。大好きだ。
――もう、さっきの女のことなんてどうでもよかった。俺の目の前にシドがいて、シドの目の前に俺がいる。それだけでいいじゃないか。十分幸せだ。





俺は初めて舞踏会に参加した時のようにフワフワした気持ちで家に帰った。


『こんばんは。シド。今日も一緒に踊ってくれてありがとう。本題だが、明後日の10月3日、城の外で会えないか?お返事待っています。』

これでいいだろうか。
俺は前回と同じようにシドのメールアドレスへメッセージを送信しようとしていた。
――プライベートでも、シドに会いたい。そして、その仮面の下を知りたい。
その気持ちが抑えられなくなってしまい、ついメッセージに誘い文を入れる。
断られるかもしれない。断られたらどうしよう。断られるということは、俺とプライベートでは会いたくないことを意味する。つまり、俺のことが嫌いだということ。俺はシドに嫌われたらどうやって生きていけばいいんだ?
いや、送るんだ、ギャレット。
断られたらその時だ。今は勇気を出す時。
いざ、送信……!




ピロン



『ギャレットさん。こんばんは。こちらこそありがとうございました。3日の件ですが……申し訳ありません。舞踏会で出会った人とプライベートで会うのはまだ少し恥ずかしく、今回は見送らせて頂きます。』



断られてしまった。誘いを。シドに。
恥ずかしい、などと言っているが、本当は俺に会いたくないのであろう。俺のことが嫌いなんだろう。今日、踊っている時にまじまじと見すぎたからか?気持ち悪いと思われたのか?口では「貴方は本当に僕のことが好きですね」などと言っておきながら、本当は気持ち悪いと思っていたんだ。いや、シドの言葉をよく思い出して考えてみる。「貴方は本当に僕のことが好きですね」だぞ?貴方は本当に僕のことが好きですね。気持ち悪いです。かかわらないでください。かもしれないんだぞ?
俺はシドの言葉を都合よく解釈しすぎていた。俺のミスだ。嫌われているのに、誘いメッセージを送ってしまった。これはもう、完全に嫌われてしまっただろう。舞踏会で一緒に踊ることすら、出来ないかもしれない。それは嫌だ。どうやったらシドの俺への気持ち悪さを取り除ける?どうやったら、どうやったらシドが俺に好意を持ってくれる?いくら考えても分からない。もう俺は嫌われた。それは揺るぎのない事実。もう、もとの関係に戻る方法はないんだ。……もう、舞踏会に行くのは辞めよう。
せっかくの10月。週に一回舞踏会がある月。それを無駄にする覚悟はないが、今、シドに会えるほど俺のメンタルは強くない。
もういい。もう寝よう。寝て、寝て、忘れよう。シドのことを。






「おい、ギャレット。今日は舞踏会の日だぞ。お前、行かなくていいのか?」
「……」
「とりあえず起きてこい。お前、朝から夜までずっと寝てんじゃねえか。寝すぎだ寝すぎ。」
「……」
「ギャレット?」
「……いい」
「は?」
「……行かなくて、いい。」

ずっとベッドに潜っていた。どうやら1週間が経ったらしい。今日が舞踏会の日だ。
でも、行くつもりはない。なんてったって、俺はシドに嫌われているのだから。
死んだように眠って、そのまま死にたい。シドに嫌われた俺なんて、もう生きている意味が無い。
舞踏会にももう金輪際行かない。仮面も捨てよう。舞踏会関連のものが目に入るだけでイライラする。そしてシドのことを思い出して死にたくなる。

それから俺は、1週間風呂にも入らず、食事もまともに取らず、ただひたすら、ベッドに寝転がって空を仰いでいた。
それなのに。

「……ギャレットさん?」

1週間後、舞踏会に来てしまっているのは何故だろう。
堪え性のない性格がここでも出てしまったか。
シドを目の前にすると、以前は感じなかった少しばかりの恐怖を感じる。嫌われている、という、恐怖。

「前回、参加していませんでしたよね?……会えなくて寂しかったです。あなたと踊りたかったのに。今日は踊ってくれますよね?」

シドは距離を詰めて俺の手を取り引き寄せてそう言う。
なぜだ、なぜそんなことを言うんだ。
シドは俺のことが嫌いだろう?嫌いな相手にそんなことは言わないだろう。いや、俺の好意を知って弄んでいるのか?
自分で嫌な方向に考えてしまうが、シドはそんな人では無い、と自制する。
……それじゃあ、なんで。
嫌いだったらこんなことは言わない。ボディタッチもしない。
それじゃあ、本当に――
ただ、恥ずかしかっただけ?

「……ギャレットさん?」
「……っ!」

そうか。ただ恥ずかしかっただけなんだ。
それにしても、シドも俺と踊りたいと思ってくれているとは。もしかして、シドも俺のことが好きなのか?
いや、勘違いかもしれない。調子にはのらないでおこう。

「……俺も、踊りたい!踊ろう。一緒に。」

夢みたいだ。また、シドと踊れる日が来るなんて。
もう一生踊れないかと思った。よかった。ああシド。大好きだ。その目も口も髪も喉も胸も脚も大好きだ。




「ただいま〜!!」
「ギャレット!お前、やっとベッドから出て……」
「舞踏会、行ってきたんだ。」

俺は未だ夢見心地のまま家に帰ってきた。にやけがとまらない。こんなのではニックに何があったのか問われてしまう。

「お前……!!俺は感動したよ。風呂にも入らない、何も食べない、そんなお前が……まさか外出するなんて!」
「言い過ぎじゃないか?」
「言い過ぎじゃない。俺は本当に心配してたんだぞ……」

そうか、心配させてすまなかった、でももう大丈夫だ、と返答して俺は部屋に戻る。

今日で10月の舞踏会も終わり。
次の舞踏会からは1ヶ月間隔となる。
シドに会える回数が減るのは本当に辛い。
俺は人が嫌いだし、なるべく人と話したくないが、シドとなら毎日会っていたい。毎日話していたい。
しかしそんな思いも虚しく、次の舞踏会は2週間後。
やるせない思いを抱えたまま、俺は眠りにつく。





『こんにちは。お話したいことがあるので、明日、城の傍の服屋の裏に来てくださいませんか?』

シドから1件のメッセージ、それを確認するとこんな内容だった。
まさか、まさかシドからプライベートで会う約束をもちかけてくれるなんて!
俺は興奮していた。一度は断られたら誘いだ。まさかあっちから誘ってくれるとは。
断る理由は無い。むしろ会いたい。本当に会いたい。
ああ。仮面の下が見られるのだ。嬉しい、なんて嬉しいことだろう!
とにかく明日だ。楽しみだ。
そして……話したいこと、とはなんだろうか?
まさか、俺のことが……
いや、そんなことはありえない。妄想の中だけに留めておこう。
俺は期待に胸をふくらませながら、明日に向けて風呂に入った。


やって来てしまった。
いざ、シドとプライベートで会うとなると吐きそうなくらい緊張する。シドの私服はどんなものなのだろう。ああそうだ、まず、シドの私服を気にする前に自分の私服を気にしなくては。
そう思いショーウィンドウに映る自分の姿を再確認する。トップスよし、ズボンも悪くない。恐らく大丈夫なはずだ。
ちなみにこれはニックに選んでもらった服。俺は服のセンスも無いようで、自分の選んだ服を来て村を歩いたら、村民ほぼ全員に2度見された経験がある。だから自分の服のセンスは信用していないのだ。
そんなことを考えながらシドとの待ち合わせ場所へと向かっていく。シドはもう来ているだろうか。早く会いたい。シドの素顔が知りたい。
服屋の裏まで来ると、男の後ろ姿が見えた。

「……シド!」
「……ギャレットさん。」

男がこちらを振り向く。その顔には仮面がついていた。
なんだ……と落胆すると同時に、シドの私服という新しい姿を見られたことに喜びを覚える。

「……それで、その、言いたいことって、」

そう。俺が1番気になること。彼は何が言いたいのか。何を俺に言いたいのか。

「ああ……その話ですね。ギャレットさん、貴方は僕のこと……好き、ですよね?」

なんて直接的に聞いてくるんだ。もう言葉にしなくても分かっていることだろ。俺の口から言わせようとしているなんて。意地悪だ。そんなところも愛おしい。

「……ああ。好きだ。シド。」
「ふふ……それじゃあお願いです。」

なんだ?
シドがお願いと言った瞬間、その場の雰囲気が変わった気がする。

「僕と――心中してくれませんか。」




「え?」

心中?何を言っているんだ、シド。
俺なんかは死んでも誰も困らないし誰も悲しまないが、シドはたくさんの人に愛されている。居なくなってしまったら悲しむ人が必ずいる。
……そう、俺の理性は言っている。しかし本能は真逆のことを考えていた。
シドと心中できるなら本望だ。シドと共に死ねるなんてなんて最高なことなんだ。この上ないくらい素晴らしいことだ。ああ神様。ありがとう。シドと俺を出会わせてくれて。


「ダメ、ですか……」

「いや、そんな訳ない!……しよう。心中。」






決行日は次の仮面舞踏会の日。
城の東塔8階ベランダにて。

俺は自身の身の回りを片付けていた。ニックに気づかれないように。
ニックはなんだかんだ俺の事を大事に思ってくれてるから、死ぬなんて言ったら、もし死ぬことを勘づかれたら、止められてしまうだろう。俺とシドの間に邪魔者は要らない。俺とシドだけの世界を邪魔するな。
普通ならここで、シドはなぜ死にたいんだろうとか考えるものなのかもしれないが、俺はそんなことを考えている余裕はなかった。シドが俺と、他の何者でもないこの俺と、心中したいと言っている。
ああやっぱり、シドも俺のことが好きだったんだ。
最期を俺と共にしたいなんて、最上級の告白だろう。
大好きだ。シド。一生。死んでも。


「ギャレットさん、最期は共に踊りましょう。」
「ああ。もちろん。」

もうこのシドの踊りを見られるのも最後か。いや、俺たちは今から心中するんだ。最後じゃない。これからが始まりなんだ。ああ。もうシドは俺のものだ。
こんなに大勢の目にさらされて、歓声を受けているこの目の前の男は、これから俺と心中するんだ。もう彼の全ては俺のものなんだ。
やはりシドの踊りが俺は大好きだ。大好きで大好きでたまらない。俺はこの男に出会って全てを狂わされてしまった。
しかしそれを悪いことだとは思っていない。シドに出会えて本当に良かったと感じている。シドに出会わなければ、こんな気持ちにはなれなかった。
そう。シドは、俺が人生で誰よりも愛した――


人 生 で 誰 よ り も ?


本当にそうか?俺はなにか大切なことを忘れている気がする。
しかしそれを思い出せないまま、俺はシドとの最後の踊りを終えてしまった。






10月の冷たい風が俺の髪の毛を乱してボサボサにする。

「ああ……僕はやっと、死ねるんですね。」

そう言いながら、踊りで鍛えられた体幹をフル活用し、シドはベランダの柵の上に立ち上がる。
そして、シドに誘われて俺も柵の上に立つ。

「長かった……そして、ギャレットさん。」
「……」
「心中、承諾してくれてありがとうございます。」

仮面で顔の上半分は分からないが、この男は笑っている。
そして、俺も。
これから起こることを考えると笑わずにはいられない。

「……もちろん。シド、貴方となら、どこまでも。」
「ふふ……ありがとうございます。」

笑う姿でさえ愛おしい。
もうシドを見られるのは最後なのだ。
大好きな髪も、口も、胸も、脚も、これが最後。
目に焼き付けておこう。愛した男の姿を。

そう、まじまじとシドを見つめる。

「そんなに見つめないでくださいよ……恥ずかしいです。」
「いやっ!、す、すまん。」

ああ、その恥ずかしがる姿も大好きだ。
俺はシドの全てが大好きだ。

「本当に……いいんですね?僕と、死んでも。」
「もちろんだ。もう……覚悟は出来てる。」

もう、覚悟は出来ている。そう自分で言葉にして、いよいよ覚悟を決める。
俺の人生も終わりだ。


「それじゃあ……最後にひとつ。」


そう言って彼は仮面を外す。

仮面の下を見ることの無いまま死ぬと思っていたから、俺の心拍数は急上昇。
さあ、どんな顔をしているんだ。早く見せてくれ。




「この顔に……見覚えはないか?」



――仮面の下は、端正な顔立ちであった。
たしかに、そこにはシドの素顔があった。




視界が歪む。なにか大事なことを忘れている気がする。
俺は頭を抱える。
何だ、何を忘れているんだ、俺は。
大切なことだった気がする。なんだ、なんなんだ。





「思い出せないんですね……その程度だったってことですか。」




何を言っているんだ?
目の前の男に不信感を抱く。
こんな感情をシドに抱いたのは初めてだ。




「『記憶を封印した』そうは言っても、頭のどこかには絶対にあるはずだよ。この顔が。」




シドの語調が強まる。
怖い。俺が何をしたって言うんだ?
『記憶を封印した?』誰の話だ?俺じゃない誰かと話しているのか?シドは。




「さあ、もう時間だ。あまりこの場所に居すぎると、警備が来てしまうね。」



そう言いながらシドは俺の背中に手を添える。

しかし、今の俺はシドに触れられても何も感じない。
――むしろ、恐怖すら感じる。









「正解は――お前がぐっちゃぐちゃにした、エルズバーグ家の顔だよ。」



背中に走ってきた鈍い痛み。
急に襲ってきた浮遊感。
そして、俺を襲ってくる強い風。



――ああ、俺は、最初から騙されていたのかもしれない。


風の抵抗に反発しながら己が落とされた方向を見る。


シドは笑っていた。
これまでに無いほど。


そして、その顔は――



過去に俺が狂うほど愛した女、そのものだった。






















「ふう……やっと死んでくれた。」

僕はアイツが落下死したのを確認して、証拠隠滅をはかる。
ドアの指紋を拭き取り、もといたホールへと戻る。

目的は果たした。
そう思うと心の底から笑いが込み上げてくる。

「……あはははははははははははは!!!!!!!!」

その笑い声は夜空に消えていった。












リディ・エルズバーグ。

カルカダール共和国の西の村で暮らしていた女。
ロドニー・エルズバーグとシェマー・エルズバーグの母であり、ナサニエル・エルズバーグの妻。

そして、エルズバーグ家を崩壊させた張本人。


リディは、ギャレット・ノースモアという男と不倫関係にあった。

リディは42歳、ギャレットは20歳であった。
年齢差こそあったものの、互いを愛しあっていた。


しかし、このギャレットという男がリディを強く恨み、憎み、最後には自身の手で手にかけたのである。


その理由は、リディがなかなかナサニエルと離婚をしないこと。

リディはギャレットと結婚しようと前々から話をしていた。だからナサニエルとは離婚する。そう言っていた。

しかしリディはいつまで経っても離婚をしない。

するとギャレットは本当にリディが自分のことを好きなのか疑うようになってしまった。

疑うようになってしまってからは、ギャレットのリディに対する態度が一変した。

暴言を吐き、強く当たる。
酷い時には暴力を振るうことさえあった。

そんなことが続くようになり、いつしかリディのギャレットに対する愛情は薄れていった。

愛情が薄れていく、それは相手には意外と分かってしまうものだ。ギャレットもその類だった。

リディの心が自分から離れていっていることに気づいてしまったギャレットは、リディを愛しながらも、強く憎むようになった。

そして事件は怒った。
引き金は、リディがギャレットに、『もう関わるのをやめよう。この関係も終わりにしよう』そう告げたことである。

ギャレットは怒りから暴走した。
キッチンから包丁を取りだし、リディの腹部を一突き。

リディは血を流し倒れた。それでもギャレットの怒りは収まらない。
ギャレットはリディが息を引き取ってからも、包丁で刺し続けた。

リディの遺体は痛々しいものだった。

その後、ギャレットは西の村から逃げ出し、カルカダール共和国外れの村へと居住地を変えた。
記憶を封印し、リディのことを忘れて。
いつしか彼は、エルズバーグという名も忘れてしまった。

話は飛んでしまうが、リディには家庭があったのである。
先程の、ロドニー・エルズバーグと、シェマー・エルズバーグ。リディとナサニエルの息子。

この2人はギャレットに強い憎しみを抱き、ギャレットに復讐することを決意した。

ロドニーは『ニック・エルズバーグ』、そして、シェマーは『シド』という名を使って。












「兄さん、祝杯って……僕、まだ19歳なんだけど?お酒は20歳から、だよ。」
「まあまあ……そんな表面的な言葉なんてどうでもいいだろう。シェマー。」

僕は兄さんに、ギャレットへの復讐を果たしたことの祝杯を交わそうと誘われ、城の近くの高級個室レストランへと足を運んだ。

「それにしても……久しぶりだな。」
「そうだね。兄さんの顔を見るのも何年ぶり?3年ぶりとかじゃない?」
「3年ぶりか……大きくなったな。お前も。」

それじゃあ本題に入ろうか。と兄さんは真剣な顔になる。

「お前……よくやってくれた。」
「そんな事ないよ……ほとんど兄さんの下積みのおかげだよ。」

その通りだ。ほとんどが兄さんの下積みのおかげ。
むしろ僕なんて美味しいところだけかっさらっていってしまった。

「大変だったよ……あいつに取り入って、『友達』という立場を得るまで。」

だろうな。と僕は思う。
僕が見たのは舞踏会での姿だけだが、あの感じでは普段の生活からだらしなく、人と関わらなそうだろう。
そして、人間が嫌い。
そんな雰囲気を漂わせていた。

「兄さんはすごいよ……僕だったら、友達って立場を確立する前に、恨み殺してたかもしれない。」
「はは……まあ、人には得意不得意があるからな。俺はそれが得意だっただけだ。」

でも、1回やらかしたことがあって、と兄さんは話し始める。

「城下町への引越しの書類を偽名で通そうとしてしまったんだ。それがバレて、一度止められた。幸い注意力散漫なギャレットにはバレなかったがな。」
「兄さんでもドジをすることがあるんだね。でも、上手くいったなら大丈夫だよ。」

はは、そうだな。と兄さんは笑う。

「兄さんはこの国のことを徹底的に調べあげて、仮面舞踏会があることを僕に教えてくれたんだ。舞踏会が無ければ、アイツを殺すこともできなかったよ。」
「本当に都合が良かったよな。顔が見えなくて、かつ不特定多数と出逢える。」

そう。仮面舞踏会は元々城下町のイベントの中でも小規模なものであった。それを兄さんは調べて、俺をダンスの教室に通わせて、その中に放り込んだ。
そして、兄さんの目論見通り、仮面舞踏会は瞬く間に大規模なイベントへと変わっていった。

「そういえば、アイツ、ストーカーしてたらしいが、お前、何もされてないよな?」
「流石にストーカーされてたら気がつくよ……違う人を追いかけていたんじゃない?よくもまあ、そこまでするもんだよね。」

僕はストーカーされていない。きっと違う人を追いかけていたのだろう。僕の姿すらも覚えられないなんて、ギャレットは頭が悪い奴なんだな。

「でも、ギャレットは本当にチョロいよね。僕が少し甘い言葉を掛けただけで、すぐに僕に落ちた。」
「お前は確かに人を惹きつける魅力があるが、まさかギャレットにあそこまで惚れ込まれるとは思ってなかったよ。」
「母さんに似てたからじゃない?仮面してても雰囲気とかは隠せてないのかもね。意外と。」

そうかもな、と僕たちは一緒に笑う。

「そういえば……僕、プライベートで合わないかってアイツに誘われたんだ。もちろん、会いたくなんてないから断ったけど。」
「お前……それのせいかは知らんが、アイツ、すごい落ち込んでる時期あったぞ。舞踏会にも行かなかったくらい。」
「ああ……1回来なかった時あったのは僕が断ったからなんだね。」
「本当に焦ったんだからな……このまま舞踏会に行かなかったら殺せるものも殺せないってな。」

大丈夫だよ、だって次の回は来たもん。と僕は兄さんに言う。兄さんもそうだな、と笑い話は盛り上がる。

「それにしても……なんで、ギャレットは母さんを殺したんだろうね。」
「さあ……アイツのことだから、特に理由なんてないだろ。」
「ははは。そうだね。ギャレットはそういう奴だ。」


ガチャ、と個室の扉が開く。

「お待たせしました。こちらワインでございます。未成年のお客様にはジンジャーエールです。」

そう店員は言い残して部屋を後にした。
僕は渡されたジンジャーエールを手に取る。


「それじゃあ、果たした復讐を祝って。」


静かな月が佇む夜に、僕たちは乾杯を交わした。

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